第41話「猛き駿馬」
クロード・デュラスは神殿から抜け出た。
そこら中に、トトのメアヴァイパーの能力によって夢幻の中へと取り込まれた者たちの姿がある。
かつて喪った親と再会し、涙を流しながら歓喜する者。
ゼナン竜王国との戦で喪った友と再会し、お互いの苦労を労いながら感極まった様子で語りかける者。
死産した妻と共に、我が子をあやすように語りかける者。
その場は歓喜と喜び、そして穏やかな優しさに包まれていた。
それが、すべてただの幻であると気付かぬまま。
クロードは、以前報告を受けた踊り狂う修道女のことを思い出した。
彼女もまた、あの神剣の影響によって幻覚を見たのだろう。
そして、最後には餓死という結末に至る。
どんな治療を施そうとも、彼女が正気に戻ることはなかった。
むしろ彼女は、自分が今置かれている状況こそが正気そのものという体で振る舞っていたという。
喪った家族と再会した夢幻に抱擁されたまま、最終的には餓死を迎えた心境はどのようなものだったのだろうか。本当に苦しくはなかったのか。
もし下手をすれば、自分もその修道女と、そして今周囲で夢幻の中に陥った者たちと同じ末路を辿ることになっていただろう。
……そう、治療法はないのだから。彼らはもう。
その時、しわがれた声が聞こえてきた。
「……デュラス将軍、閣下……」
「っ! カルサティ少将、貴君は無事であったか……!」
老軍人は神殿の柱に寄りかかるようにしながら座り込み、顔中から脂汗を滲ませながらクロードのことを見つめていた。
その手には剣を持っており、それを自らの左足に深々と突き刺していた。
「私も、危うく夢幻の牢獄に囚われるところでありました……不覚の極み」
「いや、あの甘やかなる幻によくぞ耐えた。辛かっただろう」
「ふっふ……ゼナンとの戦で死した倅と会いましてなぁ。幻だとわかってはいても、涙を止められはしませなんだ……。倅を斬り捨てることすら出来ず、こうして自らの脚に刃を突き立て……どうにか、意識を保っとります」
見れば、老軍人の瞳から涙が流れていた。
大事な者を斬ることなど出来はしない。それが幻であっても。常人であれば、誰もがそうだ。
「デュラス将軍閣下はお見事ですな……見事、あの夢幻を克服したとお見受け致します」
「すべてを捨て去り、幻影に縋ってしまいたいとすら思った――アレは今までに私を苛んだどんな悪夢よりも辛い一時だった」
在りし日の妻の幻影を思い出すだけでも、涙を堪え切れなくなりそうになる。
彼女の命日だけは酒を痛飲してしまうのだ。クロードは未だにナスターシャの死を完全に受け入れることが出来ないでいる自分を恥じた。
「将軍閣下……他の者はもう、」
「すべて、私に責がある。事態の収束がつき次第、夢幻に囚われたままの者はこの私自らの手で楽にさせると約束しよう」
「貴方は、何という……何故、そこまで自分1人だけで何もかも背負おうと、なさるのですか」
カルサティ少将は、自分よりも二回り以上歳の離れた若き将軍を見つめながらそう呟いた。
クロードは老軍人を労わるようにその肩に手を置いて言う。
「それが、この地を護る者として――ひいては、大英雄と謳われし者がなさねばならぬ宿命だからだ」
「どんな英雄にも、常人と変わらぬ気持ちがありますぞ……! そのようなことでは、いつか貴方は壊れてしまう」
「私には果たさねばならぬことがある。それを為すまでは何にも負けはしない」
まだ何か言いたげだった老軍人からそっと離れ、クロードは上空を見上げた。
緑色の矢が雨のように降り注いだ。
剣術こそ天才という枠組みすら逸脱したクロードだったが、こと魔術に関しての才能には恵まれなかった。
しかし、この矢が攻撃的なものでないことは本能で感じ取ることが出来た。
癒やしの効果を持つそれは、神聖術式ではないように思えた。
以前、戦場で何度も目にしたエルフの回復術式に酷似している。その規模はこれまで体験した回復術式のどれとも比較すら出来ないほど凄まじいものだったが。
すぐにあのミルディアナのエルフの少女が放ったであろうことを察した。
それらが夢幻に囚われた者たちへと降り注ぐ――が、何の作用も与えてはいないようだ。
あの幻は神剣が作り出したもの。いくらエルフの回復術式といえど、その影響を取り除くことは出来ない。
現にクロードは今もなお激しい頭痛と吐き気に襲われていた。すぐにでもその場に倒れ込みそうになってしまうが、歯を強く食い縛りながら駆けた。
だが、すぐに目の前が暗転してその場に転げる。
脳みそが揺さぶられ、方向感覚すら失った。
それでも立ち上がり、神剣リバイストラを石畳に突き立てて荒い呼吸を続けた。
――青髪の少女の姿が脳裏を過ぎった。
いつも無邪気だった少女は母を喪い、その腹のうちに化け物が巣食ってしまった。
どんな言葉も彼女の心には響かない。それらが何の意味もないただの戯言だと知っているから。
そんな少女の傍には、いつも献身的に寄り添うメイドの姿があった。
クロードよりもなお感情を一切面に出さない彼女も、心の中ではいつでも少女を思いやり、少女にとってなくてはならないかけがえのない存在であった。
――たとえ、彼女の正体がもはや人間ではないものだとしても、そこにある愛情は何も変わりはしない。
クロードは呻き声を上げながらも、一歩また一歩と歩を前に進める。
残された家族と、救いを求める領民たちを守るためにも進まねばならない。
酩酊したかのようにふらつく足取りで、何度も躓きそうになりながら、もはや走ることすら出来ず、よろめきながら歩いていた時。
懐かしい音がした。
馬蹄が石畳の上を疾駆するようなそれは、凄まじい速さでクロードの傍に駆け寄ってきて荒々しく止まった。
未だぼやけた視界であったが、クロードはその立派な白毛の悍馬の正体をすぐに察した。
「ブレンダン……」
その名で呼ばれた巨大な体躯を持つ馬は、クロードの顔に額を擦り付けた。
低く嘶きながら、久しぶりの再会を喜ぶかのようにクロードを鼻先でつつく。
「何故、お前がここにいる……厩舎から抜け出してきたのか」
『……ブルル』
以前も、ブレンダンは厩舎で馬の世話に勤しんでいた者の目を盗んで街の中を駆け巡ったことがあった。
幸いにも怪我人は出なかった上、大英雄をその背に乗せた馬を間近で見られたとあって領民からの心証を損ねるようなことはなかったが、軍部は違った。
いくら先のゼナン竜王国との戦で大英雄の活躍に大きく貢献した馬であっても、もう老馬である。おまけにクロード以外の誰にも懐かず、時には暴れ回ることもある厄介者だった。
他にも唯一心を許していたナスターシャの死後は、ブレンダンもそれを感じ取ったのか、更に人を寄せ付けなくなった。
――殺処分すべきでは。
そのような意見が出るまでに、そう長い時はかからなかった。
しかし、大英雄の馬を処分するという話が領民の間に漏れ出し、反対意見が続出した結果、何とか今日まで長らえることが出来たのだ。
「ブレンダン。お前という奴はこんなところにまで……また、お前を快く思わない者たちが現れてもおかしくはないぞ」
『ブルル』
ブレンダンはそのようなことはお構いなしとばかりに、クロードの顔を舐めた。
「……もはや走ることすら辛いだろう。大丈夫なのか」
悍馬も年老いた。
最近では体調を崩してしまうことが多かったと聞き及んでいる。
もうじき、『その時』が訪れてしまう可能性もある。クロードは軍務の間も、時折そのことに思いを馳せる時があった。
ブレンダンがクロードの胸元を鼻先でとんとんと突いた。
これはかつて戦場を共に駆けた時、幾度となくこの白馬が示してきた自己表現だった。
「私を乗せて走るというのか。その身体で」
『ブルル!』
力強く嘶くその様は、あの頃とまったく変わらないように思えた。
「そんなことでは、無理がたたって召されるやもしれんぞ」
ドンと一際強く胸元を突かれた。
四の五の言うな、とでも伝えたいかのように。
そんなブレンダンの様子を受けて、クロードは――ふと自分でも気付かぬうちに、口端を緩めた。
「本当に変わらんな、お前は。昔のままだ」
「ブルルル!」
「本当にいいんだな、ブレンダン」
ブレンダンの瞳を見つめる。
何もかもが昔と変わらないように思えた。
馬具も何もない状態で乗れば、馬体にも悪影響を与えるがそれらを用意している時間などない。
クロードはすぐに地を蹴り、ブレンダンの背中へと跨った。
いつ以来だろうか、この感覚は。
気が付けば、クロードを苛んでいた激しい頭痛や吐き気が少しだけ治まったように思えた。危なげではあるが、方向感覚もしっかりとある。
クロードは馬上から、西方の領土の上空に出現したひびのようなものを目視した。
それ以上の何かが起こるような兆しはないが、あのトトという少女は己の身を顧みずに神殿に侵入し、水晶を破壊した後に転移術式によって逃げ出した。
その結果が現在の状況であることはほぼ間違いないだろう。そこまでの危険を冒してまでやり遂げたことが無意味であるはずがない。
何かが起こるのは間違いない。
トトにはもはや戦う力はないように思えたが、神殿を襲った死者との関連も気になるところだった。
他にも彼女のような化け物めいた者が街中にいる可能性を考慮しつつ、徘徊し続ける死者をこの手で仕留めねばならない。
「覚悟はいいか。ブレンダン」
『ブルル!!』
「よし、行くぞ!」
もはや大英雄以外の誰にも騎乗を許さなかった白き悍馬が、再びその立派な体躯を揺らしてグランデンの街を駆けた。
◆
フレスティエ小隊は、上空に現れたひびの真下に到着した。
広い草原を駆け抜けた部下たちは、酸素を求めて荒い呼吸を続けていた。
一足先に現場に到着していたクラリスが、彼らを労うように言った。
「よく着いてきましたね。日頃からの訓練の成果といったところでしょうか」
そんな言葉をかけられて、よろめきながら、ぜえぜえはあはあと凄まじいまでの呼吸を続けていた女性軍人が言った。
「しょ、少尉のしごきは……ほんっとうに、きついんで……っはぁ、はっぁ! こ、このくらい、問題ありませっ……!」
「イリア一等兵。無駄口を叩かず、呼吸を整えることに専念なさい」
「うぅっ、容赦ない……!」
小隊の面々はその場にへたり込んで、ぐったりとしていた。
神使であるクラリスにとっては準備運動にすらならないような些細なことだったが、ただの軍人に過ぎない小隊の者たちからすれば彼女の走り込みについていくだけでやっとの有り様だ。
クラリスは上空のひびを観察していたが、何も起きる気配はなかった。
ただ強い光が明滅しているため、直視することは出来ない。
周囲の様子にも気を配る中、「うえぇ」と変な声を上げながらイリア一等兵がへろへろな声で話しかけてきた。
「こ、こんなところまで来るのは初めてですよね、少尉……」
「はい。軍学校の生徒としてはもちろん、尉官の身であっても、この『ダリア草原』に立ち入ることは許されていませんでしたからね」
「それはやっぱアレですか。ほら、いま光が射してるからぎりぎり見えますけど、あのなんたら山脈のすぐ向こうがゼナンの領土だからですかね」
イリア一等兵が指差す先には、広大な山脈の稜線が見える。
「それもあります。あの山脈の向こうには、ゼナン竜王国の練兵場があるためにどうしても帝国軍の者の心を乱してしまうからです。その理由の最たるものが、訓練の一環として竜騎兵の姿を度々見かけるからなのですが。――ちなみに『シュネー山脈』ですよ、地理学で真っ先に学ぶ地名なのですからちゃんと覚えておきなさい、イリア一等兵」
「はーい。それで、その他の理由もあるんですかー?」
「……貴女は本当に軍人ですか? 軍学校を卒業したのは確かなのですか? 何かの思い違いなどではなく?」
「ひ、酷いですよ少尉ー! これでも成績は上位だったんですよ、わたし! 運動神経は抜群ですから! 座学はまあ、ちょっと……」
イリア一等兵は、胡乱な表情で見つめてくるクラリスから視線を逸らしながら言う。
「ちょっと。何ですか?」
「か、かなりやばかったっていうか、2回くらい追加の試験受けて無理やり合格したというか、させられたというか……と、とにかく立派な軍人です! えへん!」
ふんと大きな鼻息を吐いて胸を張る部下の様子を見て、クラリスは頭痛を覚えたかのように眉間に手を当てながらも言った。
「まあ、今は不問とします。……話が逸れましたね。最大の理由は、彼の西方の地にあります」
クラリスが指差した先には広大な草原が広がるばかりだが、その先に小川が流れているのはイリア一等兵も知っていた。
「テネブラエ魔族国ですよね。めっちゃ怖い魔族がいっぱいいるーって、死んだばーさまが言ってました」
「そうです。彼の地には魔族が棲んでいて、数十年前には国境付近で帝国軍と小競り合いが起こったとの記録が残っています。イリア一等兵、これも歴史学で――」
「こ、国境ってあっちの方向にあるっていう小川のあたりですよねー。何かやらかしたんですか?」
明らかに話を逸らされたのを感じつつ、クラリスはやれやれと首を振りながら言う。
「当時のグランデンを守護する者たちは警戒意識が薄かったようです。彼の魔族国に斥候を送って様子見をするというのが、肝試し感覚で行われたことがあり、それが続くうちに魔族国側を刺激してしまう結果となりました。小競り合いといえば大したことがないように思えますが、犠牲者の末路がどうなったかについてくらいは流石の貴女でも覚えているでしょう?」
「……このダリア草原で帝国軍の人間の死体が転がってたってのは覚えてます」
「そうです。数名の犠牲者の身体に傷痕はほとんどなかったが、不思議なことに『その遺体には血液がほとんど残っていなかった』という話も伝わっています。もっとも、核心に迫る部分は当時の記録が意図的に改竄されていた可能性もあるために正確にはわかっていませんが」
怪談めいた話に小隊の面々がごくりと息を呑む。
クラリスは続けた。
「小競り合いという記録も、帝国軍の体裁を保つためであったと考えるのが妥当でしょう。実質的には一方的な蹂躙でしかなかったのではないかと」
「帝国側は何もしなかったんですか?」
「当時は奇しくも現在と同様、ゼナン竜王国とは緊張関係が続いていました。そのような状態で下手に事を荒立てるわけにはいかなかったのでしょう。彼の魔族国がどれほどの戦力を有しているのかすらまったく把握していなかったのですから」
そう言いながら、クラリスは西方の地を見つめた。
凶悪な魔族が巣食い、それらを統べる魔神の王がいる。
500年前に勇者が討伐に向かったが、帰還することはなかった。
クラリスほど熱心に座学を学んでいても、得られる情報はその程度でしかなかった。
「この草原は、ゼナン竜王国との国境に近い上に、西方の魔族国との国境も間近にあるのです。立ち入りが厳しく制限されているのは、その影響が最も――」
クラリスはふと違和感を覚えて空を見上げた。
ひびが軋むような音が再び鳴り始め、ひび割れが急激にその規模を広めた。
「っ! 総員、戦闘準備!」
「「は、はいっ!」」
すっかり気の抜けていた小隊の面々が準備に取り掛かろうとした時、空中のひび割れから『それら』が落下してきた。
地面に当たる度にべちゃ、ぐちゃ、と聞く者に不快感を与える音が響き渡る。
「な、なな何ですかこれ……!?」
イリア一等兵が混乱し、クラリスが状況を把握する間もなく、それらはどんどんと降り注いできた。
ぐちゃ、びちゃ、べちゃ――。
白い肉の塊。
そうとしか表現出来ないような不気味なものが次々と落ちてくる。
大小様々な大きさのそれらはよく見てみると、人間の腕や足のように見えるものもあった。
まるで包丁で切り分けた肉片のようなものが大半だったが、一際大きなものの一部が蠢いた。
じゅるじゅると不快な音を立てて、それが起き上がる。
大きさは4メートル近くになるだろうか。
真っ白な人間の胴体に、蛇のような異様に長い首を持つ奇怪な物体が咆哮を上げた。
『ギアアアアアァァァァ――!!』
断末魔の悲鳴のように聞こえるそれに呼応するかのように、周囲の原型を留めていた肉塊たちが次々と同じような鳴き声を上げた。
周囲には鼻をつくような凄まじい異臭が立ち込め、肉塊を包み込む粘着質な液体がぼたぼたと地面に垂れ落ちる。
この不気味なものが生き物であると悟った瞬間、クラリスは叫んだ。
「……っ!! そ、総員! 構え!!」
「「はっ!」」
様々な事態を想定していたクラリスは、頭が真っ白になりそうになるのを堪えながら、自らも聖剣セプス・エクレイルを構えた。
フレスティエ小隊は、正体不明の純白の化け物たちに向けて魔導銃を構え、一斉に銃撃を開始した――。





