気持ちは伝わる
「死んでるじゃないか」
家内の死体を発見した時、そう、思わず素っ頓狂な声が出た。
どこか遠くから響いてくるような、他人事のような自分の叫び声を聞きながら、私はおや、と思った。
てっきり死体を発見した人間は、悲鳴を上げるとか、恐怖が襲って来るものとばかり思っていた。が、実際に口から出てきた言葉は、
「死んでるじゃないか」
だ。どうも人間、いざとなると映画やドラマのようにはいかないらしい。自分でも奇妙な感じだった。
別にこれは、何も私が人より優れて冷静沈着だった……なんて話でもない。私が落ち着いていられたのは……単純に家内の死体が驚くほど美しかったから……傷一つ付いていない死体に目を奪われていたから、である。
死体が発見された時、家内は裸だった。
風呂場で発見されたのである。時間は夜中の20時を回った頃だった。
眠るように死んでいたので、初め、それと気が付かなかったのである。
私と家内の間に子供はなく、もう何十年も二人きりで過ごしてきた。途中、犬を飼ったこともあったが、数年前に冬を越せずに死んでしまってからは、もう何も飼っていない。
「自然死じゃないんですか」
警察に呼ばれた当初、私には疑問だった。
なんと彼らは、妻には他殺の疑いがあるという。これには驚いた。
何故なら、そもそも傷一つ付いていないのだ。確かに家内はこれといった持病もなく、他界するような歳でもなかった。だが、それだけで他殺とは、決めつけもいいところである。私の問いかけに、しかし警察官は首を横に振るばかりであった。
「何故殺人だと?」
「死因が分からないからな」
狭い取調室の中で、男の低い声が反響する。
「分からない?」
「傷がないんだよ。毒も検出されていない。どうして死んだのか、さっぱり分からない。ただ死体だけが風呂場にあった」
私は首を捻った。
傷のない死体。
そんなことが有り得るだろうか。たとえ自殺するにしても、何かしら跡は残るものであろう。
「死因がわからない以上、こっちも原因を突き止めなくてはならん」
年配の警察官がフン、と鼻を鳴らした。私はしばらく呆然と彼のいる方角を見つめていたが、やがて我に返った。二人っきりの家の中で、妻が不審死を遂げた。警察が私を疑うのも当然の話だった。しかしこのままでは、私が犯人と言うことになってしまう。何とかして誤解を解かなくては。
自然死か、突然死か。
事故……傷の残らない事故なんてあるのだろうか?
それとも新種の病気か?
後の残らない薬だろうか?
たとえば感染症がある。
かの有名な黒死病だ。黒死病は流行したその当時、原因が全く解明されていなかった。治療法もなく、発病から24時間以内に死ぬケースもあり、中には町一つが消滅するレベルで死人が出た。当時、ヨーロッパの約3分の1の人が死んだ。当然中世の人々はパニックになり、黒死病の原因は『神罰』だとか、『惑星の並び方がいけないんだ』とか、オカルトめいた妄言が飛び交った。
・オリーヴ油や雨水で調理した食べ物を食べると死ぬ
・入浴すると毛穴が開き、空気感染して死ぬ
・大きな音は黒死病に効く。教会の鐘を鳴らすべし
……こんなことが真剣に議論されていた。そして大半の人々が、当時の専門家でさえ、それを大真面目に信じていたのである。
……しかしそこまで考えを巡らせて、私は首を振った。
今の今まで私は家内と同じものを食べ、同じ場所で暮らしてきた。もし感染症ならば、私に感染していないのはどういう訳だろうか? それに、感染症だったにせよ、死に至るまでには必ず症状が何かしら出るはずなのだ。息が苦しいとか血が止まらないとか……それすらもないのは、奇妙としか言いようがない。
では、あるいは寄生虫なんかはどうだ。
寄生虫は口や皮膚から体内に侵入し、外見には全く変化が現れない。症状が出ないこともある。世界では現在約12億人以上(!)が寄生虫に感染しているが、大多数は無症状である。中には人体の中で何十年も生きながらえる寄生虫もある。記録された中で、人から排泄された最も長いサナダムシは、約33メートルあったとされている。脳に寄生して、脳卒中を起こす虫だっている。
……しかし寄生虫にしろ、結局は感染症と同じ疑問に生き当たる。
死ぬ前に何らかの体調不良を訴えるはずで、それもないと言うのは、ますます変な話だ。
だとすれば、精神的な病はどうだろう。
巷では『指殺人』などという言葉も叫ばれているくらいだ。家内が、私の見知らぬところで誹謗中傷を受け、心身が参ってしまい……なんてことはないか。
コタール症候群というのがある。
別名『歩く死体症候群』とも呼ばれる。
この病気は『自分はすでに死んでいる』と思い込む精神疾患の一つである。妄想であっても、患者は本気で自分が死者だと信じている。患者は心臓や脳、手足など、自分の体の一部分が失くなったという感覚に取り憑かれる。手足が石になってしまったとか、あるいは機械になってしまったと訴える患者もいる。そして自殺を図ったり、自分を墓に入れてくれと要求しだすのだ。中には自分で棺桶の中に横たわり、数週間後、本当に死んでしまった女性もいるのだと言う。
……しかし妻の場合、前日までそんな兆候は見られなかった。
衰弱死するにしても、一日や二日では到達できまい。これも、傷一つ付いていない理由が説明できなかった。
突然死? だとしたら原因は?
傷跡も、病気でも自殺でもなく、酸欠も失血も、毒物さえも検出されていない。命だけが刈り取られる。そんな死が果たしてあるのだろうか?
「分かりましたよ!」
すると突然、取調室の中に新たな警察官がやってきた。銀縁の眼鏡をかけた若い警察官は、私をジロリと一瞥すると、年配の上司に足早に近づいた。一見無表情だが、よく見るとその顔には仄かに朱がさしていて、興奮が隠しきれていない。年配の方が目を丸くした。
「分かったって? 本当か?」
「やはり犯人はこの男でした!」
「私??」
警察官同士の会話に、私は目を白黒させた。
「とんでもない! 私は妻を殺してない。死因は何なんですか?」
「お前は黙ってろ! 今コイツは俺と話してるんだ」
「フォリ・ア・ドゥというのを知っていますか?」
銀縁の若手は私を無視し、上司にそう問いかけた。
「フォ……なんだって?」
「別名『二人狂い』『感応精神病』とも呼ばれる精神疾患です」
聞いたこともない病だった。
「つまり、本当に死にたかったのは、この男の方だったんです」
「私……?」
「どう言うことなんだ? 順を追って説明してくれ」
年配の上司が唸った。銀縁が頷いた。
「調べによると、容疑者は最近友達に事業が上手く行っていないと愚痴っていたそうです。その際、自死を仄めかすような発言もしたとか。自宅からは、書きかけの、容疑者の遺書も見つかっています」
突然、銀縁は私を睨んだかと思うと、有無を言わせぬ口調で問いかけた。
「貴方は死にたがっていた。そうでしょう?」
私は声も出せず、やってきた警察官を見上げていた。彼が手に持っていたのは、確かに私の筆跡で書かれた遺書だった。
「貴方の死にたいという思いが、伝播し、奥さんを殺したんです」
「思いが伝播、だって? そんなことが……?」
年配が口元に手をやり、短い首を大いにひねった。
「気持ちは伝わる、と言うことですよ。つまり奥さんは昨日まで普通の人に違いなかったが、容疑者の夫から『自殺願望』、貴方の妄想を共有してしまったのです」
私は驚いた。
確かに、私は事業に悩み、自殺を考えたこともあった。だけどそれだけで……他人の妄想を共有、だなんて……。
「あり得ます。精神科医が病みやすいのと同じです。何の精神病にも罹ってなかった健常者が、周りの精神病患者に看過される。これはある意味で『精神の感染症』と言えるでしょう」
「『精神の感染症』……!?」
銀縁が頷いた。
「それでなくとも、周りに影響される……というのは実際に誰しにも起こりうることです。有名人の後追い自殺であったり……たとえば広告を見て、その服が欲しくなるなんて誰だってあるでしょう? 容疑者の奥さんは非常に共感能力の高い人だった。ゆえに旦那の『自殺願望』を、あたかも自分のものと思い込み、死んでしまったのです」
フォリ・ア・ドゥ、感応精神病は、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で妄想を共有する病である。日本では『狐憑き』、『犬神憑き』と言った方が馴染みやすいだろうか。『アイツには動物霊が憑いている!』と、二人で、或いは家族で、多い時には村単位で妄想を共有しているのである。
21世紀になった現代でさえ、別に珍しい病気でもない。巷に溢れる陰謀論、インチキ宗教、オカルトまがいの健康食品……人は信じたいものを信じようとするのだ。そして仲間が増えれば増えるほど、妄想はより強固になっていく。その小さな妄想が、現実にも影響を及ぼし始めた時、その時……でも、だったら家内の死因は?
「奥さんはおそらくこの遺書を発見したんでしょう。それが原因で……」
「気持ちが、人を殺したって?」
それじゃまるで、呪いとか、そう言う類の話ではないか。上司の顔が途端に曇った。
「んじゃ何か? この男の遺書に書かれた『感情』が、感受性豊かな奥さんの心を刺激した。それで彼女はショックで死んでしまった……」
お手上げだ、とばかりに上司は両手を挙げた。
「んな、いくらなんでも非科学的な」
「ですが、誹謗中傷による自殺だって、社会問題になっているでしょう。文字が刃となるのなら、彼女の体には傷一つなく……うッ!?」
その時だった。
突然銀縁が、呻き声を上げてその場に倒れた。彼の抱えていた書類が床に散らばり、薄暗い取調室に鈍い衝突音が響いた。
「オイ!? どうした!?」
年配の上司が慌てて彼を抱き上げようとする。だが次の瞬間、年配の顔には深い皺が刻まれた。
「……死んでるじゃないか」
銀縁の警察官は、遺書を握りしめたまま死んでいた。そして、その遺書を不愉快そうにじっと見ていたもう一人の警察官も、やがて小刻みに痙攣し出し……。