第30話「ブレンダン」
「シャウラが馬に蹴られた?」
軍学校の教室で予想外のことを聞かされて目を瞬かせていると、黄金色の耳と尻尾を持つ狐の獣人の少女は呆れたかのように溜息を吐いた。
「うむ……。軍部の厩舎に一際でかい白馬がいるのだ。暴れ馬として有名なやつなのだが、大層立派でシャウラはすっかり虜になってしまった。何の警戒もなしにべたべたと触って、馬の背後に回った途端に思いきり頭を蹴飛ばされたのだ」
「それ、死んだんじゃないの?」
「普通の人間ならそうだが、あいつは頑丈だからなー……。首が痛いとぼやきながらも、馬の観察を続けておるぞー」
馬の背後に回るとは馬鹿な真似を。
とは思いつつ、あの目の肥えたシャウラですら魅入られたという馬に少しだけ興味が出てきた。
ロカに場所を訊ねて厩舎に向かうと、そこにはシャウラとシャルロットがいた。その背後には静かにエルザが控えている。
「んー? テオお兄ちゃんだー。どうしたの?」
「シャウラが馬に蹴られて死んだって聞いたから様子を見に来たんだけど」
「首を掻っ切るわよ。……ふん、この私が馬に蹴られた程度で死ぬものですか。ちょっと首が痛むけれど」
その時、馬が嘶いた。
厩舎の前にいた少女たちは視線をそちらへと向け、僕もつられて中を覗き込んだ。
小屋の中には複数の馬――恐らく騎兵が使うもの――がいたけど、その中でも一際目を惹く存在がいた。
甲高く鳴きながら、目の前にいる軍人たちを威嚇しているのは巨大な白馬だった。
他の馬よりも一回り以上大きいその馬は、一見するだけでもわかるほど年老いていた。
しかし、それでもなお威勢よく嘶いて何とか宥めようとしている軍人たちを寄せつけようとしない。
「あの白馬はなんなんだい?」
「あの子はね、『ブレンダン』って言うの。父さまが戦争の時に乗ったんだよ。竜を前にしても怯えたりしないで、父さまを助けてくれたんだって」
「へえ、面白いね。大英雄さまが騎乗した馬か。ずいぶん年老いてるように見えるけど」
そう言った矢先、暴れていた馬がふと静かになった。
そのまま微動だにしなくなったかと思いきや、その場でふらりと倒れるかのように横たわってしまった。
「大丈夫かしら? 何だか元気がないようだけれど」
「うん、最近は疲れてるみたい。前は人が近くにいるだけで暴れ回ってたのに、今はすぐ大人しくなっちゃうから……」
大人しくなった馬は僕の見立てが確かなら、もうそう長くはないんだろうと思った。
せっかくの白い毛並みも艶がなくなり、巨大な体躯はやせ細っている。
以前はとても立派な馬だったのはわかるけど、これはもう人を乗せて歩くことすら難しいかもしれない。
「ブレンダンは旦那さまとナスターシャさま以外には気を許しませんでした」
背後に控えていたエルザがぽつりと漏らした。
「あのお2人以外には決して懐かず、餌を与えても人気がなくなるまで食べようとせず。いつも抑えつけていなければ、すぐに暴れ出してしまうのでお世話をしたがらない者ばかりという有り様です」
「なるほど。誇り高い駻馬というわけだね。シャルロットは認められてないのかい?」
「うん。そんなに暴れてたら馬肉にされちゃうぞって言ってるのに、全然聞いてくれないの」
「こんなに立派で美しい馬を肉にするだなんてとんでもないわ! 嗚呼、素敵。こういう白馬って最高よね。背中にはロカを乗せて、私が彼女の背後から抱きついて……はぁぁ、至福の時だわ」
頭の中が花畑で満ちている狼の少女はうっとりとしながら言った。
「獣人でも馬に憧れるものなのかい?」
「草原で暮らす以上、馬は大事な存在よ。ロカや私は馬よりも速く走れるけど、普通の獣人はそこまで足は速くないしね。帝国を始めとする他の国と違って、戦場を共に駆け抜けるようなことはあまりしないけれど」
「獣人の武器は自分の身体だから?」
「そう。剣とか槍は持ってないから、馬に乗って特攻なんてしないし。だから、馬は乳絞りや荷運びに使われるのが普通かしら。他の国とは接し方こそ違うけれど、私たち獣人と馬は草原で共に暮らす大事な仲間よ」
シャウラはそう言いながら、今はただ横たわるのみのブレンダンを見つめてどこか寂しそうに表情を曇らせた。
その時、シャルロットがぽつりと呟く。
「ブレンダン、もう長くないかな」
「シャルロットお嬢さま。そのようなことは……」
「いいよ、べつに。わたしそういうの慣れてるもん」
どこか達観したかのように言う少女は続ける。
「1回でいいから見たかったなぁ。父さまを乗せたブレンダンが走るところ」
憧れよりも、そんな光景は見られないだろうという諦観の方が強い言葉だった。
普段はロカ以外の他人がどう言おうとどこ吹く風のシャウラが、気を遣っておろおろしているのが面白い。
エルザはその光景を黙って見守ったまま。こんな状況であっても無表情を崩さないあたりは、主であるデュラス将軍と同じようだ。
僕は改めてブレンダンを見る。
その身体は確かに痩せ衰えている。命の灯火はもう幾許もないように思った。
でも、誉れ高き大英雄をその背に乗せ、共に戦場を駆け抜けた白馬の瞳からはまだまだ走りたいという強い想いが感じられるような気がした。
「シャルロットお嬢さま、そろそろ魔導銃の指導の時間です。参りましょう」
「べつに興味ないもん。エルザだけいけばー?」
「そういうわけには行きません。魔導銃は今後のエルベリア帝国軍にとって、なくてはならない代物となります。シャルロットお嬢さまも後学のためにも見学なさってください」
「やだー。そんなことするくらいなら、テオお兄ちゃんと剣のお稽古がしたいなー」
「ねえ、こんな男なんて放っておいて私と体術のお勉強をしましょう? 剣術は得意でも体術はまだまだでしょう? ゆっくりじっくり色々と教えてあげるわ!」
「シャウラは気持ち悪いからやだ」
「なっ……!?」
これ以上ない拒絶の言葉に衝撃を受けているシャウラを横目に、エルザはシャルロットの肩をがっしりと掴んだ。
「わがままはいけません。そもそも本日はグランデンの軍人たちへの魔導銃の指導が目的で軍部へと招かれているのです。事前にそうお伝えしたでしょう」
「だって、つまんないだもんー! ねえ、テオお兄ちゃんはー? 剣で戦おうよ! 今度はせいせいどーどーと勝負するから!」
「君の言う正々堂々は目的を果たせれば何でもいい勝負のことを指すんだろうね。僕は別に構わないけど、頭にたんこぶを作って地面に倒れ伏すシャルロットの哀れな姿を見たくはないかな」
「なにをー!? わたしだって絶対に負けな……あ、あっ、ちょっと、エルザー!?」
エルザはシャルロットの両脇を抱き上げてから、こちらへ向かって一礼すると騒ぎたてる少女の文句を受け流しながらさっさとどこかへと去っていってしまった。
それを見て、シャウラはぽつりと呟く。
「……あのメイドさんもいいわよね。無表情の裏にはどんな感情が隠されているのかしら。是非お近づきになりたいわ」
にへらっと笑う彼女を見て、僕は思わず苦笑を漏らした。
僕が厩舎を離れて街中に出た時、ふと違和感を覚えた。
普段ではまず滅多に感じない感覚。これは――空間の揺らぎか。
人の身体のせいでこういった感覚に鈍くなっているけど、この空間がブレる独特の現象は間違いない。
その時、背後から声がした。
『ルシファーさま。今のは……?』
「空間の揺らぎだ。珍しいな」
レナが脳内に声を響かせてきた。
周りに他の人間がいないのを確認して、本来の口調へと戻った私は先を続けた。
「何らかの事象によって、空間が揺らぐということは遥か昔には度々あったことだ。たとえば、階梯の高い魔法の凄まじい威力によって発生したり、あるいは自らの意思で空間を切り裂くことを目的とした魔法そのものの力によって揺らぎが発生する」
『自らの意思、でございますか? 空間を切り裂いて、一体何が起こるのでしょうか』
「空間の揺らぎが大規模なものへと発展していった時、次元の裂け目というどこへとも繋がっているかわからない未知なる領域への『扉』が開かれる。自らそれを起こす目的は様々だが、過去に彼の魔術大国キアロ・ディルーナ王国では魔導生物の失敗作をその裂け目に捨てるという事例が相次いだのだ」
魔導生物はモノによっては大変な危険が付き纏う厄介な生き物でもある。
先の末期の雫事件の折りに見かけた、エルフのみを食す魔導生物は自立歩行すら不可能だったがその性質は凶悪そのものだった。
アレは結局は末期の雫を造り出すことしか出来ないただの道具のようなものであり、危険性は低い方だった。
だが、本来の魔導生物は人間や獣人の神使が本気で戦わねば倒せないほど厄介なものが多い。
命令に忠実で殺傷能力も高く耐久力や持久力にも優れる魔導生物だが、造り出すのは難しいとされている。
戦場で猛威を振るった魔導生物を造り出すまでに、一体どれだけ多くの失敗作を生んでしまったのかは想像に余りあることだ。
戦闘能力は高くても命令を聞かなければそれは失敗作に等しい。早急に処分するのが望ましいだろう。
しかし、簡単に殺せるような生物ではないのだ。禁術に相当する威力の術式を何発当てても生き残っているような化け物共だから、単に動けなくするだけでも人間たちには困難を極める。
そのために用意されたのが、空間の揺らぎから生じる次元の裂け目を利用した処分方法だ。
どんな力を持っていたとしても、その裂け目に追い詰めてしまえばその先の空間へと落ちてもう2度と帰ってくることはない。
私が知り得る限りの情報はこの程度でしかない。
そういえば、テネブラエの私の宮殿の図書館にそういう情報が記載された書物を蔵書していた気がする。
正真正銘、魔導生物が戦に使われていた時代の書物だが、とかくあの魔術大国は秘密主義が徹底している。大した情報は書かれていなかったはずだが……。
何はともあれ、そのような魔導生物を造り出しているのはキアロ・ディルーナ王国のみ。
この帝国の地で処分が必要なほど危険な魔導生物が徘徊している可能性は前にも考えたことがあるが、やはり可能性は低い。
ということは、この空間の揺らぎは魔導生物の処分とは関係ない事象であると考えた方が現実的だろう。
しかし、空間の揺らぎなど滅多に起こる現象ではない。
この現象の肝心なところは自然にはまず起きず、そのほとんどが『人為的』なものによるということだ。
神殿の襲撃事件が起こっている最中にまた他の人為的なことが起きたとなれば、この両者には何らかの繋がりがあると考えた方がいい。
以前、クロード・デュラスはミルディアナで起きた末期の雫事件と今回の神殿襲撃事件は同一の目的を持つ者が黒幕であるのではないかと主張した。
ミルディアナではエルフの失踪事件を放っておけば、天魔があの学術都市を破壊し尽くして夥しい数の死者を出しただろう。
その際には帝国は大混乱をきたす。そこで更に神殿襲撃事件を起こせば混乱はいっそう激しいものとなる……が。
神殿が襲撃された『だけ』では、人々は混乱し不安を抱き続けるのみに留まる。自分たちが害される心配をしながらも、人間は目先の天魔襲撃事件の方に注目するだろう。
だが、それで終わるはずがないのだ。
この大規模な陰謀を企てた者であれば、必ずや『ミルディアナと同等かもしくはそれ以上』の大事件をグランデンでも引き起こそうと考えているはずだ。
天魔が暴走を続ければ軍部の手はそちらに注力される。
そして間を置かずにグランデンでも事件を起こせば、もはや混乱するのは民衆だけに限った話ではなくなるだろう。
神殿に安置されていた古い水晶。アレはこの事件の鍵となっている可能性が高い。
答えはあの中にあるはずだが……。
深く考え込んでいた時、レナが囁いてきた。
『ルシファーさま。嫌な気配がします』
「……ん?」
『この背筋が凍えるような感覚は、濃密な死者の気配のように思えます』
「死者か。無害な浮遊霊のことを言っているわけではないのだな?」
『はい。以前、レヴィアタンさまの住まう死霊の宮を訪れた時に感じたことがある、生者に向けられる底の知れないほどの深い嫉妬と憎悪に近い気がします。しかもとてつもない数の負の感情がこのグランデンへと向かってきている――そう感じてなりません」
私もいまは人間の身体とはいえ、中身は魔神だ。
大抵の力は封じていても、普通の人間よりも死者が近づく感覚には敏感でもある。レナよりは鈍感になってしまったようだが。
しかし、まだ何の気配も感じられないということはその死者たちはすぐ近くにいるわけではないということか。
「この近辺で死した者であれば、レヴィの死霊の宮へと引き寄せられるのが常だ。レナ、その死者の気配は確かに多いのか?」
『はい、間違いありません。ゆっくりとではありますが、大勢の気配が近づいてきています』
妙な話だ。
死霊の宮は亡霊にとっては安息の地に等しい。
本能的にそれを感じとって引き寄せられるはずなのに、死者の群れがそうしない理由は何だ?
……何者かに操られているのか?
闇の力を操る高度な晦冥術であれば、死霊を意のままに操ることは不可能ではないが、その意図がわからない。
何故このグランデンの地へと大勢の死霊を差し向ける必要があるのか。
単なる死霊であれば、神殿の僧兵たちで容易に対処出来るのは目に見えている。確かに数に物を言わせれば強引に攻め入ることも不可能ではないが、効率が悪い。
それとも、神殿の襲撃自体は目的ではないのか……?
ふと空を見上げれば、夕焼けが目に眩しい頃合いだ。
さて、今日中には何かが起こるのか。それとも、まだその時ではないのか。
――ふむ。悪くないな。
「神殿の襲撃事件に続き、空間の揺らぎが起こったかと思えば、今度は死者の群れか。まったく、わけがわからんな。実に困ったものだ」
『……ルシファーさま? そんなことを仰っている割には、口もとが笑っておりますよ?』
「ミルディアナの事件は退屈を持て余していた私にとっては、なかなかの催し物だった。暇潰しとしても悪くない。それだけに、不満が残るのだ」
『楽しんでおられたのに、不満でございますか?』
「だからこそ、だ。この事件の黒幕が次は何をしでかすつもりなのかが楽しみで堪らん。だが、いかんせん焦らし過ぎだ。早く次の見世物を始めてほしくてな。此度の死者の行軍がその嚆矢たらんことを願って止まぬのだ」
『……我が至高の主にして、最愛の旦那さまの悪癖には困ったものです』
「付き合い切れんか?」
『無論、最後までお伴致します。私のこの身この命はすべて貴方さまに捧げたものなれば』
「それでこそ私の妻に相応しい女だ。レナ、共にこの見世物を楽しむための準備を始めるぞ」
私はレナにこれからの行動指針について説明を始めた。
☆
同時刻。
城塞都市グランデンの墓地は静謐な空気に満ちていた。
夕日に照らされた1つの墓標の前に、過日のゼナン竜王国との戦で大英雄と謳われたクロード・デュラス将軍が佇む。
金髪の将が見下ろす墓標には、ナスターシャ・デュラスと刻まれている。
それをしばらく無言で見つめていたクロードは、静かに口を開いた。
「……すまない、ナスターシャ。言い訳にはならないかもしれないが、このところは軍務に追われていてここに顔を出すことも出来なかった」
ナスターシャの命日は過ぎ去ったばかりだった。
帝都アグレアであの元老院会議が開かれた日と妻の命日が重なり、訪れるのに時間を要してしまったのだ。
「君がいなくなってから、シャルは変わってしまった。復讐に囚われ、もはや誰の言葉もあの子には届かない」
妻の死を知ってから、シャルロットは数日間何も食べずにずっと泣いていた。
その後はまるで廃人にでもなったかのようにただ生きているだけというしかないほどに憔悴しきっていたのだが、ある日を境に剣を取り鍛錬に励むようになっていた。
元から剣術が好きな子供だった。
父であるクロードの背中を無邪気に追いかけるようにして、稽古を続けていたものだ。
その頃から何かとやんちゃをするような子ではあった。しかも神使としての力も得ている。
青髪の者特有の、生まれながらにして神の加護を受けている証拠とも言えるその力は凄まじいものであり、まだ無邪気だったあの頃からグランデンの地でシャルロットと立ち合って勝てる者など両手で数えられるかどうかさえ怪しいものだった。
そして復讐心に駆られた今となっては、もはやあの少女とまともに戦える者は自分を除いて他にいないと思っている。
そう考えると、自然と自らの部下であるクラリスの顔が脳裏を過ぎる。
彼女もまた優秀だ。普通の勝負であれば、いくらシャルロットが相手であってもまずクラリスが勝つ。だが、彼女には明確な弱点がある。
彼女は型通りの戦い方を極めている。剣術・体術・魔術、どれを取っても基本に忠実であり尚且つそれを昇華させている。もっと経験を積めば、いずれは将軍となるほどの力を持ってもおかしくはないのだが。
それは裏を返せば型通りの戦い方しか出来ないということになる。
現に彼女はこれまでにシャルロットと何度も手合わせをして、あの幼い少女の思いも寄らない攻撃をまともに食らって負けたことが何度かあった。
そう、クラリスは目の前の相手が正々堂々と勝負を仕掛けてくればまず負けないが、まったく予想外の手を使われると咄嗟に反応することが出来ずに動きが止まってしまうのだ。
クラリスは戦いにおいて、誰よりも真摯に物事を考えている。
考え過ぎてしまうばかりに、頭の中が凝り固まり、意表を突かれてしまえばあっさりと崩れ去る。それこそが明確な弱点に他ならない。
それは経験不足な点よりも、彼女の生真面目過ぎる性格が災いしてのものだ。矯正するのは並大抵の努力では不可能だろう。
このグランデンの地では彼女は強い。それどころか、あのミルディアナの特待生たちを相手にしても一歩も引かない戦いをした。他の場所でも十分通じるだろう。
明らかに突出した才能であり、それこそが彼女の誇りそのものでもある。だが、それは自然と彼女の慢心へと繋がってしまっている。
最近は反発してくることが多くなった。まだ自分が仮の尉官の身でしかないという事実に納得が行っていないのだろう。
だが、そんなクラリスがもし戦場でシャルロットと敵として出会った場合、結果は知れている。
他の大勢の軍人たちと同じく、物言わぬ躯となって野晒しにされるのはクラリスの方だろう。
それほどまでに、シャルロットという少女は復讐心を糧にして凄まじい強さを手にしてしまった。
「……私は、何も出来なかった。シャルが悲しんでいる時も、憤っている時もあの子の傍にいてやることが出来なかった」
今となっては、シャルロットが得体の知れない何かに見えてしまうことがある。
もはや自分の言葉も想いも、あの少女には通じない。
クロードは瞼を閉じて、今は亡き妻へと語り続ける。
「『あの日』、私は君のことを、生涯を賭けて守り抜くと誓った。何を敵に回しても、君を守り、シャルを守り、ひいてはこのグランデンを守り続けると誓った……それなのに」
かつて自らが紡いだ理想の言葉とはあまりにもかけ離れた現実が、自らの双肩に重く圧し掛かる。
誰もが大英雄と崇め、畏れ敬い、大女神オルフェリアが創り出した神剣に選ばれた最強の騎士。
国を守る剣となり、民衆を守る盾となるべき者。その重圧に耐えているのは、まだ齢三十にも満たない男だった。
騎士として誰よりも強い力を持つ男は、自然と握った拳に力を入れる。
「私は、大英雄などと呼ばれるべき存在ではない。戦う力があるだけの、ただの人間に過ぎない。まことに英雄と謳われるべきは、力も持たずしてなお必死にあの戦を生き残った民衆だ……私のような男のことではない。大切な人1人を守ることすら出来ない、私などでは……」
それ以上の言葉が続かず、下唇を噛み締めて俯いた時――ふと一陣の風が吹いた。
その時、まるで寄る辺なき道を歩む迷い子のように不安定な感情を露わにしていたクロードはすっと無表情に戻って言った。
「……来たか」
風が吹く。まるで何かを語りかけるかのように。
「わかった。これより戦の準備を始める。何としてでもこの地は守り抜くぞ」
風がそよ風のように吹いた。
「……気にするな、些事だ。もはや感傷に浸っている暇はない。私は、私に出来ることをするまで」
大英雄クロード・デュラスはそう呟き、神剣の柄に手を添えた。
「大女神オルフェリアよ。本来、『選ばれるはずのなかった私』にどうかその力を」
そう呟いて妻の墓標から踵を返した大英雄の瞳には、覚悟を秘めた炎のような光が灯っていた。





