第18話「第二夫人」
テネブラエ魔族国、ルシファーの宮殿の地下にある大広間。
余計な装飾物は一切取り除かれ、ただ床に複雑な模様をした魔法陣が刻まれているだけの部屋に大きな水の塊が浮いていた。
その水の中に、1人の少女が身体を丸めてすっぽりと入り込んでいた。
長く伸ばした黒髪と人形のように愛らしい顔が特徴的な少女は衣服を一切身につけておらず、魔力で造られた水の塊の中で眠りに就いている。
少女の表情はとても穏やかでまるで楽しい夢でも見ているかのようだった。
もう10年以上の間、彼女は眠り続けていた。
どのような雑音も彼女の耳には届かない。水の塊は彼女が欲する深い眠りを叶えるためのものであった。
その永きにわたって眠り続けていた少女の表情がかすかに動いた。
深いまどろみの中で、少女は夢を見ていた。
楽しかった思い出ばかりが再生される夢の中で、不意に光景が歪んだ。
今はちょうど『最愛の男性』の肩に頭を乗せて甘えている最中だったのだが、隣にいる彼の気配が薄く感じられた。
『……どうしたの?』
少女は夢心地な口調で呟く。
ただの人間であれば傍にいるだけで殺してしまうほど膨大な魔力を纏ったその男は、少女に優しい顔を向けていたが徐々にその姿が薄くなっていった。
『どう、したの? 待って、どこに行くの?』
問いかける少女の想いとは裏腹に男の姿はあっという間にその場から消えてしまった。
彼から常に放たれているすべてを焼き尽くしてしまうような魔力までもが感じられなくなった。
あの身を焦がすような『心地良い』魔力が完全に消え去ってしまったのを知って、少女は叫んだ。
『どこ? どこにいるの? ねえ、あなた。返事をして……あなた!!』
瞬間、深い眠りから覚めた少女は魔力のバランスを崩して水の塊がその場で弾けてしまう。
床にどさりと落ちて、ずぶ濡れになってしまった長い黒髪が肌に張り付く感触も気にせず、少女はきょろきょろと辺りを見回す。
間違いない。いつも自分が眠っているテネブラエ魔族国、ルシファーの宮殿の地下室だ。
でも、いつもとは違う。あの魔力が感じられない。肌をひり付かせるほど凄まじく圧倒的な魔力がどこからも感じられなかった。
「あなた……どこ……?」
少女はすぐにテネブラエ全域の魔力感知を行なった。
魔神やその上位に値する王族の強大な魔力は感じる。
しかし、彼女が求めるものはそれよりも遥かに上の存在。すべての魔族の頂点に位置する彼が放つ凄まじい魔力の奔流だった。
どこにいても際立ってすぐにでもわかるはずの魔力が感じられない。
少女は両腕を抱きながら寒さに凍えるような心境になる。
その時、不意に部屋の扉が開かれた。
「お待ち致しておりました、ジゼルさま」
ルシファーのメイドを務める小柄な少女が黒いドレスを片手に現れた。
瞬間、そのメイドの身体から魔力を纏った熱風が放たれる。
心地良い温かさを感じたのもつかの間、見れば水浸しになっていた部屋はおろか、ずぶ濡れだったはずの自分の身体もまるで何事もなかったかのように乾いている。
「陛下は? 陛下は……どこ?」
「ご心配なさらず。我らが主には何事もありません。まずはお召し物を」
ジゼルと呼ばれた少女は、メイドに身を任せながら朧な意識を徐々に覚醒させていく。
今まで夢に思い描いていた、幸せな光景の1ページを名残惜しく思いながらもその不安げな表情は消えていく。
足元まで届きそうな長い黒髪の少女の瞳は赤かった。
フリルがふんだんにあしらわれた黒いドレスを身に纏い、コルセットで引き締められるとただでさえ豊満な胸が強調される。
頭には黒いカチューシャをつけ、黒いブーツを履く。
完全に身なりを整えた頃には、いつもの彼女が浮かべる穏やかな表情になっていた。
黒い長髪を整え、ブーツのつま先でとんとんと床を叩いて、ふぅと溜息を吐く。
「ありがとう。おかげで落ち着いたわ」
「それでこそ我が主の第二夫人です。一刻も早くあの脳みそが入っていないとしか思えない堕天使の首を刎ねて、第一夫人の座についてください。今すぐ」
「もう。そんなことを言わないで。ルミエルは私の大事な家族なんだから」
「……かしこまりました。それでは、ジゼルさまがお眠りになっていた10年のことを語る……つもりもありません。9年半以上はルミエルさまと交わっていただけなので」
「あら、そんなに。陛下はいつになく興奮なさっていたのね」
「ええ。ここ数年は破壊衝動を忘れるかの如く。問題はその後です。つい先日、ご主人さまは遂に我慢が出来なくなり、帝国へと赴きました。勇者がどうしてやって来ないのかを探る予定だったようです」
「それでテネブラエ全域から魔力を感じ取ることが出来なかったのね。範囲を拡げてみるわ」
ジゼルの魔力感知はテネブラエの領内を越えて、エルベリア帝国のおよそ半分の地域を一瞬にして覆い尽くした。
魔神ですら自国の領域の魔力を感知するだけでも精一杯だというのに、彼女は苦もなくそれをやってのける。
そして、西方領でふとした違和感を見つける。
「……西方領に不思議な気配を感じるわ。陛下の魔力にまず間違いないのに、とても弱い力しか感じられない。まるで魔力を持たない人間のように思える。でも、その傍にはレナの魔力を感じる」
「流石です、ジゼルさま。仰るようにご主人さまは現在、エルベリア帝国の西方グランデンに滞在しておられます。人間のお姿になって」
ジゼルはメイドに付き添われながら部屋を出て、長い階段を昇る最中にこれまであった出来事を聞いた。
ルシファーの気まぐれから事は始まり、人間に化けてエルベリア帝国に潜入し軍学校に入学。
その後、偶然が重なって末期の雫というものに関連する事件に自ら近づいていき、その解決に尽力したと。
地上に出てから、ジゼルは改めて周囲を見回した。
ルシファーがいない空間はとても寂しい。これまでにも彼が何度かテネブラエから離れることはあったが、それも600年くらい前を境に無くなった。
第三夫人を娶って以降はすっかり大人しくなりはしたものの、その身体から発せられる凄まじい魔力は変わらなかった。
たとえ、他の夫人と交わっている場合でもあの魔力が傍にあると感じられればまったく寂しくはなかったというのに今はとても心細い気持ちになってしまう。
とは言え、今は自分よりも寂しさを覚えている者がいるはず。
そう思った瞬間、魔力と神気を同時に纏った存在が凄まじい速度で飛翔してくるのに気が付いた。
「ジゼルー!!」
「ルミエ……」
黒髪の少女に突撃しながら抱きしめた天使は勢いそのままに宮殿の壁に激突する。
黒尽くめの少女は壁に全身を強打して頭蓋が割れ、首からごきりと音がした。
「ジゼルジゼルー! いつまで寝てるのよ、もうー! 寂しかったんだからー!!」
「……けほっ。もう。ルミエル、ったら……」
常人どころか頑強な魔族でも即死していたであろう衝撃を受けても、ジゼルの身体はすぐに修復された。
そのまま抱きついて頬ずりをしてくるルミエルを、そっと抱きしめ返して長い金髪を撫でてあげる。
「寂しがらせてしまってごめんなさい。今回は少しお寝坊しちゃったわ」
「わたし、本当に心配したんだから~!」
「もう大丈夫。私がいるから寂しくないわ。よしよし、いい子いい子」
首筋に顔を埋めてくる堕天使の背中を優しく撫でていると、ルシファーの玉座の間の方から見目麗しい女性が歩いてきた。
「ジゼル。久しぶりですわね」
「お久しぶり、アスモ。ルミエルに構ってくれていたのかしら? ありがとう」
「我が君との久しぶりの逢瀬の話をしたら、なかなか帰してくれませんでしたの。おかげで今のこの宮殿の主はわたくしのようなものですわ」
「アスモったらずるいのよ! 自分は変化の術を自由に使えるからって、勝手にだ~りんのところに行ってあ~してこ~して!」
「ずるいと言われましても。わたくしにとって我が君の力は極上の甘露に等しい。それをずっと貴女がた夫人たちに独占されてばかりいるのは癪ですもの」
「そう。そんなことがあったのね。陛下はお元気そうだった?」
「元気も元気。あまりにも元気過ぎて破壊衝動と性欲が抑えられそうになかったので、少しばかり力を吸い取ってきましたわ。……これもあの赤星の煌めきと何か関係があるのかもしれませんわね」
色魔の女王は宮殿に降り注ぐ月明かりを眺めながら呟いた。
「また、赤星の煌めきがあったの?」
「あった」
ルミエルがぶっきらぼうに答える。
それまで上機嫌そうだったのが嘘のようになってジゼルを解放して立ち上がり、首のチョーカーを弄りながら言う。
「きっと、近いうちにまた何かが起こるわ」
「わたくしの見解では、もう既に何かが起きていると思っているのですけれど」
「ルミエル、アスモ。詳しくお話を聞かせてちょうだい。立ち話もなんだし、紅茶でも飲みながらゆっくりと。ね」
いつの間にか傍に控えていたメイドの手を借りて、ジゼルは起き上がった。
先程折れた首をかくかくと動かして異常がないのを確認しながらメイドに言う。
「それじゃあ、カーラ。ちょっとしたお茶会の準備をお願い出来るかしら。月明かりを眺めながら歓談するのも悪くはないでしょう」
「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」
カーラと呼ばれた小柄なメイドはすぐにその場から立ち去る。
それを見ていたアスモデウスが顎に指を当てて面白そうに笑った。
「いつ見ても不思議ですわね。あの『吸血鬼の真祖』ともあろう女が貴女のような元人間に懐くだなんて」
「わたし、あいつきらーい。絶対わたしのことバカにしてるもん」
「それはいつもの貴女の言動に問題があるのではなくて?」
「なによー! だ~りんがいない今、この宮殿の主はわたしなのよ? メイドの1人や2人好き勝手に使って何が悪いのよー!」
「彼女が忠誠を誓ったのは貴女ではなくて、我が君でしょうに。これだからわがままな自覚のない女はいけませんわね」
アスモデウスがくふっと小馬鹿にしたように笑うのを見て、ルミエルは眉根をしかめた。
「なんですってぇ! さっきも言ったけど、今はわたしが主なの! あんただって今はただの来賓扱いなんだから!」
「……面倒だからわたくしに玉座を譲るなどと、のたまったのはどこの誰だったか」
「ふふん。いくら魔王だからと言っても、ここではわたしには逆らえないんだから! だから、こんなことをするのも当然よね?」
ルミエルはアスモデウスに近づき、その胸元に顔を埋めた。
そのまま両手で彼女の豊満な乳房をわしわしと揉む。
「あらあらまあまあ、なんて品のない揉み方を」
「うるさーい! こんなおっぱい見てたら揉みたくなっちゃうのよ! 好きなだけ揉ませなさい! 今はわたしが主よ!」
「ふふ、わたくしの魅了は殿方のみならず女にも有効ですから無理もないかもしれませんけれど……仮にも元天使ともあろう者が情けないですわね」
ルミエルとアスモデウスのやり取りは決して穏やかなものではないが、2人とも仲が悪いわけではない。
たまにルシファーを取り合って喧嘩になることもあるが、結局どちらを選ぶかは彼次第なのであまり意味はない。場合によっては2人同時に愛でられることもある。
10年以上も眠り続けていても、このあたりは何も変わってはいない。
今もアスモデウスの胸をもみくちゃにしているルミエルと、まるで荒ぶる犬を宥めるかのようにそれを受け止める淫魔の魔王の光景を見てジゼルは人知れずくすりと笑った。
夜のお茶会を嗜みながら、情報交換が行なわれた。
帝国の南方領のミルディアナで起こった末期の雫事件と、現在発生中である西方領のグランデン一帯で起きている神殿襲撃事件。
それを聞いておおよその事情を察したジゼルは優雅にティーカップを傾けながら、現在自分が行なうべき行動を整理した。
「魔導を究めるのを信条としている身では、天魔召喚の術式の解析をしてみたいのだけれど……今は陛下のことが気掛かりね」
「あら。何か予兆でもありまして?」
「……あまり、良くない夢を見たわ。陛下に危険が迫っている可能性もあるかもしれないの」
すると、ジゼルの隣でクッキーを頬張っていたルミエルが指先を舐めながら言う。
「いいことも悪いことも、ジゼルの夢は大体当たるじゃない。『千里眼』とか言いながら威張っておいて肝心な時に役に立たなかったベルゼブブとは大違い」
「ベルゼの性格はあなたも知っているでしょう? 彼はきっとあなたを帝国に向かわせて大暴れさせたかったから何もわからないふりをしただけだと思うわ。お茶目さんなのよ」
「何がお茶目よー。ほんとそんなだからあいつは嫌なのよねー。まったく油断も隙もないんだから……!」
この場にいない老魔神のことを思い出したのか、ルミエルは苦い物を噛み潰したかのような顔をして呻く。
結果的にはルシファーを助ける一助となったのは幸いだったが、何を考えているかわからない魔王がうちの1柱にそそのかされたのがよほど嫌だったらしい。
「でも、おかげで陛下と久しぶりに逢えたのよね? どうだったかしら」
「最高だった! 見た目は可愛くなっちゃったけど、中身はしっかりだ~りんのまんまだったし思わず襲っちゃった」
「そういえば、人間の姿に化けているのよね。どんな格好なの?」
「青髪の美少年! 細かいところはレナに任せたけど、そこだけは絶対譲らなかったんだから!」
自慢げにいう堕天使に対して、アスモデウスは溜息を吐いた。
「わたくしがその場にいたら全力で引き止めましたのに。もう過ぎたこととは言え、悔やまれますわ」
「なによー。青髪が嫌だっていうわけ?」
「お姿はとても可愛くて、かつ凛々しくていい感じでしたわ……もっと愛でていたいくらいに。でもそういう問題ではありませんの。帝国にとって青髪とは特別な存在と同義。目立たぬように調整したつもりなのでしょうけれど、アレは嫌でも人目につきますわ」
その言葉にジゼルも反応した。
「昔の文献では、青髪と言えば創世の大女神オルフェリアさまの加護を受けし者というのが常識だったものね。『ルトガリア王国』――現エルベリア帝国の建国神話で神剣を手にして竜神王さまを倒した大勇者こそ青髪の者だったからそう言われていたみたい」
「わたくしは詳しくは知りませんけれど、今はその常識は無かったことにされていますわ。現に今現在、あの神剣リバイストラを手にしている大英雄と呼ばれしクロード・デュラス将軍は金髪の殿方でしたもの」
「そうなの? 神剣を手にするのは青髪の者だけだと聞いていたけれど。私が幼い頃、帝国にいた時に読んだ本にはこう書いてあったわ。青髪の者には魔力とはまったく違った力が備わっていると」
自らの幼い頃に読んだ文献を思い出していると、ルミエルが言った。
「それは『神通力』よ。わたしたち天使が発する神気と同じようなもの。生まれ持った才能が関係しているからどんな力があるかどうかは人によって違うけど……所詮はオルフェリアさまの力の切れ端みたいなもの」
「神通力と言えば、オルフェリアと聖炎の力はそうだと言われていますわね。……まったく、どうして魔王ともあろう者が大女神の加護を持った人間の姿にさせられなければいけなかったのか理解に苦しみますわ。我が君もそのあたりはてんで無頓着ですから、後で少しばかりのお勉強を施して差し上げないといけませんわね」
「いいじゃない。どうでもいい人間に化けるくらいなら、少しは目立つような姿になった方が面白いもの。いざ戦いになったところで、だ~りんなら実際の青髪の人間より強いから心配ないし~」
「…………青髪なら、とても目立つわね」
そう呟いて、ジゼルは目の前に魔法陣を展開させた。
陣には複雑な紋様と古代文字がびっしりと描かれ、それから放出される魔力は魔術や禁術の領域すら越えているように思えた。
何の予備動作もなしに現れたそれを前にして、ルミエルは首を傾げる。
「それって、ジゼルが研究してた『空間術式』?」
「そう。私が魔導を究める理由は、時と空間を操る術式を完璧に制御出来る領域へと至るため。まだまだ階梯は低いけれど、今はこれで十分なはずよ」
ジゼルは指をぱちりと鳴らした。
その瞬間、魔法陣が作動して周囲の景色を一変させる。
そこに現れたのは広い草原と、古びた砦。そしてそのすぐ前を流れる小川だった。
「これは我が国と帝国の国境沿いですわね」
「ええ。これを使って陛下の様子を探れないかと思って」
「ふわぁ……流石はジゼルー。こんな魔法も簡単に使えちゃうだなんてわたしも誇らしいわ!」
「ふふ。覚えるのは大変だったのよ? おかげで10年以上も眠らないといけないほど力を消耗してしまったし」
ジゼルがそう言っている最中にも、景色はだんだんと帝国の領域内へと入り込んで行った。
この空間術式は大規模なものであり、本来であればすぐにでも高等魔法院に察知されるはずだったが、テネブラエからは常に魔力が溢れている影響もあってその監視網を掻い潜ることが出来た。
城塞都市グランデンへと至るまでの砦を1つ、2つと越えていき、また広い草原にまで至った時。
一瞬だけ、ピシリと音がした。
「? なに? 今の?」
「……時空に歪みが出た、ような……不思議な感覚がしたわ」
しかし、ジゼルたちが覗き見る景色には何の異常も見受けられない。
最強の魔王の夫人たちが不思議そうにしながら語り合う中、同席していた色欲の魔王アスモデウスはふと懐かしい感覚を覚えた気がした。
本当に一瞬だけ。刹那にも満たないその瞬間に覚えた感覚に想いを馳せた後に呟いた。
「この感覚は……まさか……。いや、でも」
「アスモー? どうしたのよ」
「……いえ、何でもありませんわ……。多分わたくしの思い違いでしょうし」
「何よ、あんたまでベルゼブブみたいに耄碌したんじゃないでしょうね? 結構な歳なんだから」
ルミエルの冗談めいた挑発に耳を貸す気分にもなれず、アスモデウスはジゼルの使う空間魔法の光景をずっと眺めているのだった。
PCの調子は戻りましたので更新を再開します。
最近の更新は3日感覚でしたが、今後(11月初旬以降)は少しバラつく可能性もあります。ご了承ください。





