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冬来りなば、恋遠からじ  作者: 当麻月菜
横浜と振袖新造
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 人は、望む望まないに限らず、厄介事に巻き込まれることがある。

 そして、平穏な日々がいつまでも続くとは限らない。


 今にしてみれば、あの日の出来事は、小さな小さな厄介事の一つでしかなかった。


 まさかあれがきっかけで、自分の人生が大きく変わるなんて──いったい誰が想像しただろう。


   ◆


 肩に担いだ荷物に気を配りながら、桐嶋雄斗(きりしま ゆうと)こと雄斗は、裏路地を疾走していた。肩にかかる不揃いの髪が、軽快に揺れている。


 季節は初秋。爽やかに澄み切った秋空には、夏の余韻を残した日差しが降り注いでいる。


 少し動くだけで汗ばむ陽気の中、疾走し続けている雄斗の頬には長い前髪が張り付いてる。


 22歳の青年にしては、少し幼く見える整った顔が台無しになっているが、今はなりふり構っていられない。


 横浜港と外国人居住地とを隔てる路地まで来ると、雄斗は息を切らしながら荷物に声を掛けた。


「はぁはぁ……あと少し、だから……はぁはぁ……我慢しろ……」


 視界の先には、二階建ての洒落た西洋建物がある。そこは雄斗が経営する事務所で、扉の入口には『銀杏堂』と堂版に彫刻された看板が、少々左に傾いて掲げてある。


「よし!追手は来てないようだ……な!」


 すばやく左右を確認すると、雄斗は事務所の扉を勢い良く開けた。


 すぐさま、入り口に取り付けてある鐘が、からんころんと間抜けな音を立てる。今日に限っては、この音は、心臓に悪い。


 ちっと舌打ちをした雄斗は、一気に階段を駆け上ると、室内へと滑り込んだ。


「はぁー……到着っと」


 安堵のため息を一つ落として外套に包んでいる荷物をそっと床に置くと、本棚の影から一人の男が、ひょっこり顔を覗かせた。


「おかえりなさい」


 にこやかに出迎えたこの男は、三十代半ばの優男。丸眼鏡が特徴で、名を佐野平吉(さの へいきち)。通称”さのきち”と呼ばれ、銀杏堂で唯一の従業員である。


 雄斗の右腕として働く佐野は、語学は堪能で、機転も利く。加えて柔和な物腰のおかげで.、交渉ごとにおいては過去の一度も揉め事はない。


 勿体ないほど有能な彼だが、彼自身の過去は全くの不明である。


 とはいえ、わかる人にはわかる。雄斗同様に洋装に身を包む佐野は、一見ひょろりとした体格に見えるが、手のひらには剣士独特のマメがあり、身のこなしも隙が無い。


 そして眼鏡の奥の左右の瞼には、一文字に刻まれた傷跡がうっすらとある。これが過去に関わることだと思うが、雄斗は触れないでいる。


 動乱期を駆け抜け、たくさんの血が流れて開国したのだ。このご時世、誰にでも一つや二つ、触れられたくない傷があるはずだ。


 そんなふうに雄斗は見て見ぬふりができるというのに、佐野はそれができない質だった。


「随分と早いお帰りでしたね」


 佐野は意味ありげに微笑むと、僅かに視線を下にずらす。雄斗の眉がピクリと跳ねた。


「やっぱり外套は必要だったでしょう」


 表情の変化に気づいていも、にっこりと笑みを浮かべる佐野に、雄斗は今度は大人げなくも、そっぽを向く。


 その瞬間、返事を拒んだ雄斗の代わりに、荷物を包んでいた外套がはらりと床に落ちた。


 外套に包まれていたのは、まだあどけなさを残す、美しい少女だった。


 しかし、この少女の身なりは特殊だった。下品な緋色の振袖に、派手な簪。見る人が見ればすぐにわかる。少女は振袖新造──付け出し直前の遊女だったのだ。


 異国情緒あふれる一室に突如遊女が現れたら、たいていの人は驚くところだが、佐野は全く動じなかった。


「いらっしゃいませ、小さなお客様。さっどうぞ、こちらに」


 まるでこの状況を予測していたかのように、佐野は応接間のほうへ手を指し示した。


「……突然、すいません」


 少女も、萎縮するどころか、落ち着き払った様子で、佐野にぺこりとお辞儀をする。


「いえいえ、とんでもない。こんな可愛いお客様なら、いつでも大歓迎ですよ」


 佐野の柔和な笑顔につられ、少女はほんの少し表情を和らげた。


「そう言ってもらえると、ありがたいです。あと、このお部屋は……土足のままでもいいのですか?」

「ええ、土足のままで大丈夫ですよ。お嬢さんは、洋風建築は初めてでしたか?」

「はい、そうなんです。話には聞いていたのですが、いざ土足でいると、申し訳ない気がしちゃって」

「ははっ、わかります、わかります。私も最初はどうも落ち着かなかったんですが、すぐに慣れますよ」

「そうですか。良かった……へへっ」


 ほのぼと笑い合う二人だが、佐野は「あっ」と短く声を上げると、軽く両手を打ち合わせた。


「立ち話をさせてしまい、失礼しました。さあさあ、お嬢さん。どうぞ、お座りください。九月とはいえ、外はまだ暑かったでしょう。すぐに冷茶を入れますね。あっ珈琲もありますよ。どちらがお好きですか?」


 佐野の質問に、少女は一考した後、口を開いた。


「お言葉に甘えて……冷茶をお願いします」


 雄斗は佐野さんと少女を交互に見つめながら、眉間に深い皺を刻んだ。


(お前ら、馴染みすぎだろ……!!)

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