1/平凡な話。
(最近暑いので)初投稿です。良ければ見てやって下さい。
ソレとは、月の綺麗な夜に逢った。
銀。
逆さのまま墜ちてきた銀。まるで空から降る彗星のように飛んできたソレは、背の黒い翼で空を掴むようにバサリと羽音を立てていた。
真っ逆さまのソレは、俺と目が合った。眺めていた月のように煌びやかな金。感情が覗けないような目、その目は奥が覗けない癖に俺の中を覗かれているように錯覚するほどに真っ直ぐで。
逆転したまま目が合ったソレは俺の目の前に墜ちてきた。
ソレはそのまま一瞬で視界の下へと消えていった。耳には風切り音が残り、今見たものが夢幻でも気のせいでもない事を表していた。
止まっていた呼吸が再開して、なんだ今の、と手に持っていた煙草が手からポロリと落ちると共にまたソレは姿を現した。
下から飛んできたように、黒翼を翻して宙をたゆたうソレは女だった。
人間離れした美貌の、天使。
頭の上には翼と同色の光輪が煌めいて光り、人ではない何かだという事を示していた。人間という種族よりも上位の力を持った、何か。
ソレは俺の前で浮遊したまま、ただ俺を見つめる。
まるで何かを待つように、俺の何かを求めているかのように。覗かれているような錯覚をするその瞳の奥にふと、寂しさが見えたような気がして。
数秒、静寂が流れて、俺は。
俺は______
***
「淵見くん」
ハッとする。
「……おはよ」
「うん、おはよ」
どうやら寝てしまっていたらしい。瞼を開けば、俺を起こしてくれていたであろう酒村さんがにこりと微笑んでいた。
俺の顔を覗き込んでいた彼女はそっと離れ、はい、と手に持っていたペットボトルを手渡してくれる。ありがとう、と受け取って中の水を一口飲む間に、酒村さんは「よいしょ」と俺が座っているソファの隣に腰掛けた。
「寝不足だったの?」
「……ちょっとね」
「駄目じゃんちゃんと寝なきゃ。体壊しちゃうよ?」
「平気平気。こんなんじゃ壊さないよ」
「そう言ってる人ほど壊すんだってば」
呆れたように溜息を吐く酒村さんはジトッとした目をこちらに向けてくる。その目線から顔を背けつつソファから立ち上がる。
仕事の休憩時間の終了手前には毎度休憩を取る前にアラームを掛けているので、鳴っていないという事はまだ休憩時間だろう。スマホを見てみればまだ休憩時間には少し余裕があった。
「酒村さんも休憩?」
「うん。今暇だから、入っちゃってーって店長が」
「あれ、店長いたっけ今日」
「今日は暇になったから来たんだって」
「え、珍しいね」
「なんでも修羅場を超えてきたらしいよ」
「あー……」
脳裏に死んだ目の丸眼鏡の店長の姿が浮かび上がる。
うちの喫茶店の店長は、趣味で喫茶店を経営していて本職は別なのだ。曰く大人気漫画家らしいが、その大人気漫画家が喫茶店を経営する余裕などあるのだろうかといつも疑問に思う。そも趣味と本職が別なのではないのだろうか。
が、常日頃から頭のネジがぶっ飛んでいるあの人ならあり得ると思うのも本当だ。イかれてはいるけど、スペックだけは無駄に高いのだ。
「あ、あと近々新人さんが入るって言ってたよ」
「……客少ないのに人増やすの……?」
「あたしも同じこと言ったら、”大丈夫!金ならある!”って」
「どんだけ稼いでんだあの人……」
二人して怖い怖いと自称大人気漫画家を考えて肩を竦める。本当に何で経営が成り立っているのか分からないほど、この喫茶店は客足が少ないのだ。
ここに勤めて数年経つが、仕事の思い出はほとんどが従業員との雑談で埋め尽くされている。確実に赤字だろ、とは思うが漫画家パワーでどうにかしているのかと思うと店長の本職の人気ぶりが伺える。
「新人さんは淵見くんに任せるねって言ってたよ」
「また?」
「淵見くん教えるの上手いし、適任なんだよ」
「酒村さんも教えるの上手いじゃん。優しいし」
「んーん?あたしは全然だよー」
「そんな事ないと思うけど」
新人が入る度、育成は俺に一任されるのがここ数年で何度もあった。かつては酒村さんにも教えた身だが、今では仕事ができるのは酒村さんの方だ。
物腰も柔らかだし教えるなら彼女が適任だとは思うのだけれど……と考えていると。
キィッと休憩室の扉が開かれて、奥から呻き声とともにふらふらとした足取りで丸眼鏡をずり落とした女性がやって来た。
「ふ、二人ともぉ……」
「店長!?どうしたんですか!?」
「やっぱ修羅場終わりのハイな状態で来るんじゃなかったぁ……つらいくるしいねむい……」
「来た時あんなに元気だったのに!?」
「あの時は乗り越えた達成感で脳汁が止まらなかったからね……今もう無理……」
「何回やったら学ぶんですか店長……」
「いけるって思ったんだよ……今回は行けるって……」
修羅場超え脳汁大量分泌モードが途切れた店長を、二人してソファーに寝かせてあげる。心配そうな酒村さんを傍に、俺はため息交じりに常備してある掛け布団を棚から持ってくる。
「私天才だから余裕、って言ってましたよね今回」
「最初は順調だったんだよぉ……でもなんか気に入らなくてぇ……」
「全部捨てて書き直したんすよね馬鹿なんですか?」
「馬鹿じゃないもん天才だもん……」
「はいはいさっさと寝てください」
掛け布団を掛けてやれば「ぐわーこんな雑に掛けられたら寝れなすやぁ……」と静かになった店長を尻目に、また溜息を吐く。悪い人じゃないし優秀なんだけどただ馬鹿なんだ。とてつもなく。
そもこの喫茶店を作った動機も”顔がいい子集めてコスプレさせてでゅふでゅふしたい”という訳の分からんものだ。本当に趣味の為に身銭を切ってここまで行動する人を、俺はこの人しか知らない。
まじでなんなんだろうこの人。
「酒村さんはまだ休憩入ってて。俺出てくる」
「え、あたしも行くよ」
「休憩入ったばっかでしょ」
「あー……いや、割と淵見くんと同じくらいだったよ?」
「でも俺の方先に入ったし。休んでて」
「待って」
ぱし、と進ませた体を止められる。酒村さんは手首を掴んで、俺の目を真っ直ぐ見据える。
「煙草」
ぴくっ。
「吸いたいでしょ」
「はい」
口からは肯定の声が脊髄反射で出てしまった。しまった。
「だよね、休憩入ってすぐ寝ちゃってみたいだし」
「……休憩時間は平等に与えられるべきだからまだ酒村さんは休むべき……」
「吸いたい気持ち出てきちゃって早口だね」
「煙草のせいで酒村さんの休憩時間減らすのは……」
「じゃあ後でまた頂戴?どうせ暇だろうし」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
神かよ。結婚してください。
「とりあえずゆっくり吸ってきてね。急がなくて大丈夫だから」
「ありがとう、このお礼はすぐに」
「そんな気にしなくてもいいのに」
可愛らしくころころと笑いながら、酒村さんは「じゃあまた後でね」と休憩室を出て行ってしまった。バタン、と扉が閉まる。
……容姿端麗で優しく明るく可愛く、そして何より煙草に理解のある彼女は本当に神ではないのだろうか……結婚したい……。そう思うくらいには輝いて見えた。まじで神。
お言葉に甘えて吸おう、と更衣室のロッカーにある煙草を取りに行こうとそそくさと足を進める。
「淵見くーん」
途中。後ろから声が掛かる。
「なんですか店長」
「いやあ。調子はどうだい?」
「いつも通りですよ。何事もなく」
「へえ。そいつはよかった。うんうん」
「なんですか急に。寝てたんじゃないんですか?」
「なあに、目が覚めたからね。ただの世間話だよ」
「さいですか」
振り返らないまま返せば、ソファーに寝たままであろう店長はけらけらと笑う。
「そういえば煙草を吸いに行くんだろ?酒村くんが待っているよ」
「そうですよ。行ってくるんで、店長は寝てて下さいね」
「はいはい」
会話聞いてたのかよ。全然寝てないじゃんか店長。
先ほどまでの情けないダウンした声音とは違い、今はいつも通りのひょうきんな声音だ。そんな徹夜明けのテンションがすぐ戻るとは思わないのだが、いつも気が付けばこの人はどんなにダウンしていても普段のテンションに戻っている。
回復早いんだなあ、とひらひらと手を振って扉のノブに手を掛けて。
「淵見君」
動きが止まる。
「何か変わった事があったね?」
気づけばすぐ後ろに店長が立っていて、囁かれるように訊かれた。
囁かれたのは質問。いや、質問というには断定に近いものだった。
思わず溜息を吐きながら、振り返らないまま言葉を返す。
「なんで確信持ってるんですか」
「匂いだよ。そういう匂い」
「匂いって……どんな鼻してんですか」
「へへへ。そんな褒めないでくれ」
「褒めてないです」
溜息一つ。
「変わった事はありましたけど、てか近いんで離れて下さい」
「ほう。近いのは悪かったね、ドキドキしたかい?」
「いや、シンプル臭いです」
「臭い!?仮にも女性になんて言葉を!?」
「風呂入って下さい」
「帰ったら入るよ!……それで?その変わった事ってのは?」
質問に肩を竦める。
ノブを開けて、後ろの興味津々な弾むような声から逃げるように休憩室から一歩をようやく踏み出す。
正体が掴めないような、不気味なような、気味が悪いような。背中に感じる視線に俺は頭を掻きながら応える。
「ちょっとした落とし物を拾いました」
ばたん、と扉が閉まる前に、隙間の奥から「へえ」といつもの店長の楽しそうな声が耳に届いた。
廊下に一人、店内に垂れ流されている穏やかな音楽を背中に、休憩室の向かいにある更衣室へ逃げるように入る。耳に囁かれた店長の声が、背筋に何かが這い回るような感覚を伴って残る。
普段おちゃらけて阿呆で馬鹿で救いようのない終わってる人なのに、時折見えるあの人が変わったかのように空気が変わる時間はいつまで経っても慣れない。
ロッカーを開けて中の煙草とジッポを取り出す。酒村さんを待たせているし、急がなくていいと言われていても気持ち的には早めにしなければと気が急いてしまう。
ロッカーの中に掛けてある私服のポケット、そこにしまっている煙草を取り出そうとして、なにかふわりとした物が入っているのに気付く。
はて、他に何か入れていただろうか。思いながらそのふわりとしたものを取り出せば、それは一つの黒い羽だった。
「…………」
鴉、の羽でもない。まるでお守りのようにいつのまにか俺のポケットの中に入っていたソレは、艶やかな黒を映えさせていた。
溜息が止まらない。見覚えのあるソレをポケットに仕舞い直して、ロッカーを閉じてさっさと外の喫煙所へと向かう。
喫茶店裏の出口のすぐ傍、路地裏には店長が設置してくれた灰皿がある。こうしてすぐタバコが吸えるところがあるというのは喫煙者からすれば大変嬉しい事である。ほんとに。
外へ出れば、店の中の音楽が更に遠ざかって消えて、街の喧騒が耳に入る。灰皿横に個人的に自腹で買ったチェアに腰掛け、煙草の箱をトントンと叩いて一本を取り出す。
「……あれ」
煙草じゃない。一本出てきたのは見慣れた茶色のフィルターの姿ではなく、丸められた紙のようだった。
首を傾げながら手に取り、丸めてあったそれを開いてみれば中身は一言が添えられた手紙だった。
『何か困った事があったら言ってくれたまえ』
簡素なメモ用紙には達筆な文字で、そう書かれていた。その独特の達筆な文字は明らかに店長の筆跡で。
「……こっわ。なにもかもお見通しかよ」
ああして声を掛ける前から、店長は俺に何かあったのを気付いていたらしい。こうして予め手紙を仕込む余裕があるくらいには早く。
あの何もかもを見透かして全てを知っているかのような底の見えない瞳を思い出して、身震いする。
こうして手紙を寄越されるのは初めてではない。過去に何度かある。
そしてその手紙が寄越された後には、必ず店長に頼らざるを得ない何かがある。つまりこれは予兆だ。
くしゃりとその紙を握り潰して灰皿の中へ放る。改めて煙草を一本取り出して、咥えて火を点ける。
吸って、吐いて。煙が昇る。脳に痺れるような幸福感をもたらす自律神経を満たすニコチンが回り、世界に色が戻るような錯覚が起こる。
彩りの戻った視界で、暗い路地裏から明るい空を見上げる。
「鬼、吸血鬼、悪魔……」
愚痴のように呻いて、また煙草を吸って吐く。
空はいつものように平穏な青色のままのんびりと雲が流れ、何事もないかのように日常の背景として生活と同化している。
蝉の声が聞こえそうなほどさんさんと照っている太陽が憎らしい。じりじりと照り付ける光がインドアよわよわ人間の体を焼く。吸血鬼ならば死んでるぞ。
ぼう、と空を眺める。
ニコチンが脳内の快楽物質を分泌するのを何も考えずに味わいながら、煙草の根元まで吸い切ってからじりっと灰皿で圧し潰す。これからの仕事のエネルギーを充填して、元気いっぱいな体をチェアから立ち上がらせる。
ニコチン中毒になってしまった不健康な体で伸びをして、不意に先程灰皿に投げ捨てた手紙に目を向ける。
何がある訳でもない。吸い殻だらけの灰皿の中に放ったそれは蓋の穴の奥へ消えて、もう見えない。
「……戻ろ」
酒村さんに貰った煙草休憩に心から感謝しつつ、早く戻って彼女を休ませてあげなければと足を急く。外のじわじわとした暑さもお腹一杯に味わい、早く店内の涼しいクーラーに当たりながら客の来ない労働時間を過ごそう。
急げ急げ。酒村さんは今頃暇を持て余しているぞ。そうして店内へ戻る途中。
_____ばさり
どこかから聞こえた気がする羽音を気のせいと意識から外して、俺は穏やかな音楽が満ちる店内へ戻った。
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