プロローグ
雨の日はあの日を思い出す。
私はいつものように依頼を受け、いつものように依頼をこなし、いつものように拠点にしている街のギルドに報告に向かっていた。
代わり映えの無い、いつもの日常。
そのまま日常が続き、……そのうち依頼の失敗で野垂れ死ぬと思っていた。
そんな最期の予想があっても、家族の無い自分にはお似合いだと思っていたし、それ以外の選択肢など思いつかなかった。
依頼の帰り道で雨に降られるというのも、珍しくもない、いつもの出来事だった。
違う事といえば、少々雨脚が強かった事くらいだろう。
それにしたって、はじめてというわけではない。
雨をしのげる場所に留まらなければ、思わぬ事故に遭う。という事を経験している程度には、何度かあった事だ。
そして、目をつけた洞窟……いや、崖の窪みの中に、先客が居たことも、だ。
だが、不意打ちを受けたのは、その時がはじめてだった。
正直にいえば、そこにヒトが居るなど、考えもしなかった。──気配が無かったからだ。
完全な不意打ちに私は何も対応できなかった。
気がついた時には、私の首に手刀が添えられていた。
私に気付かせずに潜み、そして認識すらさせずに攻撃してきたのだ。
そして、寸止め……見逃された。
そこまで考え至り、私はこの襲撃者に恐怖した。あまりにも、力の差があり過ぎる。
「……すまんな。追っ手かと思ったのだ」
女の声だった。
だが、どこか苦しそうな声だと感じた。
瞬間、稲光が暗闇を照らし、女の姿を浮かび上がらせた。
──魔族。
青白い肌に金色の瞳。長く白い髪。
デーモンと呼ばれる魔族の一種。
冒険者をしていれば、何度か出会った事はある。
ヒューマンと同じく、悪人も善人も居るが、こうして魔族の領域を離れて人族の領域に来ている者はだいたいが、ハグレ者の悪人が多い。
だが、目の前のデーモンは邪悪ではないのだろう。……私を殺さなかったのだから。
いや、単にその力が残っていないだけかもしれない。
女は怪我を……いや、重傷を負っていた。
身体中至る所に引っ掻き傷のようなものがあり、あろう事か、右胸が抉られていた。
残った方もズタズタにされていた。
元は大きく、整い、美しかったのであろうが、その面影だけを残して無残な姿を晒していた。
稲光でその姿を確認したおかげで、暗闇に目が慣れる毎にどんどんと新しい情報が目に飛び込んでくる。
女はそんなボロ雑巾のような姿で荒い息をしていた。
当然だ。胸の傷だけでなく、身体中の傷から流れる血だけでも失血死するであろう。
むしろ、コレで何で生きているのか。
そして、女の背後にあるモノの正体も見て取れた。
最初は着替えか何かかと思ったが、よく見るとそれは赤ん坊だった。2人だ。
しかも、片方は女と同じ様に傷を負って死にかけているようだ。
そのくせ、もうひとりは無傷だった。
どういう状況なのか、全く不明だった。
「頼みがある」
私が呆けていると、女がそんな事を言った。
「な、なんだ?」
女は赤ん坊の元へ行くと、無傷な方の赤ん坊を抱き上げて私に押しつけてきた。
「この子を、連れて逃げて欲しい」
なんとなく思っていた事だが、女は何者かに追われていたのだ。
「……そっちの子は良いのか?」
そう聞くと、女は悲しそうに言った。
「死んだよ」
「……そうか」
何故ふたりはこれほどの違いがあるのだろうか?
片や傷だらけで死に、片や無傷で私の腕の中に居る。
「それで、この子の名前は?」
「その子は、マオ……ッ!」
女が息を呑む。
私も身体中に悪寒が走るのを感じた。
雨に濡れた寒さのせいでは、断じてない。
これまで感じたことのないような殺気だった。
「……頼んだぞ」
それだけ言って、女は死んだ赤ん坊を抱いて雨の中に飛び出していった。
殺気の主は、女を追っていた者なのであろう。
それを承知で雨の中に出ていったのは、隠れていても無駄だと判断したのか、あるいは……
「食事、できたよ」
その声で私の意識は現在に引き戻された。
あれから長い年月が過ぎ、私は年老いた。
託された娘を育てつつ、山奥で隠遁生活を送っていたが、そろそろお迎えがくる頃だろう。
死ぬ時は野垂れ死にだろうと思っていた自分だが、どうやらベットの上で死ぬことになりそうだ。
心残りといえば、未だ少年と見紛うような容姿のこの娘が、あの追っ手に見つからずに生きていけるだろうか。
という事だ。