第36話「第一夫人出撃」
テネブラエ魔族国の王の間。その玉座には魔族国には似つかわしくない天使が座していた。
肘掛けにもたれるように座りながら、足を組んでぷらぷらとしている。目は半分死んでいた。
「ルミエルさま。お口を開けてください」
「……あ~ん」
宮殿に仕えるメイドがよりどりみどりの果物をフルーツピックに刺して天使の口に運ぶ。
もっしゃもっしゃとおいしくなさそうに食べるルミエルはあらぬ方向を見つめて溜息を吐いた。
自分はそもそも王ではない。政務も知らないし、外交問題もわからない。王が務まるような器ではないが、そんなことは別にどうでも良かった。
差し当たって一番の問題は、玉座に座っていてもやることがないの一言に尽きる。
ルシファーが帝国へと旅立ってから既に1ヵ月以上。一体いつになったら帰ってくるのか。
彼は数日から数年で帰るとか言っていた。天使でありながら魔神でもあるルミエルにとっては、本当に些細な時間に過ぎない。それこそぼーっとしていればすぐにでもそのくらいは経つ……そう思っていたのに。
「ルミエルさま。お口が半開きです」
「あー……」
「ルミエルさま。非常にだらしなくて品のないお顔つきです」
「ぁー……」
「ルミエルさま。今のお姿をご主人さまがご覧になれば、すぐに愛想を尽かされてしまいますよ」
「そのだ~りんがいないからこうなってるんじゃないのよ! だ~りんのバカー!!」
いきなり激昂したルミエルがメイドの両頬をぐにーんと引っ張りながら叫んだ。
「るみへふはま。ふぁらひにやふははひをふふのふぁやめふぇふらはい(ルミエルさま。私に八つ当たりするのはやめてください)」
「だ~りんだけならまだしも、何であの女まで帝国に行くのよ~……!! だ~りんのことだからきっと毎晩毎晩可愛がってるに違いないわ……! 連れてくならわたしを連れてけー! この、バカバカバカバカー!!」
ルミエルはメイドの頭をドドドドドと激しく叩きながら叫ぶ。
メイドは無表情でされるがままになっていた。
「ルミエルさま。私の頭をいくら連打してもご主人さまは帰ってきません」
「何よ! あんたはだ~りんがいなくても平気だって言うの!?」
「平気じゃありません。すぐにでも帰ってきてほしいです」
メイドは自分の頭を百裂叩きする天使を見ながら言う。
「ルミエルさまのお守りは疲れます」
「子供扱いするなー!?」
「頭脳は子供、精神も子供、身体もやや未成熟ではないかと指摘致します」
「そんなことないもん! ていうかあんたに言われたくなーい!!」
小柄なメイドの襟首を捕まえて激しく揺すっていると、呆れた声が響き渡った。
「ふぇっふぇ……ルシファーの魔力が消えたから何が起こったのかと思えば、天使が玉座に座っとるのぅ」
「……ベルゼブブ?」
ルミエルはメイドを解放してから、客を出迎える。
ベルゼブブと呼ばれたのは年老いた白髪の男であった。顔にはいくつもの皺が刻まれ、血色も悪く小柄な身体にローブを纏っている。
細い身体はしかし、禍々しい雰囲気に満ちていた。全身から溢れる膨大な魔力と瘴気がそう見せているのだろう。
彼こそがルシファーと同じく魔王の名を冠する者のうちの1柱。
古の時代には数多くの魔法を使い、あらゆる戦場を荒野へと変えた王族の名に恥じない魔神である。
「我がテネブラエ魔族国も地に堕ちたものよ」
「嫌味を言いに来ただけなら帰りなさいよ。わたし、今すっごく機嫌が悪いの」
「ふぇっふぇ、まあそう苛立つものではない。爺の言うことには素直に耳を傾けた方が良いぞい」
「だ~りんと同い年くらいのくせに」
ベルゼブブは外見こそ老人そのものだが、その身体から発せられる魔力と瘴気は常軌を逸していた。
もしこの場にただの人間がいれば、その年老いた魔神の姿を見た瞬間に気が触れていてもおかしくない。
魔神の形態を保ったままのルシファーほど極端ではないが、このベルゼブブという魔神もまた人間にとっては脅威そのものであるのだ。
「ルシファーは帝国へと赴いたそうじゃなぁ?」
「そーよ。だからわたしがこうやって玉座に座ってるんじゃない。だから今はわたしが王さまよ。ひれ伏しなさい」
「こんなのが王では国が滅びてしまいます」
「なんですってぇ!?」
ぼそりと言ったメイドにまた掴みかかろうとしたルミエルに、ベルゼブブは言った。
「帝国で禁術が使われた」
「禁術? だ~りん……じゃないわよね。今のだーりんにはそんな力はないし。じゃあ、レナ?」
「でもない。あの娘が扱うにはいささか荷が重い術であるからしてな」
「……どういうことよ? アレでも元勇者よ? 帝国最強だったじゃない。魔術の腕だってあったわ。魔術の領域を越えた禁術も扱えたでしょ……まあ、そっちよりも剣術の方が得意みたいだけど」
「帝国ではここ数年間、妙な魔術が相次いで使われておった。儂の術式感知から見るに、多量の生贄を必要とするものであったのは間違いない」
ベルゼブブはテネブラエ魔族国を支える7柱がうちの1柱だ。
その力は極めて強大。剣術や体術こそ劣るものの、こと魔力の扱いに関しては全力を出したルシファーに負けずとも劣らないほどの力を有している。
ただの爺のたわ言だとはねつけるわけにもいかない。
「極めて規模の大きい術式じゃのぅ。禁術の中でも相当なもの……恐らくは第13階梯に届き得るか。はたまた『更に上』のものか」
「! 嘘でしょ? 人間如きがそんなもの使えるわけないじゃない」
「ただの人間が何百集まろうとも為し得ぬような術。しかしそれが実際に使われておる。果たして、何を意味するのか興味は尽きんのう。ふぇっふぇっふぇ」
「あんたの千里眼で先を見通せないの?」
「黒い靄が全体を包み込んでおる。何が起こるかまったく予想がつかんぞい。こりゃぁ面白い」
「役に立たないわね! でも、要するにだ~りんが危ないってことね? じゃあ、わたしが行かなくちゃ。禁術だか何だか知らないけど、全部ぶっ壊せばいいんでしょ。そういうのはわたしが一番得意なんだから!」
玉座から立ち上がったルミエルはさっきまでとは違い、凄まじいやる気を見せていた。
そのまま純白の翼をはためかせて力を溜めると――一気に跳躍し、瞬く間に宮殿の外へと飛び立って行った。
残されたメイドがぽつりと告げる。
「ご主人さまがおわす場所すら知らないくせに短慮な……。よろしかったのですか、ベルゼブブさま。あのような猛獣を野に解き放っても」
「ふぇっふぇ。その方が面白かろうて」
「派手に暴れて帝国をめちゃくちゃにしてしまってもおかしくなさそうですね」
「その時はその時じゃ……ふぇっふぇ。久方ぶりに彼の国と全面戦争をするのも面白かろうなぁ」
むしろそうなってほしいと言わんばかりに、ベルゼブブは口角を釣り上げた。
次回は幕間なので今夜中に投稿予定。





