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「そんなことがあったとは……お二人とも、怪我がなくて安心しました。岩亀楼の件については、私の方で手配しておきますね」
パンッと手を打つ佐野とは対照的に、雄斗は訝しげな表情を浮かべる。
「佐野さんが?……なんか手があるのか?」
柔和で人望がある佐野だが、岩亀楼は高島町遊郭の中でも、屈指の大見世だ。ふらりと行けるような場所ではない。茶屋を通して取り次いでもらわなければ、門前払いを食らう格式高い見世である。
横浜で、そこそこ顔が利く雄斗とて、桐嶋の名を使うつもりだったというのに。
「心配いりませんよ、雄斗さん。スー・山田さんを使えば、穏便に、迅速に、席を設けることができるでしょう」
「ああ!なるほどな」
異国人の接待ともなれば、茶屋も難色を示すことはないだろう。しかしそうなると、遊女はスー・山田に酌をすることになる。それで、岡倉が満足するとは思えない。
そんな雄斗の懸念は、顔に出ていたのだろう。佐野は、慌てて補足する。
「スー・山田さんは、ああ見えて上手に立ち回れる人ですし、岡倉殿とも面識がありますから、ご心配には及びませんよ」
「……は?……二人が知り合い……だと?」
聞き捨てならない佐野の発言に、雄斗の双眸が鋭くなる。
「あれ?雄斗さん、二人が飲み仲間だったのご存じなかったですか?」
驚く佐野には悪いが、全く知らなかった。
御者であるスー・山田は、馬の世話と、雄斗の送り迎えが仕事だ。言い換えると、それ以外、やることがない。
百日紅の館で働く使用人に、雄斗は寛大だ。仕事さえきっちりやってくれれば、私生活に口を挟むことはない。
しかし雄斗は今、己の無関心さをものすごく後悔した。
「くそっ、あの野郎……」
「まぁまぁ、その……雄斗さんも色々思うところはおありだと思いますが、今回の件に限っては、スー・山田さんの助けが必要不可欠なので、大目に見てやってくださいな」
「……とりあえず、わかった。悪いが岩亀楼の件は佐野さんに任せる。俺が動くと、スー・山田が御者だと気づかれる可能性があるしな」
「ええ、茶屋の源さんにも、そろそろ付け届けをする時期ですから、明日にでも顔を出してきます」
にこりと笑った佐野は、横浜で一番頼りになる男である。
そんな佐野はドヤ顔を決めることなく、今度は瑠華に視線を向けた。
「ところで瑠華さん、今日のことでおわかりになったと思いますが、横浜はとても治安が悪いです。雄斗さんが、外に出るなと言ったのは、昼間のようなことが頻繁にあるからなんですよ」
「でも……私……」
「人探しをしたい気持ちはわかります。ですが、瑠華さんが怪我を負って動けなくなったら、元も子もありません。探し人を見つけたら、瑠華さんはやりたいことや、伝えたいことがあるのでしょう?それができなくなってもいいのですか?」
「嫌……です」
「なら、今後は無茶なことをしない。約束できますか?」
「ぅ、ぁ……は、はい。約束します」
決して声を荒げることなく丁寧に諭す佐野を見て、雄斗は一生かかっても出来ない芸当だと心の中で絶賛する。
瑠華といえば、やっとことの重要さを理解したのか、深々と頭を下げた。
「優斗さん、佐野さん。あの……ごめんなさい」
「いや、わかればいいんだ」
「そうですよ。さ、顔を上げてくださいな」
すぐさま雄斗と佐野は、瑠華に優しい言葉をかける。しかし、一瞬、佐野が眉間を揉んだのを、雄斗は見逃さなかった。やはり、さすがの佐野でも、多少は疲れたようである。
雄斗の視線に気付いてない佐野は、のんびりと席を立ち、窓を覗き込んだ。
「丁度よかった。雄斗さん、馬車が到着しましたよ。今日はお疲れでしょう。後のことは私がやっておきますから、お帰りください」
佐野の言葉に、雄斗は素直に頷いた。確かに今日は色々とありすぎた。昨日からの寝不足も、こたえている。
「そうだな。おい……瑠華、帰るぞ」
長椅子の背に掛けてある上着を片手に持ちながら、雄斗は声をかけたが、瑠華は動かない。
(俺、そんなに怖がらせたか?)
感情に任せて怒鳴りつけた自覚がある雄斗は、冷や汗を垂らす。
「あー……別に、お前を叱ったわけじゃない。俺は、地声がでかいんだ。ただそれだけだから気にするな……次からは気を付ける。その……悪かった」
最終的に謝罪する雄斗は、我ながらみっともないと思う。しかしこれまで、女性関係で苦労したことがない雄斗は、どうしていいのかわからない。
(岡倉殿なら、うまく空気を変えることができるんだろうな……ちっ)
女癖の悪さを真似たいとは思わないが、今だけは岡島の軽さが羨ましい。
とはいえ、一朝一夕で身に着ける技ではないので、雄斗は強引に瑠華を立ち上がらせて、事務所を後にすることしかできなかった。




