第14話「落涙」
赤い髪の青年は、あまり得意ではない酒を飲みながら当時のことを思い出していた。
それを聞いている青髪の少年――テオドールは、いつもの掴みどころのない様子とは違って真剣に耳を傾けている。
気が付けば、彼の前で自分の身の上話を続けてしまっていた。
このような話は他人に聞かせるべきではない。栄えあるレルミット伯爵家の汚点以外の何物でもないのだから。
そうは思いつつも、キースは話を打ち切ることが出来なかった。
「親父殿は、戦場で突如として聖炎の力を失ったのだ」
「……ふぅん。それは何か理由があるのかい?」
「わからん。聖炎の使い手は、代々レルミット伯爵家直系の血を引く者のうちから1人だけが選ばれていた。その加護は使い手が死ぬまで決してその身から離れることはなかったのだ……これまではな」
どうして父の時に限ってこのようなことが起こったのかは未だにわかってはいない。
だが、当時の母とキース本人はそんなことよりも愛すべき人が戦場から帰ってきてくれたのを何よりも喜んだ。
……しかし、出迎えた家族を前にしてレルミット伯爵は生気の抜けたような表情を浮かべ、何も言わないまま屋敷の中へと入ってしまった。母やキースのことなどまるでいないように感じているように思えた。
かつて頭を撫でてくれた手のぬくもりを思い出して、幼かったキースは寂しい気持ちになった。
それからレルミット伯爵家の凋落が始まるまでに大した時間はかからなかった。
聖炎の力を失ったばかりか、戦で負った傷もなかなか治らず、父はその屈辱から逃げるかのように酒に溺れ、誰彼構わず罵倒を浴びせるようになった。
その矛先はすぐに母やキース自身にも及んだ。
「――暴言だけでは飽き足らず、親父殿は泥酔しては物に当たるようになった。自分に戦う力がない苛立ちがそうさせていたのだろう。それもすぐに人間にも向けられ、最初は少しの不注意を働いただけの使用人を殴り飛ばし、父が幼い頃から面倒を見ていた年老いた使用人も些細なことをきっかけにして蹴り飛ばされ、足蹴にされた。使用人はその時に負った怪我が原因で屋敷から去ることになった……」
キースは溜息を吐きながら、頭を掻きむしった。
当時のことを思い出すとそれだけで胸が張り裂けそうな想いに駆られるが、やはり続く言葉が勝手に漏れ出てしまう。
「親父殿は遂に俺にも手を出すようになった。俺はその時には既に神の加護を受けた神使だったから、何度殴られようと蹴られようと平気だった。痛みはするが、すぐに傷も治る……。
だが、母はそんな俺を庇うために父の目の前に立って必死に宥めようとした。何の力もないただの婦人が、傷などモノともしない俺を守るために必死になって言葉を紡いだ――だが……」
「お母さんも殴られるようになった?」
「ああ……。殴られ、蹴られても、顔を腫らして血を流しながらも母は諦めなかった。在りし日の頃のように父に対して笑いかけて、励ましの言葉を口にした。もはや力を失い、負傷していたとは言え、父は鍛え上げられた軍人だ。それがどれだけの痛みだったのか……俺には想像することも出来なかった」
「力を失い、やり場のない怒りを周囲にぶつけた……か」
ふと、テオドールの口調が少しだけ変わったような気がした。
見れば彼は腕を組んで、何事かを深く考えているように思えた。
「だが、励ましの言葉も今となって思えば逆効果だったのかもしれん。父は母や俺に暴力を振るう度に『馬鹿にしやがって』、『そんな目で見るな』としきりに口にしていた。だがな、酔いが覚めた時になるとその激昂も治まり、すぐにかつて見せたような生気のない表情になってこう呟くのだ。『見捨てやがって……』と」
「聖炎の力を失ったことが何よりもの屈辱だったということかな」
「事の発端にして最大の原因はそれだろう。気が付いた時には、使用人の数は減り、家族同士の会話もほとんどなくなり、華やかなりし伯爵家と羨まれていたレルミット家は無残な有り様になっていた。
その時のあの男――ああ、いや、親父殿の姿は見るに堪えなかった。俺がかつて憧れていた広くて逞しい背中の面影はもはや無くなってしまった……」
父へと抱く複雑な想いは様々だった。
同情もしたし、憐れみもした。だが、それと同時に怒りも湧いてきた。
誇り高きレルミット伯爵家の名を穢すような父の行動に、幼いキースは我慢の限界を迎えた。
「俺は、また使用人に暴力を振るおうとしている父の手を止めて真正面から問いかけた。『レルミット伯爵家の誇りはどうした。聖炎を受け継ぎし血筋の矜持はどこへ行った。力のない者を足蹴にするのがレルミット伯爵家当主のなすべきことなのか』とな」
「どうなったんだい?」
「もはや聞く耳などなかった。言い終わる前には既に殴られていた。何度も殴られて、流石に意識が飛びそうになり、それでも最後まで言い切ったのだが――母がまたかばってくれた。
俺はすぐに母を引き剥がして大丈夫だと言おうとしたが、それでも母は俺に対して笑みを浮かべながら『大丈夫だから』と呟いて、代わりに殴られ蹴られ……父が疲れ果てるまで続いた暴力の後も、すぐに父に駆け寄って慰めようと懸命になっていた……」
「それで?」
「俺は自分の愚かさをやっと悟った。もはや今の親父殿には何を言っても通じぬのだとやっと理解したのだ。だからせめてこれ以上母が傷付かないよう、俺も親父殿の意見に反抗するのをやめ、使用人たちもみな親父殿を刺激しないように接していた。その終わりの見えない暗い日々も、時間が経てば解決するとそう思っていた」
気が付けば、キースは麦酒を入れた杯を握り締めていた。
後に続く光景を思い出しただけで吐き気がしてきそうになる。
それと同時に、いくら同輩とは言えこの先を伝えても大丈夫なのかとテオドールの表情を盗み見た。
彼はすぐに視線に気が付いたのか、こくりと頷く。
キースはもうすべて話してしまった方が楽だと思い、口を開いた。
「ある日、俺はたまたま夜中に眠れずに屋敷の外に出て夜風に当たろうとした。その時に、扉の外側から女性のすすり泣く声が聴こえてきて驚いた。こんな夜更けに屋敷の前で誰が泣いているのかと、まったく予想することすら出来なかった。
しかもその女性を慰めるような声が聴こえてきた。それは屋敷に長く仕えていた年老いたメイド長のものだった。俺は彼女たちに気が付かれないようにそっと扉を開けて月明かりに照らされながら泣いている女性の姿を見て心臓が跳ね上がるかのような衝撃を受けた」
すすり泣きの主は母だった。
いつも穏やかな笑顔を浮かべていて、父に暴力を振るわれた後も気丈に振る舞っていた母がすすり泣いていたのだ。
キースはこの時、生まれて初めて母の泣く声を聞いたのだった。
「母は強い女性だった。それまで一度たりとも俺の前で泣いたことなどなかった。その母がすすり泣き……やがては泣きじゃくってしまった。メイド長に支えられながら何とか立っていた母は、『どうしたらいいのかわからない』『もう無理だ』と言ってまるで幼い子供のように泣いていたのだ……」
その日の朝には母とこんな会話をしていた。
『母上、本当に大丈夫ですか……?」
『大丈夫。あの人だって、もう少し時間が経てばきっと前みたいに戻ってくれるって信じてるもの。だからキース、あなたは何も心配しないで大丈夫よ。ね? それに母上は強いの。あの炎帝に見初められた女だもの。こんなことで負けたりしない』
『……本当に?』
『もちろん。さあ、キース。習い事のお時間よ。今日はダンスのレッスンだったわね。あなたはお勉強も稽古も得意だけど、ダンスだけは苦手なんだもの。あの人もそうだったかしら……ふふ。私も見ててあげるからしっかり学んでいきましょうね』
日常のなんともないような会話。
だが、その日の夜に母は遂に限界を来たしたのだ。
「異常な状況にあっても、母が笑っていてくれれば大丈夫だと俺は思い込んでいた。だが……母の心は、もう壊れていた。笑顔で無理やり自分を支えていただけで、もう……」
その記憶を思い出して、キースの目尻には涙が溜まっていた。
レルミット伯爵家の嫡男たる者、どのような時にも涙を見せてはならない。そう強く決めていたはずだったのに。
あえて思い出さずにいることで何とか忘れようとしていた記憶が再び色濃く蘇り、かつては呆然とするあまりに泣くことすら出来なかった幼い自分の代わりとでも言わんばかりに涙が幾筋も頬を伝っていった。
「なるほど。君が女性を傷つけるのを怖がっているのはそれが原因なんだね」
「……ああ、そうかもしれん。俺は父を憎み、そして己の愚かさも深く憎んだ……だが最も憎しみを覚えたのは」
「レルミット伯爵から加護を取り上げた聖炎かな」
キースは涙を抑えるように片手で顔を覆いながら、頷いた。
唇を震わせながら言う。
「聖炎の加護が消えなければ、親父殿は俺の目指すべき立派な男として戦場を生き抜いたに違いないと。そう思って……思い込んで、聖炎を憎みながらも、今でも聖炎の力を求めている。再びレルミット伯爵家に光を与えてくれる加護をこの手に……俺は絶対に死ぬまで加護を受け続けると決めたから」
「でも、今の君からは聖炎の力は感じられないね」
あっさりと言われたことが鋭い鏃となってキースの心を抉る。
だが、覚悟していた言葉でもあった。
「ああ。俺は未だに聖炎の加護を受けてはいない……」
「君のお父さんがまだ生きているからじゃないのかい?」
「違う。父は死んだ」
「ん? 何かあったのかい?」
「……母が……泥酔している父、を……」
言葉を続けることが出来なかった。
すっかり混濁してしまった頭の中を何とか整理しようとするが、上手くいかない。
こんなにも情けない姿を晒しているのがまた悔しくて堪らなかった。
聖炎は何故父を見捨てたのか。
何故、あんなことになってしまったのか。
いくら考えても答えなどわからない自問。
今までに幾度も考えてきたその思考の沼にハマり、もはや情けなく涙を流すほかなかった。
どれくらいの時間が経ったか――昂っていた感情が少しだけ落ち着いた時、目の前の彼は言った。
「僕にはわからないな」
「……え?」
予想外の言葉を投げかけられ、顔を上げる。
青髪の少年は無表情だった。何を考えているのか、まるでわからないその顔に少しだけ怖気が走ったような気がした。
「自分のお母さんが傷つけられて、遂に我慢の限界を迎えた。君のトラウマの原因はそれだね」
「……あ、ああ」
「自分の愛する者が傷付くのを見るのは忍びない。それはわかるけど、どうしてその感情が他の女性にも向けられるんだい? ロカやシャウラの例を挙げるにしても、彼女たちとだって出会ってまだほんの少ししか経っていない。
クラリスに至ってはそもそも顔見知りではあるけど、別に親しいわけでもない。他の女子生徒はただの赤の他人」
「それは、そうだが……」
「特待生の彼女たちは、君が本気を出して殴ったところで大して痛みを覚えたりしない。それどころか、下手をすれば君の方が負ける。特にロカに関しては、現状で君が勝つ方法を考えるのが難しいくらいだ」
「何が言いたい……?」
「君のお母さんは普通の人間だった。でも、彼女たちは違う。神使として特別な力を持っているか、もしくは他人だ。どうして血の繋がった母と同列に考える?」
ここに至って、キースは目の前にいる少年のことがわからなくなってきた。
馬鹿にされることは覚悟していた。かつて名家と呼ばれたレルミット伯爵家の醜聞なのだから無理もない。現にレルミット伯爵領では今もなお、聖炎を失った伯爵家への誹謗中傷が後を絶たない。
でも、それとも違う。テオドールにはキースを蔑んでいるような節は見られない。
『ただ純粋にわからない』ことを真面目に聞いている。青髪の少年からはそんな雰囲気が漂っていた。
同情するわけでもなければ、馬鹿にするわけでもない。まるで人の心を完全には理解していないような、そんな奇妙な印象を覚えた。
酔いが回ってしまった自分の勘違いだろうか。そう思っていると――。
「君はかつて大元帥を目指すと言った。その気持ちは今でも変わらないかい」
「……ああ。それは変わらん」
「なら、それは無理な話かな。聖炎の力もなければ、自分と同等以上の力を持つ女に攻撃することも躊躇うようじゃ話にならない」
「それは……わかっている……が、逆に聞きたい」
「なんだい?」
「お前は、ロカを始めとして異性にも一切の容赦をしない。普通は躊躇うものだろう。現に軍学校の男たちは、最初は女を相手取るのに躊躇する者も多い」
テオドールは首を傾げる。
「戦……いや、実技演習であっても性別を気にする必要がどこにある? 相手は自分と敵対関係にある。何の遠慮をしなければならないんだい? 生け捕りにして手籠めにするなり捕虜にするつもりならともかく」
「な、何を言っている……!?」
「わからないかな。僕が言いたいのはこうだよ。見た目に惑わされるなってこと」
「んぐ……そ、そういうつもりでは」
「君が言っていることも結局はそこへ繋がる。そして戦場では女はもちろん、子供も兵士となることもある。敵なら情け容赦なく手にかけて一刻も早く殺すべきだ」
「倫理に反する……!」
「倫理を気にして死にたいのかお前は」
テオドールの口調がまるで別人になったかのように変わった。
わけがわからずに戸惑っていると、彼は続けた。
「大元帥の役割とは何だ。聞かせてみろ」
「……て、敵に立ち向かい、自国を守るのが務めだろう」
「それでは普通の軍人と何も変わらないがまあいい。お前の今の立場で考えよう。キース、お前の後ろには守らねばならない人間がいる……何でもいい、母親でも恋人でも構わんし、何なら自国の名前も知らぬ民でもいい。
そして目の前には他国出身の可憐な少女がいる。それは剣を手に敵としてお前の前に立ちはだかっている。目的は単純明快。敵国の者の皆殺しだ。お前が戦わねば後ろの人間は死ぬ。さあ、どうする」
普段はどこか飄々としていながらも穏やかそうな気質を持っている少年のあまりにも冷めた問いかけに、赤髪の青年は気圧されながらも答えた。
「戦うに、決まっている」
「前提条件を決めておこう。相手はお前と同程度の強さだ。生け捕りは不可能。その少女を止めるためには殺すしかない。さあ、どうだ。大元帥を目指す男ともあろう者が目の前の女1人すら倒せずにみすみす守らねばならない人間を見殺しにでもするのか」
「違う! 俺は断じてそのようなことはしない! 必要とあらば……斬る!!」
青髪の少年と瞳が合う。
一瞬だけその翠玉の瞳が赤く見えたような気がした。
少年はテーブルに頬杖をつきながら語る。
「そこまで追い詰められないと斬ることさえままならないか。その状況に陥った場合、既に近くにはお前の同胞の死体が山となって転がっているかもしれないがな」
「……!」
「敵を殺せないとはそういうことだ。相手が男にせよ女にせよ、それは変わらない」
「わかっている……わかってはいる」
「私にはお前の気持ちを完全に理解することは出来ない。だが、お前の中に巣くうその想いがすぐに治らないことはわかる。そしてこのままでは、お前は戦場に立っても長生きは出来まい。半年も生き永らえれば大したものだろう」
いつもの少年とは完全に違う何かに見える男が告げる。
「すべての存在の頂点に立つ者に必要なのは、私情を捨てること。敵兵の血肉をその身に受け、時には味方の犠牲なくしては戦場に立ち続けることなど出来はしない。大元帥を目指すと言うのであれば、それをしかと胸に刻み本当に守らなければならない者のために全力を賭して励むがいい」
「……」
「お前はまだ未熟だが、必ず強くなる。自ずと心もついてくるだろう。過去を捨てろとは言わないが、見事乗り越えてみせろ。キース、私はお前に期待している」
青髪の少年は傲慢に言って席を立った。
慌ててそれを追おうとして、足に力が入らずに椅子に座り込んでしまう。
「て、テオドール……お前は本当にテオドール、なのか?」
「急にどうしたのさ? 僕は僕だよ。少し飲み過ぎたんじゃない?」
あまりの変わりように二の句が告げられずにいると、青髪の少年はふっと笑った。
「少しだけ寝てるといいよ。ここは僕が奢るから」
少年の瞳がまた赤く輝いたと思った時、すっかり覚めたと思っていた酔いがまた全身を巡り、過去の記憶と目の前の出来事の整理で混乱していた意識を瞬く間に支配した。
キースは全身の脱力感に耐えきれずに机に突っ伏し、数秒もしないうちに眠りこけてしまった。
数時間後、酒場の店主に叩き起こされる。
わけがわからずに周囲を見渡すと客はもう自分以外誰も残っていなかった。
軽い頭痛を覚えながらも、支払いは既に済んでいると告げられたキースはふらつく足取りで軍学校の寮へと帰ることにした。
そして自室へ辿り着くと、何が起きたのかを考えようとしたが泥のように粘ついた眠気に襲われて再び眠り込んだ。
突然ですが、書籍化が決定致しました。
詳しくは後で更新する活動報告へ。
ただ、まだ書籍化するということしか発表出来ないので現時点で他に書けることはほとんどないのですが…。
何はともあれ、これも作品を応援してくださった皆様のおかげです。本当にありがとうございます。
これからも本作を応援して頂けると嬉しいです。





