準備(覚悟)完了
「さて、それではまず……こちらの緑色の丸、現在我々のいるハートキングダムです。目的地は北西のモンス・ダイダロス、赤丸を付けた箇所になりますな。ただしその外枠、黄色の丸で囲まれた地域はモルガンの統べる地・アヴァロン……」
「宰相殿、できれば現在の正確な国境が知りたいのだが」
「お任せを」
マーリンが指を一振りすると、大雑把に描かれていた黄色い丸が、みるみるうちにその形状を変え、アヴァロンと隣国との境界線を明確にした。「わぁ……」と声を漏らすアリスに対し、マーチ・ヘアは顎に手をあてる。
「モンス・ダイダロスの東側は……海か」
「はい、海流が読みづらく妖魔セイレーンが船乗りを惑わすといいます。こちらを横断するのはあまりお薦めできませぬが……軍司殿は、東からの道をお考えで?」
「…いや、西側から進めばアヴァロンを横断することになる。幾重にもモルガンの罠が張られているならばと思ったが……東の危険度も西と大差ないな。セイレーンがモルガンに取り込まれている可能性も否定できない」
「となると、むしろ西の方がマシってことになるねぇ。準備万端でモルガンに挑むにはきっと事欠かないよ」
「準備?」
アリスが聞き返すと同時に、アヴァロンの隣国――青で縁取りされている国――がマーリンの魔法で点滅した。
「こちら、先日アヴァロンの侵攻を受けたキャメロットにございます。現在、モルガンによる要地征服を食い止めんとする意思のもと、ハートキングダムと同盟関係にあります。国王であるアーサー様は寛大かつ先見の明があられるお方、必ずやアリス嬢にお力添えをして下さることでしょう」
「長旅になるであろう、休息の地も必要じゃ。キャメロットには、妾から前もって伝えておこう」
「あ、ありがとうございます! でもキャメロットって、既に侵攻を受けたんですよね……その、戦意喪失とかは、してないんでしょうか」
「ふふ……」
アリスの問いかけに、女王はお決まりの微笑を見せる。口元を扇で隠しながら、想いを馳せるように窓の外に目をやった。
「あれで負けず嫌いであるからの……取り返したいと思うておろう。むしろ飲みこんでしまおうと画策しているのではないか? のう、マーリン。そちが我が国に遣わされたのもそのため…というのは、妾の深読みであろうか」
「そ、そのようなことは断じて……」
「ふふ……そちにその気はあらずとも、あの者たちは侮れぬからの。……さて、話を戻そう。アリス、そちはチェシャ猫、マーチ・ヘアと共にまずはキャメロットへ迎え。アヴァロンの隣国であるが故、こちらでは知り得ない情報も与えられるはずじゃ。モンス・ダイダロスに眠る力のことはもちろん、モルガンとその部下に関しても……何か掴めるかも知れぬ」
アリスの瞳に再びあの表情が映った。女王とマーリンの、寂しそうな、哀しそうな、苦しそうな、そしてそれら負の感情を隠しおこうとする、歪な表情。二人の脳裏にマッド・ハッターの存在が過っているのだと、確信する。マーチ・ヘアは相も変わらず眉一つ動かさなかったが、それでもアリスは少しだけ大きく返事をした。
「分かりました。キャメロットに行きます」
早く帰りたい気持ちもある。元の世界に帰って、学校に行く。勉強をする。1ヶ月後にはまた模試があって、判定が出るのだ。人生が決まる時期が迫っているのに、悠長なことはしたくない。言ってられない。
だが、魔法石の力が本当に万能なのか分からない今、準備はしっかりしておくべきだ……そう言い聞かせることで、不意に湧き起こった焦りを鎮めさせた。
「さて、そうと決まれば早速出立の用意をせねば。マーリン、妾の注文は覚えておるな?」
「勿論です、女王様」
一礼したマーリンは、アリスに向かって杖を一振り。と、纏っていたシルクの部屋着が瞬く間に水色のワンピースに変化した。袖口と裾、襟元と腰回りにはご丁寧に細かい白レースもあしらわれており、いよいよ「童話のアリス」に近づいて来ている。これでもし長い金髪に黒いカチューシャが装備されれば、コスプレ完成となるだろう。
その魔法にも驚かされたが、アリスが気になったのは魔法が通じたという事象そのものだった。
「あ、あのこれっ……何で……? 私、現状維持のはずじゃ……」
「確かに。宰相サマの魔法がマレフィセントの涙を上回った?」
「ふむ…推測ですが、『現状維持』の効力は常に持ち主にまで及ぶのではないのやも知れませぬな」
「となれば、その服に施した魔力は無駄ではないはずじゃ。アリス、妾はその石がそちの命をいついかなる時も保証する物ではないと考えておる。故にマーリンに注文をつけておいた」
「はい。石ではなく『アリス嬢に対して』魔力が向けられた場合のみ、働く魔力を込めました。向けられた魔力がそのままの威力で反射するようになっております」
「それいいねぇ……宰相サマ、俺の服も是非その仕様にしてもらえないかな。ほら、俺がいなくなるとアリスちゃん困っちゃうだろ? 何たって俺はアリスちゃん御一行の一員で、全世界公認の『勇者を導く者』なんだからさ」
チェシャ猫が見せるお決まりの妖しい笑みに、マーリンは眉を寄せたが隣で女王が笑った。
「施してやればよい、今の質素な服では木の枝にかけて破けてしまいそうじゃ」
「女王様、その場合、魔法は関係ありませぬぞ」
「保険じゃ。の、チェシャ猫。いざとなればそちがアリスの盾にでもなるがよい」
「志低い森番がそのような行動を取るとは思えないが、その時は讃えてやろう」
「あはは、軍司サマは黙って作戦でも練っててくれればいいよ」
「チェシャ! マーチさんには無理言ってついて来てもらうんだから、あんまり失礼なこと言っちゃダメだってば」
「俺は一緒に来てほしいなんて頼んだ覚えもないし、軍司サマだって同じだろ? 女王様の命令には絶対服従、文句の有無なんて関係なしに首を縦に振ったのさ」
「ちょっと何その言い方……!」
「アリス殿、構わない。捉え方は自由だ」
落ち着き払ったマーチ・ヘアの態度が余計にチェシャの減らず口を悪化させることは、アリスにも容易に想像できた。ただ実際は、「ああ、嫌だねぇ。そんな風に大人ぶられるのが一番苛立つんだ」とチェシャ猫は不快感を顕わにし、広間をあとにしただけだった。
「……先が思いやられますな」
「問題ない。マーチ・ヘア、そちには気苦労をかけることになろうが……何分、不安定な存在じゃ。代わりに今、妾がこの場でことわろう。すまぬ」
「滅相もございません。元々相容れない性分であることも事実」
その返答に女王は「助かる」と微笑んだものの、アリスの胸中は不安でいっぱいになった。何が楽しくて明らかに仲の悪い2人と共に長旅をしなければいけないのだろう。石の効力さえ確かなものと分かれば、いっそ一人で捨てに行った方が余計な気を遣わず済むのではないだろうか……そんな風にも考えられる。
小さく溜め息をついたアリスに、マーリンはキャメロットへの道中で必要になるであろう物をリストで示してくれた。女王がそれをもとにメイド達に一通り用意をさせた。
***
あっと言う間に調ってしまい、アリスはいよいよ覚悟を決める。
首にかかっているこの魔法石のせいで、こんな意味分からない世界に来てしまった。今の自分にできることは、なるべく早くこの元凶を捨てること。だったら早く捨てて、自分のいるべき世界に、場所に、立場に、帰る。帰ってみせる。
帰ったら真っ先にこの意味分からない世界について母に話そう。日本文学を専攻していた母なら、きっと面白い分析をしてくれるはずだ。
「アリス、これを」
小さな肩かけポシェットに、ハンドタオル・懐紙・(万が一負傷したときのための)塗り薬・一口サイズのパウンドケーキなどを入れていたアリスに、女王が呼びかけた。差しだされた物を見て、アリスは少しぎょっとする。真っ白いハンカチに、三つの赤いシミ――医療知識などテレビで取り上げられるレベルしか持ち合わせていない一般的な女子中学生でも分かる――血痕だった。
「えっ、な、何で……女王様、怪我……!」
「妾が曾祖母より教わった、大切な者を守るというまじないじゃ」
「おまじない?」
「三滴の血を滲ませたこの布を、そちの鞄の底に入れよ。妾には……共に旅をし護衛するための力がない。それゆえそちの無事を祈ることしかできぬ。分かってはいたが、こうも歯痒いとは……」
「女王様……」
ハンカチを握らせる女王の手が震えているのが分かった。命令をする時の威厳を含んだ声より、微笑を零したときの声より、少し上ずった声だった。
女王は本気で自分の身を案じているのであろうか。突如異世界から迷惑な魔法石を持ってやって来た、得体の知れない小娘の身を。
「大丈夫です、ご心配なく」
アリスには、不思議と返答の仕方が分かった。チェシャ猫やマーチ・ヘアといった分かりづらい皮肉屋系男子を統べる彼女に対する、正解の返答が。
「私は早く自分の世界に帰りたいんです。こんな石、とっとと捨てておいとまします」
「……そちも口達者じゃの」
女王とマーリンに見送られ、アリスはチェシャ猫とマーチ・ヘアをお伴に歩き出した。道に迷うことなどない。キノコの森に張り巡らされた道を地図通りに進み、何日か野宿を重ね、持たされた食糧で空腹を満たす。
しばしば起きる連れ二人の小競り合いに呆れながらも、六日後の日没少し前、一行はアーサー王の治める広大な王国・キャメロットに辿りついた。