第39話「躁急たる決断」
クラリス率いる小隊が高等魔法院へと辿り着いた時、現場を見て誰もが絶句した。
数ある高等魔法院の中で最も小規模とはいえ、それでも立派な建築物だった高等魔法院はまるで何かに串刺しにでもされたかのようにぼろぼろになっていた。
見れば、付近にあるグランデン領を囲う大きな外壁の一部も粉々になっている。
「ふ、フレスティエ少尉ー……な、何なんでしょうこれ……」
イリア一等兵があまりもの光景にそう呟く。
それはこっちが聞きたいと怒鳴り返したくなりながらも、周囲の様子を確認する。
もはやこの辺り一帯には誰もいないようだった。幽体や、それに燃やされて生ける屍と化した者の姿すら見受けられない。
だが、わずかにだが、強い魔力の残滓が感じられた。
この場で強力な魔術が使われたのは明白。
だが、魔術を不得手とする者が多いこの地で、自分以外にこのような魔術を放てる軍人がいないことは既に知っていた。それでも心当たりがないといえば、嘘になる。
1人だけ、得体の知れない力を持った少年がいるではないか。
あの驚異的な力を持ったミルディアナの特待生の中でも、なお頭抜けた才能の持ち主が。
「も、もしかして、テオドールくんがやったんですかね……?」
「……この魔力の痕跡からして、恐らくは第9位階程度の術式が使われたのだと思われます。キース・レルミットも業炎術式であれば行使出来るはずですが、この現状は……」
建物の周囲は焦げ付いて煙を上げている場所もあれば、氷漬けにされてまだ完全に溶けていない部分もあった。
間違いなく、テオドールの所業だろう。
呆然としていたクラリスだったが、気を取り直して指揮下の者たちへ告げる。
「人の気配は感じられませんが、万が一ということもあります。瓦礫の下に埋もれている者がいないかどうか確認しなさい! 幽体がまだ残っている可能性もありますので、決して1人では行動しないように!」
「「はっ!」」
小隊の皆が散り散りになって捜索にあたるが、生存者らしき者は見当たらなかった。
しばらく付近の様子を確認した後、もはやこの場を守る意味はないと判断したクラリスが言う。
「総員、傾注! この場に異常は見当たりません。ですが――」
クラリスが言葉を続けようとした矢先に、先程から響いていた何かが軋む音がどんどん大きくなっていった。
ビシッ、ギシッ、ピシッ――。
まるで、何かが壊れる前触れのような音は、もはや無視出来ないほどのものになる。
そして、崩れた外壁の向こう側に顔を向けたクラリスはそれを目にした。
グランデン領から西方の地。
大草原が広がるエルベリア帝国最西端の領土の上空に――ひびが入っていた。
そうとしか表現出来なかった。
暗い夜空の一部にひびが入り、そこから発せられるわずかな光が地上を照らしている。
月明かりとはまた違った白光は不気味に明滅しており、異様としかいえない光景だった。
「何ですかアレは……」
「しょ、少尉、ひび、ひび入ってますって空! ほら、ほら!」
「そのくらい見ればわかります!」
上空のひびから、あの何かが軋むような音が響いているのは間違いなかった。
何が原因なのかもわからなければ、そのような現象が起きた理由さえわからない。
意味不明な光景を前に、クラリスは激しく動揺した。
――決められた手順や作法はすぐに覚え、誰よりも早く実力を発揮出来るクラリスにも、実は明確な弱点があった。
彼女はあらゆる事態を想定している。今回のグランデン襲撃事件でも、様々な結果を予想し、常に最善の策を講じられるようにしてきた。あのクロード・デュラス将軍が神殿の警備に失敗する可能性すら考えていた。
その後に起こるなにがしかの現象にも思考を巡らせた。
クロードが警備に失敗したら、最悪の場合は彼の命が尽きる。そうした場合であっても、自分が為すべきことを何度も頭の中で反復してきた。
だが、目の前では想像を超える光景が拡がっていた。
それを見て、クラリスは頭の中が真っ白になる感覚を覚えながら冷や汗を流し、身体を震わせた。
彼女は、まったくの想定外のことが起きた場合に咄嗟に対処することが出来ない。
教えられたこと、予想していたことになら、あらゆる手を使って見事しのいでみせるが、予想外のことに関しては反応が遅れてしまう。
実力の劣るはずのシャルロットに模擬試合で何度か敗北を喫したことがあるのも、あの少女のあまりにも常識外れな行動に対処することが出来なかったからだ。
無論、一度体験したことはすぐに学習し、同じ失敗をすることはまずないと言っていい。
だが、所詮は彼女もまだ仮の軍人の身であり、軍学校の一生徒に過ぎなかった。
その有り余るほどの力と優秀さから、エルベリア帝国の皇太子より特例として少尉の位を授かったが、経験はまだまだ浅い。
しかし、今は小隊を率いている。隊長として、絶対に失敗するわけにはいかないのだ。
その重圧がクラリスに圧し掛かり、思わず身体が硬直し、すぐにでも行動に移さなければいけないはずなのに言葉を発することすら出来なかった。
クラリスの狼狽を察したイリア一等兵が「少尉」と囁きながらその肩を叩くと、彼女はびくっと身体を竦めてそちらを見やった。
混乱して何をどうしたらいいのか、わからない。その激しい動揺を見てとったイリア一等兵が言う。
「フレスティエ少尉。ご指示を」
普段はお気楽な年長の女性の真摯な言葉を受けて、クラリスは不安そうな瞳で周囲を見回した。
小隊の誰もが隊長であるクラリスを見つめている。
誰かに助けを求めたいとすら思っていたクラリスだったが、彼らもまた同様に不安を色濃く表情に出していた。
自分が何とかしなければならない。
逡巡の末にそう判断して、クラリスはもう一度だけ天空に現れたひびへと目をやった。
アレを放置していたら、大変なことが起きてしまうのではないか。
街中の様子も気になる。
先程感じた、この身を焦がしてしまうような凄まじい魔力は何だったのか。
テオドールが使ったのか、はたまた業炎術式が得意なキース・レルミットが行使したのか、それとも。
高等魔法院はグランデンの端にある。
再び街中に戻るのにもそれ相応の時間がかかる。
それなら、誰よりも早くあの天空のひびの位置に向かうことが出来る自分たちが事態の把握をすべきだ。
必死に状況の整理をするクラリスは、まるで座学の問題を解けなかったら折檻されると思い込んでいる子供のように呼吸を荒らげ、心臓が早鐘を打ち、落ち着きをなくしながらも――その命令を下した。
「――こ、これより、我らフレスティエ小隊はあの現象の偵察に向かうことと致します。早急に準備なさい……!」
まるで覇気の感じられない指令に、真っ先に反応したのはイリア一等兵だった。
「フレスティエ少尉、デュラス将軍からは街の防衛のことだけを考えろと念押しされていましたが」
「……わかっています。ならば、なおのこと、あの不可解な現象が巻き起こす事態を確認しなければなりません!」
クラリスの言葉に、イリア一等兵は真剣な面持ちで言った。
「将軍の指令に、そのようなことをしろとの意味合いは含まれておりません。人員も足りず、準備不足も甚だしい。それでも、あの場へ向かうと仰るのですか」
「当然です。グランデン領内の防衛だけなら、デュラス大将閣下とカルサティ少将閣下率いる部隊で対処が可能と判断します」
「そのようなことを申しているのではありません。『自身の独断で勝手な行動をするな』というのが将軍のご判断です。フレスティエ少尉はその指令に背くおつもりですか」
普段とはあまりにも様子が違うイリア一等兵の言葉が、クラリスの不安定な心を抉る。
いつもは陽気で明るく、少し能天気な面もあるように見えるイリア一等兵だったが、彼女もまた紛れもなく軍人であるのだということを思い知らされた。しかも、階級は遥かに上であるはずの自分よりも、冷静であることも。
――だが、クラリスは判断を変えなかった。
「戦場では臨機応変に対応することも必要不可欠です。ただ上から言われたことだけを遵守するだけなら、誰にだって出来ること――」
「今だけは無礼を承知で申し上げます。事が済んだ後、好きなだけわたしのことを罵った後にぶっ飛ばしてくれても構いません。失礼ですが、貴女にはその『誰にだって出来ること』が出来ていないとご指摘致します」
「……っ」
小隊の面々がざわついた。
クラリスは少尉の位のみならず、絶大な権力を持つ名家であるフレスティエ公爵家の1人娘でもある。そんな彼女に、ただの平民で一兵卒に過ぎない身であるイリア一等兵が発した言葉は無礼や失礼などで済む問題ではなかった。
クラリスは強く奥歯を噛み締め、両の拳を握ってわなわなと震わせた。
――自分は、部下にすら認められていないのか。
改めてその思いを痛感し、大声で叫び出したくなりそうになるのを必死で堪え、努めて平静な口調で言う。
「ならば、イリア一等兵。一時的に貴女に隊の指揮を任せます。街の防衛は貴女が指揮を――」
「お断りします。わたしはフレスティエ小隊の一隊員に過ぎません」
「……! な、なら、一体どうしろと言うのですか!!」
思わず声を荒らげてしまい、慌てて口を噤むクラリス。
イリア一等兵は、そんな彼女に対して呆れたり蔑んだ表情を浮かべる様子もなく、淡々と告げた。
「それを決めるのがフレスティエ少尉の役目と申し上げます」
「わ、私は……私の意見は変わりません。即刻、あの異常事態の原因を突き止め、今後起こり得る事態に備えるためにも現場へと赴きます」
年長の女性軍人と目が合う。
――自分が言っていることに、間違いはないはずだ。
そうは思いながらも、押し潰されそうな不安でクラリスの瞳は揺れていた。
「たとえそれがデュラス将軍のご命令に背くことであっても、ですね?」
「そう言ったつもり…‥です」
場がしんと鎮まり返った。
しばらくして、ふと笑いを浮かべたのはイリア一等兵だった。
彼女はある種の覚悟をうちに秘めたような、優しげな笑みを浮かべながら言った。
「了解しました。わたしもデュラス将軍の指揮下にあるとはいえ、それ以上にフレスティエ小隊の一員であることに変わりありませんから」
「……」
思わぬ態度にクラリスは困惑して眉根をしかめた。
イリア一等兵は自分よりも年下の少女の眉間を指でとんと突いて笑う。
「フレスティエ少尉はいつも眉間に皺が寄っています。可愛い顔が台無しですよ?」
「えっ……あ、お、大きなお世話……です」
「ふふ。そんな少尉も、甘いものを食べると表情が柔らかくなるんですよね~! わたしはそんな少尉が大好きですよ。あ、もちろん尊敬もしてます」
「い、いきなり、何の話ですか……」
「何でもありません。ただ、私が貴女の意思を最優先に考えていることを伝えただけです。というわけで、後で一緒になってデュラス将軍に怒られましょう! きっともんのすごーく怖くてわたし1人なら間違いなくショック死すると思いますが、フレスティエ少尉も一緒なら怖くありません――ですよね、みんな?」
イリア一等兵が振り返りながら言うと、小隊の面々は口々に言った。
「当たり前だ! 俺たちの指揮官はフレスティエ少尉なんだから!」
「な、何があっても俺がフレスティエ少尉をお守りします!」
多少噛みながら言ったのはエリック二等兵だった。
イリア一等兵はにやにや笑いながら言う。
「おー、エリック二等兵如きが大胆なことをー! フレスティエ少尉にいいところを見せようと躍起になってますなー」
「お、俺はそんなつもりはありません!」
「お前、抜け駆けしようってのか!?」
「抜け駆けも何も、フレスティエ少尉は公爵家のご令嬢ですよー? あんたたちなんかハナから眼中にないんですって」
わいわいと騒ぎ始める小隊の面々の行動を、ぼけっとした様子で見ていたクラリスだったが、イリア一等兵がぴしっと敬礼をしたのを見てはっとした。
「フレスティエ少尉のお覚悟、確かに伝わりました! 我らフレスティエ小隊の面々は貴女に従うことをお約束します。みんな一緒に、後でデュラス将軍からお叱りを受けましょう! 思いっきり怒られた挙句にぶった斬られて1人、2人天に召されるかもしれませんが、まあそれはそれとしてです!」
「……ほ、本当に、いいのですか」
「何を仰るんですか。貴女が決めたことであれば当然です。さ、少尉。改めてご指示を」
にこやかに言うイリア一等兵に勇気付けられて、クラリスはごくりと唾を呑んでから言った。
「――これより、我らフレスティエ小隊は帝国最西端の領土で起こった異変の調査に出向きます! よろしいですね!?」
「「はっ!」」
小隊の全員が敬礼した。
クラリスはその光景を見て、感慨深そうに頷いてから街の外部へと向かう。
その時、イリア一等兵がどんと体当たりするかのようにクラリスに絡んできた。
「な、何ですか!?」
「頑張りましょう、少尉! 事件が終わったら、たらふく甘いものをかっ食らいましょうね! その時は、もちろんあのテオドールくんも誘って」
「あ、あの男は関係ありませんが……そ、そうですね、甘味を食べるくらいなら……」
「よーしよーし! 気合入ってきた! さー、行きましょう。ほら、早足早足!」
「押さないでください!?」
「わたしは早いとこ甘いものを少尉と食べたいんですよ。少尉に何かありそうだったら、わたしが死ぬ気で守りますからー!」
「それは神使である私の務めです。いい加減、その緩んだ顔を引き締めなさい、イリア一等兵」
「うわー、もういつものフレスティエ少尉じゃないですかー! 頑張っていきましょうね!」
クラリスは、まるで大型犬が懐いてきているかのようなイリア一等兵のすり寄りに困惑しながらも、少しだけ口角を緩めた。
今の彼女にもはや混乱や不安はない。今はただ、目の前にある事態の把握に全力を注ぎ込むだけだ。
こうして、フレスティエ小隊はグランデンの街を出立した。
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