第37話「若き炎」
キース・レルミットは道行く民の避難誘導を行いながら、神殿に向かって走っていた。
死者の数は明らかに減っているが、まだ完全に倒したわけではない。
見つけ次第、彼らに炎の一撃を見舞った。耐久力のある幽体の集合体には、聖剣ヴィル・ギーザの力を借りた強烈な業炎術式を解き放つ。
まだ死んで間もない者の身体を燃やし尽くすことに、吐き気のようなものを感じながら、キースは走った。
神殿までまだ距離がある。
だが、先程までその方角から轟いていた戦場の音が途絶えた。
そして、それとほぼ時を同じくして何かが軋むような異様な音が聞こえ始めた。それはまるで空から響き渡っているような、奇怪な音だった。
一体、何が起きているのか……。
ふと、視界に何か動くものがちらついた気がしてそちらへと目をやる。
そこは、もはや店主すら逃げ去った後の露店だ。大きな木箱は売り物を入れる容器だろうか。その陰から、怯えた瞳でこちらを見ている者の姿を発見した。
「何をしている!?」
「ひっ……!」
「怯えるな。大丈夫だ、俺は敵ではない」
木箱の裏に隠れていたのは年端もいかない少年だった。
しかし、その背後にはもう1人いた。若い女性だったが、足を負傷している。
「お前の母君か」
「う、うん……あ、あの、父ちゃんが、いきなり、へ、変なふうになっちゃったから母ちゃんといっしょに逃げて、で、でも途中で、か、母ちゃん、あ、足……怪我しちゃって……」
恐らく、その父親は生ける屍と化してしまったのだろう。
キースは混乱と恐怖で涙を流している少年の頭を撫でる。
「そうか。お前はここまで母君を守ってきたのだな。よくやった」
そう言いながら様子を窺うと、少年の母親は疲弊した様子ながらも言った。
「お、お願いします。この子だけでも逃がしてあげてください。私はどうなっても構いませんから……」
「か、母ちゃん! 一緒じゃなきゃやだよ!」
「お前だけでもお行き。母ちゃんは大丈夫だから。ね」
強がっているが、彼女は足を捻挫しているようだった。
これでは、とても街中を逃げ回ることなど出来ないだろう。まずは彼女たちを安全な場所へと誘導しなければならない。
「大丈夫だ。俺が貴女がたを助ける」
「私はいいのです、この子だけでも」
女性の言葉にキースは思わず大声を出した。
「ならん! 貴女を失えば、この少年がどうなると思っている!? 何としてでもこの子と共に生き延びることだけを考えろ!」
怯んだ様子を見せた女性に、キースははっとする。
思わず、私情を挟んでしまったが今はそれどころではない。
「し、失礼した。だが、大丈夫だ。俺が……」
そこまで言いかけた時、すぐ近くに突如として魔力が噴出したのを察してそちらへと向く。
そこには軽装にローブを纏った、血だらけの少女の姿があった。紫色の髪をした少女は、疲弊した様子で周囲をきょろきょろと見回す。
「ちっ、ここまでしか飛べませんでしたか……」
「なっ……おい、その怪我はどうした!? すぐに手当てを……!!」
「あぁ? 何ですか、あんたは……んん?」
胡乱な瞳でキースを見つめた少女は、合点がいったように頷いた。
「あー。あんたは、あのレルミット伯爵家の嫡男ですねー……」
「!? 何故、俺のことを……いや、それよりもまずは手当てが」
少女の胸元は、鮮血に塗れていた。
まるで心臓を刺し貫かれでもしたかのような有り様だ。何故、こうも軽々と口を利けるのかわからない。
「あー、いってぇなぁ。畜生……こんだけ死ぬ予定はなかったんですがね……」
少女がわけのわからないことを呟きながら、片手で胸元を抑えた。
どう見ても致命傷にしか思えなかったが、彼女はただ顔をわずかに苦痛に歪めるだけだった。
キースは親子と少女の保護のどちらを優先するか一瞬だけ悩んだ。
少女から目を離して親子へと振り向いた時――キースの直感が死の気配を色濃く悟り、反射的に聖剣を振り上げながら再度少女へと目をやった。
ギィンという金属音が響き、ヴィル・ギーザとメアヴァイパーの力が拮抗する。
「何のつもりだ……!?」
「へぇ……いい勘してるじゃねーですか。そのままぶった斬れると思ったのに」
少女はすぐに後ろに跳び、距離を取った。
キースは聖剣を構えたまま少女を睨みつけた。
「なかなかいい目付きですねー? とても、聖炎の力を失った腑抜けた家系の男とは思えねーですー」
「……貴様は何者だ。答えろ」
「トトはトトですよー。よろしくお願いしますねー……まあ、挨拶しておいてなんですけど、あんたみたいな雑魚はすぐに死んじゃうんで意味はないかもですね!」
メアヴァイパーから顕現した水の奔流が槍の形となってキースへと迫る。
すかさず結界術式を張った、が。
「ぐっ……!?」
「あっはは! 流石に神剣の特性までは知らねえですかー。結界術式なんて、このメアヴァイパーの前では通じないんですよー?」
「神剣……だと」
左足の太腿を貫通した水の刃が消え去る。
背後にいた少年が恐怖の悲鳴を上げたが、彼らにまで被害は及んでいなかった。
「次は手加減なしですー。ボロ雑巾みたいにして殺してあげますねー?」
「待て。ここには何の罪もない民がいる。まずは彼らを逃がしてから、貴様の戯言に付き合って――」
「そーんなの、トトには何の関係もないんでー!」
結界術式が効かないのでは、後ろの親子を守れない。
キースがぎりと奥歯を噛み締めた時、
高速で迫った何かがトトと名乗った少女に衝突するかのように突っ込んできた。
それを察したトトが慌てて回避した時、彼女の立っていた石畳は粉々に砕け散っていた。
それを成し遂げたのは、黄金色の耳と尻尾を生やした少女だった。
「ほー。今のをかわすか? なかなかに反応が早いな」
狐の獣人ロカは、手のひらをぱんぱんと叩いて埃を払いながら言った。
彼女の一撃は、周囲の石畳にもひびを走らせた。まるで大きな槌か何かで叩き割ったとしか思えないほどの威力だ。
「ロカ!? 何故ここにいる」
「我らでやれることは既にやった。であれば、後は狙われている神殿へと向かうのは当然であろう。なあ、シャウラ」
そう問いかけられて、ロカより少し遅れて駆けつけたシャウラは複雑な表情を浮かべた。
「……トト? 何をしているの、あなたは」
「あー、シャウラさんでしたっけー。んー、そうだそうだ、ブランネージュの生き残りだー、あの恥知らずの――」
シャウラは一瞬で距離を詰め、トトへと肥大化した爪を振り下ろす。
神速に迫るそれは簡単に回避された。
真っ白な身体をした少女は、トトを睨みつける。
「……確かにブランネージュ家はもうない。その生き残りの私はどう言われても構わないわ。でも、ブランネージュ家を汚すような言葉だけは許さない」
「いいですねー。一度は楽しく話し合った相手も躊躇なく手にかけようとするところ。流石、戦闘本能が高いだけはありますー。ねえ、獣人……いや、交ざり者のお2人さんー?」
その時、ロカが剣呑な目付きになった。
「シャウラ、後で仕置きをする。覚悟しておけ」
「な、何で私なの……?」
「我ら獣人にとって最大の禁句を口にするような者と楽しく話し合うなど、許されんことだ。いつもの軽い仕置きで済むと思うな」
「……そう、ね。ごめんなさい……」
「ん。それでは殺るとするか」
「了解」
獣人娘たちの雰囲気が殺気だったことを見て、トトは笑った。
「あはは! こーれだから交ざり者は馬鹿だって言われるんですよー? 血の気の多くて、頭が回らないところなんか特にそーだと思いますー」
「もはや言葉はいらん。我ら獣人を辱めたこと、その命を以て償え」
「……口ほどにもねぇ雑魚が吠えやがって。こちとらさっきから不快なことばっかでイライラしてるんですよー。ちょいとばかし憂さ晴らしに付き合ってもらいますかねー」
ロカとシャウラが同時に走り、トトを挟み込む形に展開した。
メアヴァイパーが振るわれると、水流が槍となって彼女たちへと襲いかかる。
2人の獣人が走り抜けた場所を、いくつもの水の槍が刺し貫いていく。
ロカは目の前にある民家の壁を駆け上がり、水の槍を回避。そのまま屋根を砕かんばかりの勢いで跳び、トトへと迫った。
迎撃と回避、そのどちらの行動も防ぐためにシャウラがトトの背後から襲いかかり羽交い締めにする。
回避行動を取ろうとしないのを不審に思ったシャウラだったが、絶対に離すまいと手に力を入れた。
ロカの勢いをつけた拳がトトを叩き潰すために振り下ろされる。
石畳を粉々にした彼女に殴られればどうなるかは、火を見るよりも明らかだったが。
トトはにっと笑いながら言った。
「やれ、メアヴァイパー」
羽交い締めにされていて剣は振るえないトトだったが、彼女の手にしていた剣はまるで見えない手に振るわれたかのように動き、ロカの拳を正面から受け止める。
「ちっ、何だこの剣は……!」
ロカは着地したが、すぐにその場を離脱。直後、彼女が降り立った場所から水の槍が噴き上がった。
「ふっ、どーです? トトのメアヴァイパーは一筋縄じゃ――」
「盛り上がってるところ悪いけれど、死んでもらうわ」
シャウラがトトを強引に引き寄せ、その首筋に牙を突き立てた。
血が滲み、肉を噛みちぎると鮮血が噴き上がった。
「ぐっ……!」
狼の獣人はぺっと肉を吐き捨ててから、吐き気を堪えるように呻いた。
「うぇっ……なに、この腐ったような味……? まるで死体――」
「!? いかん、シャウラ、避けろ!!」
ロカの言葉の意味を解するのに一瞬だけ時間がかかった。
それを理解したと同時に、シャウラの腹部にメアヴァイパーが突き刺さっていた。
神剣がトトの手を介さずに動き、自らの主ともどもシャウラを貫いたのだ。
「がふっ……!」
「シャウラ!!」
後ろに倒れるシャウラを見て、ロカが血相を変えて駆けてくる。
自らの神剣に貫かれてなお立ったままのトトが、噛みちぎられた首筋を抑えながらすぐに神剣を自らの身体から引き抜き、血肉に塗れたそれをロカに振るった。
その一撃は回避されたかに見えたが、メアヴァイパーから放出された水の刃がロカを直撃した。
「ぐぁっ……!」
咄嗟に腕で防いだが、衝撃を殺し切るまでには至らず民家の壁に叩きつけられる。
「げぼっ……! っあぁ……首もいてえし最悪……でもまぁ……所詮交ざり者なんざこんなもんですよねー……シャウラさんは後でいたぶってから殺してやるんで、まずはあの狐を……」
凄まじい炎がトトを直撃した。
メアヴァイパーから発せられた水のベールがそれを受け止める。
トトは苛々したような表情でその相手を見た。
「あんたの方は後で殺してやるんで、今は大人しくしててもらえませんかねー?」
「化け物め! これ以上、貴様の好きにはさせん!」
キースは獣人の少女たちが戦い始めたのと同時に、隠れていた親子の母親に肩を貸して逃げるように促した。
足を痛めた彼女はよろよろとした足取りながらも、必死に歩く。それを少年が心配そうに見ていた。
彼女たちはまだすぐ近くにいる。トトはキースから目を逸らし、親子の方へと顔を向けた。
「あんたもそうですけど、ついでなんであの親子も殺しておきましょうかー」
「……無辜なる民に刃を向けるか、この外道が!!」
「だって面白いじゃないですかー、あっはは! 憂さ晴らしにはもってこいってなもんですよ!」
トトがメアヴァイパーを振るう。
神剣の力によって湧き出した水が槍となって、親子へと襲いかかった。
その瞬間、凄まじい炎が親子を巻き込むかのように燃え上がった。
水の槍はその炎を貫通することも出来ず、蒸発して消えた。
火柱が天高く上がるが、それに巻き込まれたはずの親子には何の異常も見当たらない。
「……神剣の力を掻き消した……? 結界術式とも違う……炎の加護?」
キースは聖剣ヴィル・ギーザにありったけの魔力を注いで、トトへと放った。
その炎はメアヴァイパーの手によってあっさりと消え去るが、トトはそれまでのにやついていた顔を不快そうに歪める。
「てめえ……聖剣に宿る神の力を引き出しやがりましたね」
キースはそれには答えず、その場を跳躍。
トトへとヴィル・ギーザを叩きつけるように振り下ろした。
それを受け止めるトトだったが、思いのほか苦戦したかのように後退する。
「今だ、ロカ! シャウラを連れて逃げろ!」
「……恩に着る!」
ロカは倒れ込んだシャウラを抱きかかえ、走り去ろうとした。
「させねえですよー!」
メアヴァイパーから水の槍が噴き出すが、地面から噴き出した火柱がそれを防ぐ。
ロカは一瞬だけこちらを確認したが、すぐにその場を去った。
キースの放った火柱は、彼とトトをその場に閉じ込めるかのように周囲を塞ぐ。
火柱に囲まれた中で、キースとトトが相対した。
「ちぃっ、聖剣如きが神剣に勝てるとでも思ってんですか。よっぽど早死にしてえみたいですねー?」
「罪なき人々を痛めつけんとし、我が同胞をも斬った貴様の愚行、決して許しはせぬ! その身を裁くまで、俺は絶対に死なん!!」
ヴィル・ギーザとメアヴァイパーが同時に振るわれた。
耳をつく金属音が響き渡り、火花が散る。
「舐めやがって! てめえの炎の加護なんざ、低級の神のものに過ぎねえ! 聖炎の力はこんなもんじゃねえんですよ! アレは元々ただの伯爵家が受け継ぐようなもんじゃねえ!」
「確かにそうだ、俺は聖炎には認められてはいない。貴様の神剣と対抗するような力もない! だが、それがどうした! 弱いからといって貴様のような外道を放っておくことなど出来ん!」
「面白ぇ!! すぐにその首を斬り飛ばして、てめえのお仲間さんに見せてやるとしますよぉ!!」
トトの剣術はキースを遥かに上回っていた。
時に受け止め、時にかわすが、回避も防御もままならずにその身にいくつもの傷が出来る。
一方、キースの大振りの一撃は軽々とかわされていた。だが、それは相手の隙を作るためのもの。
「そらそら、どうしたんですかぁ! そんな亀みたいにのろまな攻撃が当たるとでも思ってんですかぁ!」
すかさずキースの首筋を狙って斬りかかってきた神剣を受け流し、返す刃でトトへと斬り付ける。
それは彼女の頬に一筋の赤い線を刻んだ。
――少し前まで、女性を相手取ることが出来ずにいた。
それを同窓の少年に打ち明けた時のことはよく覚えていない。深酒をしてしまった影響なのだろうが、それでもおぼろげに記憶に残っている言葉があった。
『――本当に守らなければならない者のために全力を賭して励むがいい』
自分が守らねばならないのは、間違いなく戦う力を持たない民衆だ。
そして、傷付き、倒れようとしている仲間たちだ。
それらを守るためなら、自分の命をも懸ける。
『過去を捨てろとは言わないが、見事乗り越えてみせろ――』
かつて己が父が母を傷つけたのを見て心に深い傷を負った青年は、その過去を乗り越えんがために叫んだ。
「聖炎よ! しかと見届けよ!! 我がレルミット伯爵家の炎はまだ消えていない!!」
キースの全身から熱風のような魔力が噴き上がった。
聖剣ヴィル・ギーザがそれに呼応し、刀身を赤く輝かせる。
赤髪の青年の怒りと使命感が、彼の魔力を限界にまで引き上げたのだ。
凄まじい熱の奔流にトトが気圧され、後退した。
ほんの僅かに出来た隙を見逃さず、キースは炎を纏った聖剣でトトを斬り付ける。
深く身体を裂かれた少女だったが、彼女は苦悶の表情を浮かべながらもメアヴァイパーを振るった。
力なき攻撃。たとえすべてを上回る力を持つ神剣によるものであっても、覚悟を秘めた聖剣の一撃を防ぐには至らない。
聖剣と神剣が真正面からぶつかり合い、トトの腕が神剣ごと大きく弾かれた。
その瞬間、キースはトトの右腕を両断する。
「ぐぁっ!?」
あまりの衝撃にトトが体勢を崩した時、キースは自らの身を焦がすほどの熱を聖剣に宿しながら全霊の力を以て振り下ろす。
「滅せよ!!」
深々と切り裂かれたトトの身体から火柱が上がった。
断末魔の悲鳴を上げながら倒れ込む少女は、瞬く間に黒焦げになる。
それを見届けたキースが膝をついた。
明らかに自分の力量を超える魔力を与え、聖剣に宿る神の力を引き出したのだ。
神によって作られた神剣と、神の力を借りながらあくまでも他の種族によって作られた聖剣。
神剣には及ばないものの、聖剣にも神気は宿っている。メアヴァイパーに対抗するためにはこうするしかなかった。
キースは荒い呼吸を整えながら、目の前で悶え苦しむ少女の姿を見た。
自刃したはずが平然と生き残り、そのまま戦い続ける様は化け物というほかない。
だが、その圧倒的な生命力が災いしてか、彼女はまだ苦しんでいる。聖剣に宿る神の炎が、トトの華奢な身体を燃やし尽くさんばかりに勢いを増した。
キースは覚悟を決めて立ち上がり、すべての魔力を込めて聖剣に炎を宿した。
そして、憐れみの表情を浮かべながら、少女の前に立った。
未だに苦しみ続ける少女へと向かって、静かに剣を振り下ろす。





