幕間「魔術大国の聖女」
「交ざり者共を前にして逃げ出すとは何たることか! この恥知らずめが!」
キアロ・ディルーナ王国。
魔術大国とも謳われるその王国の前線基地の内部に怒号がこだまする。
「も、申し訳ございません……! ですが、現状を報告せねばと思い至りまして……!」
「ふん、野蛮な獣に臆しただけであろう! 貴様がその命を顧みずに剣を取っていれば、今頃我らが同胞の1人や2人が生き永らえる可能性はあったかもしれぬと言うのに……よもや帰ってきたのが魔術も扱えぬ下賤な屑が1人だけとはな!」
ルーガル王国の軍勢は徐々に北進を続けている。
現に今回もキアロ・ディルーナ王国が初期に奪い取った砦を奪還されたのだ。
砦に詰めていた兵士たちはほとんどが殺され、ほうほうの体で逃げ出せたのは自分だけだった。
獣人族たちの脅威は想像以上だ。
もしかすれば、この砦が落ちる日が近いかもしれない。
この現状を打破するためにも、何とか戦況を報せに帰ってきた途端にこれだった。
「交ざり者共に警戒など不要。我らはただこの砦を死守するのみぞ」
「で、ですが……」
「まだ口答えをすると抜かすならば、その身体を粉微塵にしてやろうか」
「ひっ……」
膝をついて怯える兵士の前で尊大な態度を取っているのは、キアロ・ディルーナ王国の元帥フェスター・ブラハムであった。
恰幅の良い身体に赤いローブを纏っている。
禿頭で鋭い眼光をしたその男は既に80歳に迫ろうかという高齢だった。だが、その強大な力は留まるところを知らない。
若き頃からキアロ・ディルーナ王国の名将と謳われ、王族とも懇意にしている事実上の魔術大国の総軍司令官だった。
ブラハム元帥は、周囲に立っている兵士たちに問う。
「牙と爪で戦うことしか知らぬ交ざり者共相手に尻尾を巻いて逃げるとはな。これではどちらが獣かわかったものではない。そうであろう?」
「はっ! 我らは決して同胞を見捨てず、同胞に命の危機が迫ればその身を以て盾となって散るが運命!」
「くっく……そうであろう、そうであろう。お前たちはこの男のように情けない姿を見せるでないぞ!」
「お任せを! 交ざり者共に後れを取るような無様は決して晒しません!! ましてや同胞を見捨て自分だけ生き延びるなど言語道断!」
その同胞の中には、魔術を扱えない自国民は含まれてはいない。
魔術大国に生まれながら魔術を扱うことの出来ない男は、彼らの嘲弄を一身に浴びてもなお唇を噛み締めることしか出来なかった。
と、その時。
「何を嘲っているのですか?」
柔らかな声質ながらも、凛とした言葉が室内に響き渡った。
その場にいた者全員が声の主を見る。
そこに立っていたのは、まだ年若い少女であった。16、7歳といったところだろうか。
黒髪を後ろで結った美しい少女だった。
前線基地には似つかわしくない貴族の令嬢が身につけるような衣服を纏っている。しかし、ロングスカートの右側には深いスリットが入り、彼女の白い太腿が露出していた。
これは少女が『飛竜』を駆る時のための衣装だ。
「……これはこれは姫竜将殿ではあるまいか。この砦に何の用があると言うのか」
「近隣の砦や村々での怪我人の手当てが終わったので帰還しただけです」
少女はまるで喧嘩も知らないような無垢な顔をしていたが、きっと柳眉を逆立てた。
「獣人と戦った者はそのほとんどが生きて帰ってくることが叶いません。にもかかわらず、自分だけ帰れば侮蔑されるとわかっていながらも、自国のためにと必死になって情報を持って帰還した兵士を嘲笑するとは何事ですか」
静かな怒気を孕んだ声。
まさか姫竜将とも呼ばれる者に庇われるとは思わず、傷だらけの男は密かに彼女の姿を見やった。
「ふん。我らが魔術大国の出ではない貴公に我らの何がわかるというのか。将とは名ばかり。僅かばかりの癒しの力以外何も持たぬような女子供が出る幕ではありませんぞ」
「確かに貴国では魔術の才のある者ばかりがいます。ですが、他の戦闘技術の才を持つ者がいるのも確か。このようなことを続けていれば、いずれキアロ・ディルーナ王国は――」
「ゼナンの四竜将の名を冠するのを良いことに、ここぞとばかりに我らが魔術大国を嘲るか!?」
「私はそのようなことを話しているのではありません。魔術にばかり頼っていてはいけません。その傲慢さはやがては国を滅ぼすに至り……」
「黙らぬか、小娘が!! 内政干渉も甚だしいわ! 斯様な戯言しか口に出来ぬのであれば、すぐにこの国から去るがいい!」
姫竜将と呼ばれた少女はぐっと握り拳を作りながらも、俯いて震えているだけだった。
それを見やった禿頭の老人はにぃといやらしい笑みを浮かべた。
「――客将ならば少しは手柄を立ててはいかがか? 怪我人の手当てなぞ衛生兵だけで事足りますのでなぁ、『ラフィーユ・バルハウス少将』?」
老人の表情からは先程の激昂がまるで嘘のように引いているが、侮蔑の表情は変わらない。
それを知ってか知らずか、姫竜将は老将軍に背を向けてこちらへ振り返った。
「私には、私の出来ることをさせて頂きます。……さあ、治療に向かいましょう。大丈夫ですよ、その程度の怪我であれば私が治してご覧に入れますから」
重傷の男に優しく声をかけるラフィーユと呼ばれた少女。
この威圧と蔑視が充満する空間で、彼女だけはまるで違った存在に見えた。
愛らしい顔に浮かべられた柔らかな微笑みを見ていると、ふと心が軽くなった気がした。
その少女に手を取られて、少しだけ心臓が跳ねる。
男はそのまま少女に導かれて、とある部屋の中へと入った。
ステンドグラスを月明かりが照らしていた。
祈りを捧げる部屋にして、現在は姫竜将ラフィーユの私室としてあてがわれている。
客将の待遇としてはあまりに質素に過ぎるのではないかと思われたが、それでもなお月明かりに照らされる少女の姿は美しかった。
彼女は神聖術式を唱えた。
かなり高度な位階の魔術が男の傷を癒やした。優しくて温かな光が心にまで沁み渡ってくる。
男は魔術に関しての才能はない。扱い方こそ必死に学んだから、魔法陣の型式や原理などは頭にあるが、まったく使うことが出来ないのだ。
魔術大国と呼ばれるこの国では魔術を扱えない者は奴隷も同然の身分である。だが、時折王族や貴族の生まれですらその才に恵まれないことが稀にある。
伝統や血筋――それよりも重視されるのは魔力と魔導に関する才能。
王族や貴族も例外ではなく、もしも魔術を扱うことが出来なければ追放処分や酷い場合には処刑をされることもある。
それがこの国の古くからのしきたりだった。
男はこの国で生まれた。
幸いと言うべきか、三十路に近い歳まで何とか生き延びることが出来た。
戦時の軍人――捨て駒同然だが――となる前には、傭兵として山賊やならず者たちを切り捨てて糊口を凌いだこともある。……その山賊たちですら、実は落ちぶれた元貴族だったりするのだから始末に負えない。
「ブラハム元帥閣下を悪く思わないでくださいね。あのお方は傲慢ではありますが、とても優れた力をお持ちです。現在のキアロ・ディルーナ王国の戦略は、愚昧なる私には理解し切れませんが優れた知将である元帥閣下であれば魔術大国に勝利をもたらしてくれるはず」
「はっ。悪く思うだなどと……俺たちはあのお方の犬のようなものですから。あのように言われることなど日常のようなものです」
ふわっとした空気と共に少女が身を寄せ、男の身体を抱き寄せた。
あまりの出来事に困惑していると、少女が優しい声音で言う。
「あなたは犬などではありませんよ。立派な1人の人間です。どうか自身を卑下するようなことはやめてください、フレデリク二等兵」
「お、俺の名前を……何故」
「私は記憶力には自信があるのです。一度でも見聞きした人の顔や名前、経歴などは忘れません」
「し、しかし、俺のような雑兵以下の者の名前まで……」
「私はこの要塞にいる方全員の名前と経歴を把握しております。及ばずながら、客将としてこの地にいる以上は少しでも役に立たなければと思ってはいるのですが……難しいものですね」
自分より背の低い少女の抱擁があまりに心地良く、今まで溜まっていた疲れと心労が一気に抜け落ちて思わず彼女にその身を委ねてしまいそうになる。
何とか堪えようとしたが。
「良いのです、このままで」
フレデリクは柔らかな感触と甘い匂いに抗うことが出来ず、彼女に抱き支えられる形になってしまった。
「――目の前で、味方が殺されるところを見たのですね?」
「……はい……獣人たちと戦う者たちを、助けることも出来ず……」
「良いのです。こうしてあなただけでも生き残り、貴重な情報を持ち帰ってくれたのですから。お疲れさまでした、フレデリク二等兵」
年下の少女に頭を撫でられるとは思わなかったが、もはや抗ったりする力もない。されるがままだった。
今まで娼館で抱いてきたような女たちとは違う。清楚で高貴な雰囲気の少女とこのような形で触れ合う日が来ようとは夢にも思っていなかった。
気が付けば、フレデリクはラフィーユを抱きしめていた。性欲から来るものではなく、もはやいつの頃かも定かではないが幼い頃に感じたことのある母からの温もりのような感覚が脳裏にはっきりと蘇り、大粒の涙をこぼしながら少女に縋るように抱きついていた。
「この地には選民思想と差別感情が満ち溢れています。あなたのような人はその矢面に立たされて辛い思いを抱き続けてきた。私はあなたの他にもそのような人々をたくさん見てきました」
フレデリクは嗚咽を上げながら、様々なことを思い出した。
戦地で切り裂かれる魔術師たち。剣で抗おうとしてまったく歯が立たずに一瞬で首を掻き切られた魔術の才無き者たち。
先程、ブラハム元帥が言ったように自分も立ち向かえば良かったのかもしれない。
そして、潔くその場で果てていれば、少しは国の役に立ったと今は亡き両親たちと天で再会した後に言えたかもしれない。
だが、少女は言う。
「自分を追い詰めないでください。あなたが生き残ったことには意味があります」
「意味……俺が、俺如きが生き残って……何の意味が」
「天のお導きです。ほら、覚えているでしょう? 先日、天高き夜空を覆った『赤星の煌めき』を」
天空に数百、数千とも言われる赤き星々が煌めく現象。
キアロ・ディルーナ王国ではあの天文現象は吉兆だと思う者が多い。
フレデリクもまた、あの時の光景を思い出して頷いた。
「はい。とても……美しかったです」
「あの煌めきは私たちを必ずや勝利へと導いてくれます。今はどんなに戦況が悪くとも、我らが信仰してやまないあの赤き星が光り輝いた時、必ずや神からのご加護が得られるのです」
「ですが、姫竜将閣下……」
「ラフィーユでいいですよ? フレデリク」
背中を優しく撫でながら言われ、大人しく少女の言葉に従うことにした。
「で、では、ラフィーユさま……」
「はい?」
「俺が見た限り、戦況は芳しくありません。本当にルーガルの者たちを退けることが出来るのでしょうか……」
ゼナン竜王国から招かれた客将は、フレデリクからそっと身体を離すと傍のテーブルに置いてあった小さな箱を手に取った。
同じテーブルの花瓶に活けられている白い花が、ラフィーユの清楚で柔らかな印象をより一層強めている。
このお方ほど戦場に似つかわしくない方はいない。しかし、このお方のような神聖な存在こそ戦場には必要なのではないか。
フレデリクがそう考えていると、ラフィーユはくすりと笑った。
「やっぱり、あなたも私のような女は戦場には似つかわしくないとお思いですか?」
「あっ、い、いえ、そのような……!」
「良いのですよ。この身は姫竜将などと言われながら、実際には先の帝国との戦で戦死された白竜将の代わりに過ぎないのですから。それに仮にも将軍とは言え『姫』だなんて弱そうな上に、いかにもお飾りな感じがする呼称はあまり気分が良くありません」
そう言って、頬を膨らますラフィーユの表情は年頃の少女そのものに見えて思わず笑ってしまった。
母性溢れる先程の印象と、現在の幼さの残る印象。意外な二面性が見えて、フレデリクはますますこの少女のことが気になった。
だが、とフレデリクは思い出す。ゼナン竜王国は強者が蔓延る大国だ。竜の血が混ざった者のみならず、本当の竜族もが住まうという正に魔境。
確かに姫竜将という名称が、彼女はお飾り同然だという主張をしていることは否めないだろう。しかし、それでもなおあの国で将軍を名乗ることが何を意味するのかは想像に難くない。
戦闘能力は無いに等しいとされる、姫竜将ラフィーユ・バルハウス少将。
彼女がこの国の支援にやってきて既に1年以上の月日が経っていた。
その間、彼女は怪我人の手当てや病人の介護などに勤しみながら、様々な情報活動を行なっていたとされている。
だが、誰も彼女が直接戦ったところを見たことがない。
先程のブラハム元帥との会話からも、軍の上層部ですらラフィーユの戦闘能力を知らない、あるいは過小評価しているのではないかと思わずにはいられなかった。
そのような人物が何故、客将としてこの地に呼ばれたのか――そう考えていた時。
「ルーガル王国には内通者がいます」
ラフィーユがぽつりと言った。
「なんと……! まことでありますか……」
「はい。獣人族たちは絆が強い反面、絶対的な力を持つ獅子の王族を失ったことにより統率力が乱れています。故に決して一枚岩ではない。ですが、戦闘能力は極めて高く想像以上に知恵が回る。このままでは私たちが勝つのは……難しいと思います」
ラフィーユは悲しそうに俯きながら、手にしていた小箱を見つめている。
赤と黒のまだら模様をした小箱は少し奇妙に思えた。
「ラフィーユさま。先程から気になっていたのですが、その小箱は……?」
「――ここで言うことは誰にも口外しないと、誓えますか?」
「は、はい。もちろんです」
ラフィーユは人差し指を唇に当てる仕草をしてから言った。
「では……。この小さな箱の中には、戦局を打開するために必要不可欠なものが入っているのです」
「おお、それは……しかし、どうすれば」
「どうにかして、この箱をルーガル王国軍が抑えている主要な砦の1つの『リースリン城砦』に届けなくてはなりません。そこにいる人物が戦局を打破する鍵を握っています」
リースリン城砦と言えば、元はキアロ・ディルーナ王国の所有する城砦だった。
しかし、1ヵ月ほど前にルーガル王国の手によって陥落させられてしまっている。
「私にもそれらの任務を得意とする部下がいるのですが、残念ながら今は他の任務に赴いています。ですから……」
ラフィーユは言いづらそうに口籠もってしまった。
しかし彼女が伝えたいことはすぐにわかった。フレデリクは頷く。
「ラフィーユさま。よろしければその任務、俺に任せてはくださいませんか?」
「でも、これは危険なことです。失敗すればもちろんのこと、上手く行ったとしても最悪の事態に陥る可能性も十分あります」
「そんな任務だからこそ、他に任せられる人物がいないのでしょう? 俺なら大丈夫です。ラフィーユさまのためとあらば、この命を以てしてでも任務を完遂してご覧に入れます!」
フレデリクは拳を強く握り締め、自らの胸をどんと叩いた。
位は高くとも、他に頼れる者がいない少女。彼女の健気な一面に救われた気持ちでいっぱいになっていたフレデリクは死すら厭わない面持ちだった。
ラフィーユは下唇を噛みながらも懊悩する様子を見せた。何度も小箱とフレデリクを見つめた後、頼りなさそうな声で呟いた。
「本当に、いいのですか? 危険な任務です。今度こそ本当に死んでしまうかも……しれません」
「男に二言はありません!」
本来なら先の戦で散るはずだった命。
この少女のために捨てるなら、なんら惜しくはない。
そう強い思いを込めた眼差しをしていると、姫竜将は覚悟を決めたように言う。
「……それでは、フレデリク二等兵。この任務の遂行を任せてもよろしいのですね?」
「はっ! 姫竜将ラフィーユ・バルハウス少将閣下の御心のために!」
そして、フレデリクは任務の詳細を聞かされる。
それは言葉にすれば簡単だが、正に命懸けの任務。失敗すれば確実な死が待っている。
しかし、もしも成功して内通者に箱が渡ればこの不利な戦況を一気に覆せるに足る何かが起こるらしい。
そのような大事な任務を任されたことにより、フレデリクはこれまでの人生の中でもこれ以上ないというほどに高揚した気分になっていた。
自然と小さな箱を握る手に力が入る。
「本当に、ありがとうございます。あなたがいなければ、この任務を果たせる者はいませんでした」
「光栄の極みと存じます!」
「かならず、生きて帰ってくださいね。もしも途中で無理だと判断したなら、その時は絶対に先走ったりせずに帰還して様子を見てください」
「問題ありません。こう見えても、獣人たちの追撃を回避しこの砦に帰り着くことが出来るくらいの隠密行動なら得意です。今回こそ絶対に任務を成功させ、無事に帰還してご覧に入れましょう!」
力強い言葉を受けて、ラフィーユはふっと表情を和らげた。
まるで慈愛に満ちた聖女のような笑みを向けられ、フレデリクはおおと感嘆せずにはいられなかった。
「――浄化をしましょう」
「浄化……でございますか」
「そうです。あの穢れた地を清め、人の尊厳を取り戻すのです」
柔和な笑みを浮かべながら、フレデリクの頬をそっと撫でるラフィーユ。
今までの印象とどこか違う、神々しさのようなものを感じた気がした。ステンドグラスから射す月明かりが彼女を照らし出し、より神秘的に見せている。
フレデリクは自然とその場に跪き頭を垂れた。何故か、そうしなければいけない気持ちに駆られたのだ。
「大丈夫。私の言う通りにすれば、何もかもが上手く行きます」
「はっ! お任せください」
「穢れた地に、美しき花が散らんことを」
姫竜将ラフィーユ・バルハウスは、ここではないどこか遠くを見つめるような表情でそう呟いた。





