評価好転 ―軍司のお墨付き―
「なるほど、この環境は発動の対象外なのだな」
アリスの呼吸停止など気にも留めず、次の実験の用意をし始める。
「電流はどうだろうか」
マッド・ハッターにとっては、雨に濡れた状態で落雷に打たれた場合の検証、それだけなのだろう。しかしアリスにとっては感電死するか否かの危機である。もっとも、アリス本人は水攻めによってすでに意識を手放しているのだが。
「手っ取り早く、コレにしてみるか」
彼が手袋をつけた手で持ち出したのは、金属棒だった。その末端からはワイヤーが出ており、ワイヤーの先には手動レバーで回転する装置が繋がっている。レバーを回せば装置の中にある複数の金属球が摩擦で帯電し、その電気がワイヤーを伝って金属棒に集まる、という実験器具だ。その金属棒を水槽に入れるつもりらしい。レバーを素早く回して棒に帯電させたハッターが、水槽の淵に梯子を立てかけた、その時。
「……ん?」
部屋の上部から、妙な物音が聞こえてきた。それはハッターの知る限り、アリスがこの水槽に落ちてきた時と同様の音。
「よもや……」
少しだけ目を丸くしてから、彼は緩やかに口角を上げる。足止めとして送り込んだ兵は、確かに腕っぷしで言えば一般兵に毛が生えた程度の者たち。しかし、「一対多」の状況をこうも迅速に打開するとは……
ザバァァァン……!
水槽に落ちてきたその人物は、コンマ数秒で状況を把握し、持っていた短剣を思い切りガラスに打ち付けた。日頃から鍛えているのだろう、水中であるにも関わらず、動きに一切の無駄がない。僅かに生じた傷に寸分違わず短剣を突き立て、ダメ押しと言わんばかりに足で押し蹴った。
ビキビキビキ……バリーン!
「見事だ」
愉しげに呟いたハッター。ガラスの水槽が割れ、水が流れ出す。そして、中にいたアリスも。
「アリス殿!」
後追いで水槽に入りガラスを割った人物――地上で5名の刺客を退けてきたマーチ・ヘアは、すぐさまアリスの呼吸を確認した。
「先ほど呼吸は止まったようだが」
「ハッター……!」
マーチ・ヘアは一瞬だけハッターを睨み、アリスを寝かせて心肺蘇生のため心臓マッサージを施した。
「ぐっ……がはっ……!」
「おや、蘇生したか」
げほげほっと水を吐き出したアリスの顔を横向きにしてマーチ・ヘアは再び呼びかけた。
「アリス殿、」
「それにしても、魔法石というのは実に非情だとは思わないかね。所持者が溺れようと、呼吸が止まろうと、関係ない。無反応だ」
「非情なのは君の方だ。その手にある物をどうするつもりだ」
「無論、魔法石の効果測定に用いるさ。所持者が落雷に打たれたのと、同じ状況下を作ろうと思ったのでね」
言い終わると同時にマッド・ハッターは持っていた金属棒を、パッと手放す。マーチ・ヘアは一瞬にしてその言動の「意味」を悟り、アリスを抱え上げた。
水槽が割れたおかげで水浸しになっていた床は、生身で触れようものなら感電するフィールドに変貌する。付近に設置されていた実験用の木机に飛び乗ったため、マーチ・ヘアと彼に抱えられたアリスは感電を逃れた。
「どうやら君は、何がなんでも勇者を傷つけたくないらしいな」
「それが僕の使命だ」
「となると私の目的を達成する上で、君の行動は全て障害になりうる。所持者へのアクションがきちんとなされなければ、魔法石の正しい反応も見られまい」
「彼女の命は、君の実験に振り回されていいものではない」
「今ここでその効力を正しく理解しておかなければ、これから先多くの命がその石に振り回されることとなるだろう?」
「……最初の所持者は、それ以降の所持者のための犠牲になるべきだということか」
「素晴らしい。理解が早くて助かる」
「悪いが僕らは、2代目以降の所持者を生み出すつもりはない。処分すべくこの地に来たんだ」
アリスを抱え、マーチ・ヘアは右手側に置かれていたデスクへと走り、その付近の壁を蹴破った。その部分だけ壁が薄かった、というより、デスク横に隠し扉があったのだ。ベニヤ板の扉の先には、地上へと繋がる通路と階段。マーチ・ヘアは迷わず走り出した。
一方、扉の存在を見抜かれたことに驚いたマッド・ハッターだったが、すぐに「なるほど」と納得する。マーチ・ヘアの持つウサギの耳が並外れた聴覚を持ち、隠し扉の向こうから流れる風の音を聞き取ることができたのだとしたら……充分に可能性のある仮説だった。
「さて、面倒だが追わねばなるまい」
マッド・ハッターが白衣の左袖をめくると、そこにはやや厚めのブレスレットがあった。
「通常ハッチをおさえてくれたまえ」
―「了解!」
モルガンから支給されたそのブレスレットに呼びかけ、地上に待機する部下に指示するマッド・ハッター。
「あまり得意ではないが、やむをえまい。モルガン様はこの展開も見越していらっしゃったようだ」
壁にかけてあった黒光りの剣を携え、蹴破られた隠し扉から地上へと向かった。
***
「アリス殿、呼吸は整ったか?」
「はい、何とか」
「じきに地上へ出るが、出口付近にはあの男の部下が十数名待機しているようだ。10メートル手前で君を降ろすから、そこからは自分で走り、突破してくれ。敵は僕が引きつける」
唐突に告げられた案に、息を呑むアリス。けれど、自分が一番分かっていた。マーチ・ヘア以上の提案など、自分には到底できない。彼の案こそが最善なのだと。
「昨晩仕入れた『龍穴の情報』がハッターの手下によるフェイクだとすれば、現状僕らの手元に有力な手がかりは無い。だがハッターの研究室があるということは、この付近にあるとみて間違いない。見つけるには、探索しながら涙の反応を窺うほかないが」
予定していた出口の10メートル手前に差し掛かり、マーチ・ヘアは足を止めてアリスを降ろす。
「すまない。本来ならば、君の傍を離れるべきではないんだが……ハッターも追ってきている。今のあの男を君に近付けるのは危険だ」
「謝らないでください。私、捕まらないように頑張って走ります。これまで守ってくれた、皆さんのためにも」
怖くてたまらなかった。ここから走り出せるのかと、不安になるほどに。けれど今、それを表に出してはいけない……マーチ・ヘアに心配をかけまいとアリスは微笑んでみせる。
「そうだな、君には多くの味方がいる。そして彼らは皆、強い」
強張った微笑みを向けるアリスの胸中を察したマーチ・ヘアは、その頭を一撫でしてから、ぎゅっと抱き寄せた。
「わっ、」
「だから……そんな顔をしないでくれ。アリス殿は、僕にとって評価Aの勇者だ」
「え? で、でも私、自分の力じゃ何も……」
「君にはもう、持つべき強さが備わっている。大丈夫だ」
マーチ・ヘアの表情はきっと、いつもと同じ鉄仮面なのだろう。それでもアリスはその瞬間、彼の声色の中に優しさを見つけ、ぽんぽんと背中を叩くその手を温かく感じた。じわりと込み上げる涙がこぼれないように、深呼吸を一つ。
「マーチさんの保証があるだけで、とっても心強いです」
「君に力を与えられるのなら、何度でも言おう」
「ありがとうございますっ!」
胸を張って答えたアリスの手を引いて、マーチ・ヘアは出口へと駆ける。彼の予測通り、出口付近には十数名の敵が待ち受けており、そのうちの数名が先手を仕掛けてきた。流れるようにいなし、捌き、弾いたマーチ・ヘアは、アリスに指示した。
「行け!」
「はいっ!」