第29話「紅い涙」
地上から隔絶された空間を蝋燭の灯りが照らしていた。
「ぎぃあああああああっ――!!」
遠く離れた広間から女性のエルフの断末魔と共に肉が裂かれ、骨が砕かれる音が響き渡る。
先程までその光景を間近で見ていた男は、遂に堪え切れなくなりその場で嘔吐してしまった。
隣にいたローブを羽織った男が声をかけてくる。
「今日で3『匹』目か。最近はエルフの処理が追いつかないな……おい、大丈夫か」
凄まじい悪臭が鼻を突き、男はまたしても吐いた。
胃の内容物をすべてぶちまけた後、絞り出すような声で言う。
「……もうダメだ、俺はもうダメだ……」
「気持ちはわかるが後少しの辛抱だ。『ギスラン』殿もそう仰っていただろう」
「夢にな。出てくるんだよ。ぐちゃぐちゃの肉の塊になったエルフがずっと俺に恨み言を言ってきやがるんだ……」
「死体なんざ見慣れてるだろ。ゼナンとの戦で帝国軍の何人が肉の塊にされたと思ってんだよ」
「ありゃ戦争だ。戦争だから仕方ねえよ……仕方ねえって割り切ってた。でもよ、これは」
目尻に涙を浮かべながら言っている男が、はっとした顔になって頭を上げた。
そこにはいつの間にか、目深にフードを被ったローブ姿の者がいた。紅い液体の入った小瓶を手にしている。
「エルフ。次のエルフはまだか。エルフだ、エルフ」
まるで男と女の声が混ざり合ったようなひどく不気味な声で言った。
「ギスラン殿。もう今のやつで3匹目でしょう。これ以上やると、『アレ』が耐えられない可能性が」
「何がだ。耐えられない。何が耐えられないと言うのだ」
「い、いや、末期の雫の製造に支障をきたすのではないかと……」
「支障。雫の製造に。問題ない。作業を続けろ」
ローブ姿のその者は性別すらわからなかった。ただ、『ギスラン』という名を名乗っているのを知っているだけだ。
なんでも、あの魔術大国キアロ・ディルーナ王国の出身だという。
それ以外にここにいる男たちは何の情報も知らされていなかった。
「ぎ、ギスランさま、俺はもう堪えられません! あ、あんなにも残酷なことがどうして出来るのですか!?」
「エルフ。エルフ。エルフの駆除。それを望んだのは誰か」
彼らは帝国軍の内部で密かに集結していた反エルフ主義者たちの末端だ。
その思想を持つ者はこのミルディアナ軍のみならず、各地の軍部にも少なからず存在している。
エルベリア帝国とツェフテ・アリア王国の同盟関係が結ばれて100年。今もなお、エルフを差別する者たちは後を絶たない。
エルフの奴隷化の禁止措置を始めとする数々のエルフ優遇制度を良しとしない彼らにとって、先のゼナン竜王国との戦でミルディアナ領の総司令官を務めていた元帥が死亡し、その後任としてハーフエルフであるリューディオ・ランベールがあてがわれた事態はとてもではないが納得できることではなかった。
何がなんでもあのハーフエルフを排除しなければならない。
ついでに帝国内に蔓延るエルフたちを殲滅できればなおさら喜ばしい。
弱音を吐いたこの男もまたそのような思想を持っていたが。
「しかし……」
「牢屋。その牢屋にいるエルフだ。次のやつは」
ギスランが指差したのは、廊下の左右にある牢屋のうちの1つだった。
その中には年端もいかないエルフの男の子がいた。壁に寄りかかりながら震えて母を呼びながら泣いている。
「助けて……ママ……ママぁ!」
その姿を見て、もはや吐き出すモノがなくなった男は首を振る。
「お、俺には……もう出来ません」
「雫だ。エルフだ。早うせい」
「ぎ、ギスランさま! 俺はもうで」
ぐしゃっ。
潰れるような音と共に男の頭が弾け飛んだ。
頭蓋と脳漿が天井から床にまで飛び散り、呆然と見ていた男の顔にもかかる。
「ひぃっ!!」
「出来るのか。お前は」
目の前で起こった信じられない出来事に、これまで何とか平静を保っていた男は慌てふためきながら言う。
「で、出来ます! 出来ます。今、連れてきます」
男は鎖で拘束された少年を連れてきた。
線の細くて耳の長い、典型的な純血のエルフだった。まだ年若く、見た目で言えば10歳前後といったところだろうか。彼はこの場で何が起こったのかをはっきりと理解しているらしく、酷く怯えている。
何度もその場に躓きそうになりながら歩いていたが、遂に腰が抜けたかのようにへたり込んでしまった。男が急かすように鎖を引くが、エルフの少年は必死に首を振って涙を流しながら訴えた。
「い、いやです……助けてください、何でもしますから……!」
少年は懇願する。男はそれを見て、少しばかりの戸惑いの表情を浮かべた。彼にもまだ良心の呵責とやらが少しばかり残っているのかもしれなかった。
しかし、腹底に響くような声が彼を急かす。
「雫だ。持っていけ。早く。早く」
「し、しかし、ギスラン殿。彼はまだ子供です……見逃すわけには」
「材料に子も大人もない。早うせい」
男は苦渋の表情でそれを訊き入れると、黙って少年を引き摺って行った。
「い、いやだ、いやだ、やめて! やめてよぉ!!」
少年の抵抗はあまりにも無力だった。彼はゆっくりと引き摺られて行き、広間までやってきて鎖の拘束を解かれる。少年は必死に這って逃げようとしたが、あっさりと捕まってしまう。
何故走ってでも逃げ出そうとしないのか。答えは簡単だった。彼の両脚の腱は深々と切られている。切断こそされていないものの、既にまともに歩けるような状態ではないのだ。
エルフの少年は身を捩って抵抗を続けるが、そんな状態で大の大人の力に敵うはずもなく、魔法陣の中に突き飛ばされた。彼の身体はエルフたちの血や臓物で穢れた。
「た、助け……助けて……」
目の前には緑色の肉塊がいた。
5メートル近くあり酷い悪臭を放っているそれがぶるりと震える。
緑色の体表が震え、その真ん中から大人の頭1つほどもあるような巨大な単眼が開かれた。
直後に顎が開いた。無数に生えた鋭利な乱杭歯には血や臓物がこびり付いている。
その口が瞬く間に迫り――広大な地下広間にエルフの少年の断末魔が響き渡った。
「……!!」
改めてその光景を間近で見た男は寒気を覚えずにはいられなかった。
いくら憎きエルフとは言っても、このような子供を惨たらしく殺すのを許容できるほどの異常性を持ち合わせてはいなかったらしい。
やがて、震える男の前で化け物の巨大な瞳から紅い雫が垂れ落ちる。
ギスランはその雫を小瓶に収めた。
「女神に顔向け出来ぬ。雫。雫が足りん」
独り言を呟いている魔術師からは狂気以上の得体の知れないものが感じられた。
「おお、女神よ……我が愛しの女神よ……真なる道へ。私を。お導き、ください……」
ローブ姿の魔術師は小瓶を眺めながら、濁った瞳でここにはいない誰かへと声をかけ続けた。
次の話は幕間となりますので本日の夜にもう1度更新します。
再び別人物視点です。





