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チッチの思い出

作者: くにえミリセ

「2週間ほど、アタシと一緒にバイトしてくれへん?」

高校時代の先輩から、軽い感じで頼まれた。私は、短大を卒業してから何年か勤めてた仕事を辞め、ふらふらしてた頃だった。

先輩である彼女は、小さくうす暗い喫茶店でバイトをしていた。店の名前は『じゅんじゅん』。テーブル席は、3テーブルほど、あとは、カウンター席で3〜4人程度しか座れない、こじんまりしたところだ。なんか、その茶店がある商店街が夏祭りの前後で人手が必要だったらしい。私は、別にお金が、必要だったわけでもなかったが、まあ、経験かなと、これまた軽い気持ちで

「いいですよ。」

と言った。

喫茶店では、コーヒーやら、紅茶やらをテーブルに運ぶ簡単な業務、それから夏祭りのための提灯なんかを脚立に乗って商店街の通りに吊るしたりする。なんともない感じで2〜3日過ぎた頃、オーナーのおっさんが私に言った。

「ここのさぁ、棚に置いてた灰皿の下に、

3千円置いといたんだけど、知らない?」

「いえ、知りませんけど。」

私は、当然のごとくすぐさま答えた。

「そう?」

「本当に?」

『そう?』の『う』と『本当に?』の『に』

の部分が尻上がりのトーンで明らかに疑問符付きの『う』と『に』だった。

ん?疑われてる?はあ?私が、そんな事するわけないだろ、べつにお金が欲しいから、バイトしたんじゃねーし、そもそも私が、そんな事するような、ツラに見える?小心者だけど善人って感じの顔だろーが!

「疑ってます?おっさん!そんなとこ置いておく方がおかしいでしょ!それに従業員疑うなんて経営者として、どうなんでしょう?!」

とでっかい声で言ってやった。‥‥。心の中で。そんなこんなで、むかついて帰途にむかい歩いていたら、懐かしい匂いがしてきた。シャンプーの香りと、取りきれなかった、雑菌の匂いが入り混じった感じ。

小さい頃にかかったおたふく風邪で左耳が聞こえない私は、その分、鼻がいいと自負している。その匂いの原は、すれ違った散歩中のワンちゃんだった。かわいいリードを付けて飼い主さんと歩いていた。

匂いと共に遠い記憶が蘇った。



【仔犬と出会い】


《あれは、私が、まだ小4の9歳ころだった。

父親同士が友達で同い年の子とよく遊んでいた。その友人の彼女が、

「うちの犬が、赤ちゃん産んだんだけど、

飼ってみない?」

何気なく聞いてきた。

「うん。」

即決していた。親に何ひとつ相談するでもない。小学生の私は、かなりの無謀なやつだった。

それからしばらくして彼女から、ちっちゃくて白くて耳が、先っぽの方だけ薄茶色をしていて、その薄茶色の部分だけが折れて垂れたなんともふわふわした仔犬をもらった。

抱っこして連れて帰った。ちょっと犬臭い匂いと潤んだ瞳は、これから先にするであろう自分の親への言い訳を必死に考えさせた。》



あぁ、そういえばその仔犬の写真、2〜3枚

あったはずなのに、どこにいっただろう。紙写真の時代なのでどっかに埋もれてしまっていたら、もう見つからない方の確率が高かった。そしたらなんだか、仔犬のことを文章にしてみたくなった。匂いと共にやってきた仔犬の記憶を綴るため、ノートを1冊買って帰ろうと思った。シャンプーと雑菌の混じった匂いのするワンちゃんはもう飼い主さんと共に向こうの方へと小さくなっていた。



【仔犬と嘘】


《そうそう、言い訳。9歳の私は、仔犬を抱えて、堂々と家に入った。最初に言い訳せねばならない相手は、母親。母は、お風呂の掃除をしていた。怒られませんように‥‥。

ゆっくりと お風呂のドアをノックしてみた。

「何?」

と答える母に抱えた仔犬を見せながら、こうかえした。

「10日くらい、預かってくれと言われた!」

うわぁ、全く。言い訳というか、紛れもなく『嘘』だ。母は、一瞬、言葉を詰まらせたがそれからこういった。

「ふーん。そう」

小さくガッツポーズをして『やったぜ』こう思った私は、バカ以外の何者でもなかった。》



買って帰ったピンクのラメが入ったノートに

仔犬の思い出を文章化して連ね、ここまで書いたところでふと我に返った。あっ、明日

もまた茶店『じゅんじゅん』のバイトや。どんな顔で行ったらいいのだ?疑いは、晴れてないのに。いやいや、悪いこと何もしていないんだから、堂々としてればいいんだ。なくなった3千円はオーナーのおっさんがそのうち『俺の勘違いだったゎぁ』とか言ってくるやろ、と思った。

なのに、小心者の私は、やっぱり心配になって先輩に電話した。事の一部始終を話した上で、

「どうしたらいいですかねぇ?」

と問うと先輩は

「オーナーは、思ったこと、整理せずに口に出してしまうとこあるけど悪い人じやないよ、優しいときもあるし、まあ、2週間だけの我慢だよ。」

と言って笑った。ってことは、疑われたままこの先の人生を過ごすことになるのか‥‥。盗ってないことを証明するのは難しい。まあ、とにかく、明日もバイト行かなきゃ返って疑われる、そう判断した。



「おはようございます!」

元気よく挨拶した。オーナーは、カウンターの中で、コーヒー豆のチェックをしていた。

「あぁ、おはよう。」

ふつうに返事をしてくれた。私は、気合いを入れて挨拶したのになんか、気が抜けた。それからは、あの3千円事件、忘れたかのように時が流れた。次の日の午後、懐かしい人が

お客として来てくれた。高校時代の先生だ。

その当時40代でさわやかなイメージの先生は、私や先輩の所属していた吹奏部によく練習を見てくれた副顧問だった。

「元気だったか?」

と言いながら、カウンター席にに腰をおろした。多分、私達がバイトをしてることをどこでだか知り、様子を見にきてくれたんだ。その先生は、右の耳を失聴していて、私は、左耳失聴だったけど、同じ片耳しか聞こえないということで、話が合った。高校時代もなんやかんや相談したりした。

店で、しばらく取るに足りない話しをした後

「またな。」

先生はドアベルのカランコロンという音共に、店を出ていった。



うちに帰ってノートを開いた。



【仔犬と名前】


《牛乳を平たいお皿に入れて仔犬の前に置いたらカプッ、カプッと勢いよく飲み干した。

そうそう2階へ上る階段をヨタヨタとあがり、のぼりつめたところで私達を見下ろしてたことがあった。クフーン、クフーンとなく。

どうやら、上ることはできても降りることはできないらしい。

私は、2階へあがり抱っこして下へ行こうとふと目線をずらすと、部屋の畳がガリガリに荒れ果ていた。畳の上でオシッコしてその後、前足でガリガリしたんだ。その後の私が、母にこっぴどく叱られたのは、言うまでもない。

そうやって1日1日過ぎていき、気が付くと

預かり期間の10日は、とうに過ぎていた。

なのに、母は、何も言わなかった。

今から思えば、あの時既に私の『嘘』に

気づいていたんだ。分かった上の「ふーん。そう。」だったんだ。



そうだ、名前をつけなきゃね。もう預かり期間も何処へやらだし。そう、

『チッチ』だ。インコみたいな、オームみたいな名前。でも犬。雑種。『チッチ』以外、どんな名前が候補にあがっていたかは、まるで覚えていない。

私は、チッチとお風呂に入ったりした。

お風呂から出た後、なんか、 身体がかゆくなってかきむしると赤くなったりした。

多分、チッチの影響。でも、そんな事は、母にも誰にも言えやしない。だってうしろめたいことしてるでしょ、嘘ついてチッチを飼ったんだから。

その頃、小学校でいじめがあった。クラスの男子5〜6人が女子をいじめる。標的は、1人ではなく、10数人の女子を入れ替わり立ち代わりいじめる。給食のおかずを『ちょうだいねー』と言いながら、相手の返答を待たずに持って行ってしまう。クソ悪ガキ。その10数人の女子の中に入っていた私は、母に相談した。母は、学校に電話した。校長の『いじめ』を『悪ふざけ』くらいにしか考えてないその返答に、母が、怒り心頭させた。

父はそういう時、いつも黙っていた。後日、

他の保護者にも連絡を取り、何人かで学校に乗り込んで、悪ガキに謝らせるのと、これからの態度を改めさせることを約束させた。

それからその悪ガキは、嘘のように私たちに優しくなったのを鮮明に覚えている。》



『じゅんじゅん』でのバイトも最終日になった。祭りの3日間は、くるくる忙しかった。打ち上げ花火は、音だけしか聞こえなかった。でも動いているほうが余計なこと何も考えず済むからかえってよかったなと思った。

バイト代は、その日のうちにオーナーのおっさんが持ってきた。ペラペラの茶封筒に入ったそれは、なんか、嬉しいという気持ちを削いでいた。

なくなった3千円、私が、盗ったわけじゃないけど、

「これ、全部いらないんで、なくなった3千円の足しにしてください。」

(足しにしては、随分と余るけど。)

と言ってかっこよく店を出て行ってやろうと思っていた。

けど、やめた。そこは、素直に受け取った。

『じゅんじゅん』のバイトを終了してから2ヶ月程経ち、3千円事件のことは、どうでもいいと思えてきた頃、先輩から、電話があった。

店に私達の様子を見に来てくれたあの副顧問の先生が、亡くなったという。

見通しが悪く信号の無い十字路で、右側から来た 乗用車にはねられたらしい。

右側から、来る車の音が、聞こえなかったのかもしれない。私は、すぐにそう思った。

騒ついた場所では、聞こえない方の耳からら、人に話しかけられたとしても何を言っているのかわからない。車の音が、聞こえてもどっちから来ているのか分からない。『思い込み』で音の方向を判断する。

先生、大好きだった。はにかんだように笑うあの笑顔、もう見ることが出来ない。

受話器を耳に当てた手が、冷たくなって震えた。


お葬式は、先輩と一緒に行った。お寺だった。高校時代の先生の教え子らしい人が

沢山きていた。中には、ただ先生が教えていた高校の生徒だったというだけであまり先生と話しをしたこともないような人までいたようだ。その人たちの群れは、もはや、同窓会になっていた。時折かすかに笑う声が聞こえ、それが無性に腹立たしかった。



お葬式の日から、チッチの思い出を綴ったノートは、随分長い間、更新されずにいたが

しばらくぶりに開いてみた。



【お姉さんチッチ】


《チッチのいる前で母とケンカをした日があった。その時のチッチは、もう仔犬ではなく成犬になっていた。中型犬は、約1年で成犬になるというから、もう立派なお姉さんだ。いつの間にか、私より年上になったチッチが、私と母にとった行動がある。内弁慶な私が母と言い合いになって激しく叫んだら、チッチが横になっていた身体を素早く反応させ立ち上がった。

「ウッー!」

と威嚇をして、

「ワンワンワンワンッ!!」と吠えた。

明らかに私に向かって吠えた。

どんなことでケンカになったかなんてことは都合よく忘れた。でも、あの時のチッチは、母を守ろうとしたのだろう。

「もう、やめなさい。」

「冷静になりなさい。」

チッチは、私にそう言ったのだ。


私には、4歳上の兄が1人いた。その兄は、とても変わっていてシャイな性格だった。『チッチ』と呼ぶのを恥ずかしがった。私は、兄が『チッチ』と呼んでいるところをそれまで見たことがなかった。

が、逆に、口笛でチッチといわんばかりの『ひゅぃっ、ひゅいっー』は、何度も何度も聞いていた。兄は、チッチをよく散歩に連れて行ってくれた。行ったら、2時間は、帰って来ない。チッチは、そんな兄が大好きだった。


隣の家に、白いマルチーズ犬の『ユタカ』

がいた。雄。小型犬ならではの高くてキャンキャンした声が嫌いなのかは分からないが、チッチは、ユタカが苦手だった。

ある時、チッチの背中にユタカが前足を乗せ

腰を振っていた。子どもの私はふざけて遊んでいるようにしか見えなかった。それを母におもしろおかしく話した。母は、

「えっ!気をつけなきゃ、赤ちゃんできちゃ‥‥。」

といってそれ以上言うのをやめ、チッチの様子を見に玄関の外へと、小走りに出ていった。子どもだった私にも、なんとなくそれがどういう意味だったのか、分かったような、分かってないような、なんとも言えない感じを覚えている。》



【引っ越しとチッチ】


《私が中学2年になった頃、奈良県に引っ越すことになった。兄は、当時通っていた高校の寮に入る事になった。私と、母は、父の運転する乗用車で、チッチは、荷物と一緒に、トラックで行くことになった。母は、トラックの運転手さんに、何やら封筒を渡して、

チッチの食事の事、道中、トラックから、降ろして散歩してあげて欲しいなど、丁寧にお願いしていた。チッチは、人間の歳でいうともういいおばさんだった。でも、私たちと離れて車に乗るとき、少女になった。悲しそうな目をして、ぐずって、イヤイヤして、なかなかなかトラックに乗ろうとしなかった。トラックの一番後ろで犬小屋と一緒に、どうにかこうにか乗り込ませた。4時間くらいだろうか、しばらくの間、お別れ。

奈良に着いたのは、私たちの方が先だった。

鍵を開けて、中に入った。何も無い部屋で、チッチと荷物を待った。道を挟んですぐ向かいは、こんにゃく工場で、裏は、田んぼ。田舎だ。窓からトラックが見えた。チッチが来た。二階の階段を駆け下りてトラックまでいくと、チッチは、なんだか様子がおかしかった。しっぽを垂らして、怯えていたんだ。

それから、10日ほど、チッチは、ごはんを

あまり食べず、残したりしていた。母は、

「あんなに運転手さんにお願いしたのに

散歩にも行ってくれてないんじゃない?」

「かわいそうにな、チッチ。」

「ごめんな。」

そう言って、頭を撫でた。》



副顧問の先生が亡くなって、約1年が、過ぎた頃、私の赤い軽自動車に落書きをされた。

マジックペンや、ペンキなどではない。鋭利な何かで傷をつけて、卑猥な文字を書いている。自宅の駐車場に置いてたのに、何故?

なんだか、不快な気持ちが収まらず、叫びだしそうなった。その後、一応、警察に行ってみた。被害届を出して、話しを聞いてもらったけど、

「まあ、たぶん犯人は、見つからないでしょう。」

はじめから警察の人はそう言った。

分かってはいたものの、やりきれない。チッチがいたらなぁ、犯人が来ても追い返してくれただろうに。



【新しい場所とチッチ】


《チッチの思い出ノートも大分と枚数を増してきた。

奈良県での中学時代、友達も出来た。そうそう、前いた中学校とは違い自転車通学だった。

田舎の道を風を切って自転車を走らせる、友達といっしよにでかい声で話しをしながら。芋中学時代の私は、芋なりの青春をした。

ある時、チッチの首輪がはずれ、行方不明になった時があった。その時は、友達数人が、暗くなるまで探してくれた。あきらめて家へ戻ったらチッチは、ちょこんと、そこに座っていて、友達数人と私を出迎えた。

あの時は、みんなで、大笑いしたっけな。


チッチは、3軒先に住んでいるおばさんに飼われた小型犬が、苦手だった。前に住んでいた家の隣の『ユタカ』は、マルチーズの白い小型犬。3軒むこうの小型犬は、茶色のチワワだ。ユタカと同じようにキャンキャンとかん高い声で鳴く『ユタカもどき』がいるその家の前の道は、チッチの散歩コースからはずされていた。

何回かそこを通ろうとしたが、その度にイヤイヤして、座り込み、チッチが抵抗するからだ。実を言うと、私もその飼主であるおばさんが嫌いだった。嫌いというか別に、何されたというわけでもないのだが、こっちが最高の明るい顔で会釈しても、ツンとして笑顔もみせずに、首を少しだけ縦にふる、そんな感じの人だった。サングラス越しのその表情は、私とチッチを遠ざけた。

だが、ある時を境に、それは、一変する。


いつものように私が、チッチと散歩をしている時だった。夕焼けがきれいで夏の終わりが近づくある日、チッチが、こんにゃく工場の入り口近くの物陰に私を引っ張って連れて行く。普段そんなとこ見向きもしないのにどうしてだろうと思っているとしだいに聞き覚えのあるかん高い鳴き声が大きくなっていった。そう、三軒先のチワワの鳴き声だった。よく聞くとなんだか、いつもの勇ましい鳴き声とは違い情けないような、助けを求めているようなそんな声だった。チッチは、チワワのそばへ行き周りの匂いを嗅ぎはじめた。

チワワは、私たちが来たことに安心した様子で、こっちを見ていた。その場を動くことが出来ないでいる。物陰のドアから出てる突起物にリードが引っかかっていたんだ。

私は、すぐにそれをほどき、サングラスのおばさんの家へと行った。チッチがいつか家からいなくなった時のように、このチワワもふとはずれたリードに自由を求め冒険したのかもしれない。

ピンポンを押した。苦手なおばさんが出てきた。この時はサングラスをしていなかった。

事情を話し、チワワを返すと、おばさんは、深々とお辞儀をしてくれた。意外におばさんは話し上手で、少し話しをした。その時

はじめて知ったんだ、おばさんは、目が少し不自由だってこと。勝手に思い込んでいた。おばさんは、笑顔がなくて冷たく、近寄りにくい人だなんて。後日、私の家にお菓子を持ってきてくれた。チッチがいなければ、ずっとおばさんの本当を知らずにいただろう。片耳難聴の私は、チワワの鳴き声は聞こえなかったかもしれない。そうだ、私のクラスの嫌いなあの女子に、明日、話しかけてみよう。出席番号が前後ってだけで授業でことあるごとに組まされている、自分勝手なあの女子に毎日ウンザリしていた。仲良くなれるかな‥‥。》




赤い軽自動車の落書きは、やはりというか、当然というかあれから警察からの連絡は、全くなかった。


世間で結婚適齢期と呼ばれる年齢を過ぎた頃

ガンを患っていた父が他界した。なんといったらいいんだろう、この気持ち。家族を失うって、今までそこにいた人がいなくなるなんて、どうしても受け入れられない。

「月日が経つと落ち着けるようになるよ。」

とか、

「天から見守ってくれてるよ。」

とか、

「あなたの心の中に、ずっといるよ。」

なんて言葉、

そうすぐに響くわけがない。

ただ、同じように私の年齢位の時、父親を亡くした知り合いが、私に言った。

「わたしの場合はね、突然だったんよ、昨日まで笑ってた父が、次の日突然倒れてそれっきり。『家族に覚悟を与えない死』だった。」

「あなたは、『覚悟』をもらうことが出来たでしょう、それがあるのとないのじゃ、全く違う。」

うつむいたまま聞いていた私の目からその時

がきっとはじめての生暖かい液体が、大量に溢れていた。父の闘病生活は、ドラマの場面の1枚1枚のように、私の頭の中をゆっくりと流れていった。


生きとし生けるものには終わりがある。




父の肉体は、今、ない。骨だけだ。不思議だった。生きていて、動いていて、考えて、笑って、泣いて、話しをして、どうやってそれをしてきたんだろう。物体が命を持つということの不思議、神秘、計り知れない。


初七日、四十九日、一周忌、遺族を忙しくさせる法要は、遺族の悲しみを少しだけでも紛らわすためだねと言った人がいた。


毎日、思い出したい。亡くなった人の1番の供養は、『あなたを思い出すこと。』





【お母さんになったチッチ】


《 奈良県で過ごした中学、高校時代、それなりに思春期、青春、その他もろもろを経験し、成長した。チッチもまた、同じように成長した。この土地でチッチは、お母さんになった。いったい合計何匹の赤ちゃんを産んだだろう。妊娠すると、いっぺんに4〜5匹のお母さんになる。それが、5〜6年の間に5回はあった。チッチは、白い雑種。相手が真っ黒な犬ならば、おもしろいように白、黒、白と黒のまだらの3種類の色をした赤ちゃんが産まれる。

かわいい。産まれたては、ピンク色。ちょびっとだけ毛が生えていて、1か月もすると、毛並みもそろって、ぬいぐるみのように愛らしかった。おっぱいの飲み方がまた癒される。両前足でチッチのおっぱいをポコポコ押しながら吸う。


産まれた仔犬を1匹、抱っこして、家へ入っても、チッチは、知らん顔。犬は数が数えられないから、自分のそばに1匹でもいたら、安心なのだ。さすがに全匹連れてくと、すごく悲しそうな顔をする。でも自分は、家の中に入ると叱られると分かっているのか、玄関でじっと、待っている。時々「クフーン、クフーン」と鳴き、「子どもを返して」といっているようだった。お母さんのチッチは、優し顔だ。臆病で、散歩途中にたかが20㎝程の道脇の側溝でさえ渡れなかったあのチッチが、お母さんだなんて‥‥。

命って、不思議。こんなに小さくて無力だけど確実に、生きている。ちっちゃな命が私の腕の中であくびをした。》





【兄とチッチ】


《 奈良に引っ越した私たちから離れ、高校の寮に残った兄は、それから冒険好きに成長した。日本を歩いて回ったりするのだ。旅の途中で、奈良の私たちが住んでいるところにひょっこり現れる。寝袋なんかで寝たりするので、何日も風呂に入ってないんだろう、なんとも言えない匂いがする。チッチは、その匂いを百メートルか、二百メートルか、とにかく遠く先から、察知して、兄を甘えた声で出迎える。もちろん、私たちには、兄の姿は、見えないのだけど、チッチの鳴き声で、兄がやって来たことが分かるのだ。


チッチは、兄と散歩に行くのが大好きだった。歩くのが好きな兄だから、とにかく遠くまでチッチを連れていく。そこでどんな会話や、やりとりがあったかなんて知るよしもないが、お互いに刺激し合っていたことは間違いないだろう。》









チッチは、楽しかっただろうか?

産まれてから、私の家族と共に暮らして。

私は、どうだろう、何ということも無いこの

人生、何か意味があるのかと時々思う。


でも 何も無いと思うのは、何かがあったからそう思うのかもしれない。





【無】


《チッチは、10年、生きた。それが、長いか、短いかは、チッチ自身にしか分からない。チッチの死は、私たちに『覚悟』を与えてはくれなかった。横たわったまま、荒い息をしていた。あれほど、抱き抱えられるのか、嫌いだったチッチが、いとも簡単に私に抱き抱えられ、車の後部に乗った。横に母が付き添ってくれた。いつも目にする大きな動物病院の看板に吸い込まれるように左折をした。それから、ひんやりとする待合室でどれほどの時間がたっただろう。獣医の言葉は、『寿命』という言葉で片付けられた。なす術もなくまたチッチを抱き抱え、車に乗った。

とにかく家へ連れて帰ろう。後部座席に横たわったチッチに母は、もう、目に涙をいっぱいためていた。住み慣れたチッチの家に着いた。毛布の上にそっとのせると、数分してから深く、深く、息を吸い込み、2回、「ハウッ、」「ハウッ、」息を吐き出して止まった。


もうそれ以上は、動かなかった。


誰よりも泣きわめいたのは、母だった。》




私は、誰もが死ぬ時、透明人間になれるんじやないかと思っている。天へ昇るまでの時間に与えられる時間。その何時間か、何分かの間に、大好きだったあの人に、お世話になりになったあの人に、透明な姿でフワフワと逢いに行けるような、そんな気がする。


父の遺品を整理した。小さなアルバムがあった。チッチがいろんな表情で写っていた。生きていた時、あまりチッチや私に関わっていなかったように思っていた。でも、そうじゃなかった。

そんな時、ふとチッチをくれた友人のお父さんから、こんな話しを聞いたんだ。

父同士が友達でよく飲みに出かけていた頃、

父が私に仔犬をあげてほしいと頼んだという。私が、家でよくイライラしてるのを気にかけて、仔犬でも飼えば穏やかになるんじゃないかという理由だった。知らなかった。


アルバムの最後のページには、父と母と

兄と私と、そしてチッチの小さかった頃

に一緒に写した写真が、貼ってあった。


みんなとびきりの笑顔だった。



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― 新着の感想 ―
[良い点] くすっと笑えるところや泣けるところもあっておもしろかった。 [気になる点] チッチの頃と現代との関係性がもうすこし色濃く出されていればとっと面白いと思う。
[良い点] 今と過去がつながっているそんな感じがしました [気になる点] タイトルにもう少し味が欲しかった
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