軍人の矜持 ―結論―
さて、何をどう話そう。
マーチ・ヘアの部屋の扉を前に、ようやく考え始めた。というより、長い螺旋階段を突破するのに集中し過ぎたせいで、考えながら移動することができなかったのだ。だが相手は軍人。きっともう自分の気配に気付いていて、扉が叩かれないのを奇妙に思っているかもしれない。
ちっとも言いたいことを整理できていない状態だったが、アリスは思い切ってノックをした。
「はい」
「マーチ・ヘアさん、あの……今少しお時間、」
全て言い終わる前に扉が開き、何物にも動じないあの表情が現れた。
「構わない。ちょうど僕も君と話がしたいと思っていたところだ、良ければ入ってくれ」
「はいっ、失礼します」
ストイックな部屋だった。簡易ベッド、デスク、その他は資料と書物の山、山、山。プライベートルームがこれほど圧迫感の塊では、たとえ仕事を終えても全く心が休まらないだろう。もっとも、軍司であるマーチ・ヘアにとっては「休まらない環境」こそが最適空間なのかも知れないが。アリスは若干の息苦しさを覚えながら、「かけてくれ」とマーチ・ヘアに促され、近くの丸椅子に座り膝の上で両手をぎゅっと拳にした。
「先に用件を聞いた方がいいだろうか」
「あっ、はい! ありがとうございます。えっと、朝食の時に女王様がおっしゃってたことなんですけど……さっきチェシャに聞いたんです。マッド・ハッターさんのこと」
チェシャ猫の名が出たせいか、あるいはマッド・ハッターの名が出たせいか、いずれにせよマーチ・ヘアの表情が辛うじて汲み取れる程度に強張ったように、アリスは感じた。
「森番から……何を聞いたか知らないが、あの男の言葉は信用に値しない。愚直に受け止める必要は」
「そうかも知れないけど、多分、ちゃんと話してくれました。お二人がよくチェスを嗜んでいたことや、紅茶について語らってたこと……想像しかできないですけど、相方って女王様が呼んでらしたのは、間違いじゃなかったんだって思いました」
「……相方などではない。が、森番にしては誤植なく話したようだな」
机を挟んだ正面の椅子に腰かけていたマーチ・ヘアは、何かを思い出すように視線の行方をぼやけさせる。そんな様子を前に、アリスは覚悟を決めた。伝えたくなったことを、そのまま言葉にして吐きだす。
「私には、お二人の関係性とか絆とか、想像しかできませんでした。けどもしそれが、私にとっての『友達』と同じ種類の繋がり方だとしたら……多分、つらいです。目の前の知り合いが、操られてて、自分に敵意を向けるなんて、イヤです。そんな関わり方が待ってるって分かってるなら……マーチ・ヘアさん、来なくても大丈夫です」
動揺は見られなかった。色違いの双眸がアリスを射抜くように見つめ、会議の質疑応答のような調子で言葉が放たれる。
「君は僕に、女王の命令に背けと?」
「そ、そういう意味ではなくて……えっと、協力はして欲しいです。マッド・ハッターさんがモルガンの部下としてこの石を狙ってくるなら、やっぱりその、作戦とか先読みできるのはマーチ・ヘアさんだけだと思うので……あらかじめ教えてもらえたらな、って」
自信のなさが自分の目線の動きに表れていることも、それをマーチ・ヘアに汲み取られていることも、分かっていた。「虫が良すぎますよね……」と付け加えたのは、精神安定のための言い訳だった。
気分は、手応えの全くない模試の結果を覗く瞬間に近い。見たくないけど、目を向けないと始まらない。進まない。そうっと、表情を窺う。せめて、「その程度の協力はお安い御用だ」の雰囲気が漂っていてくれれば……と。
「君は軍人を誤解している」
文脈を無視されたことが、アリスの思考を数秒止めた。誤解しているのかも知れないが、だから何だというのか。そもそも軍人なんて職種に出会ったのが人生初なのだ、性質を正確に把握しろという方が無理な話だろう。アリスの戸惑いを知ってか知らずか、マーチ・ヘアは続ける。
「勇者殿、君の言いたいことは大方理解した。僕があの男に仲間意識を抱いていると捉えた故の判断だろう。その上で、女王が僕に同行を命じた目的も考慮して提案をしに来た。感情に流されすぎなかった君の思考と行動力は評価に値する。では何故君の提案と僕の結論が食い違ったのか。要因を挙げるとするならば、君の『軍人』に関する理解不足だろう」
少し難しい講義のようで、アリスはマーチ・ヘアをじっと見つめた。淡々とした口調は崩れない。表情も変わらない。しかし不思議と、全自動ロボットのようには見えないのだ。
「結論から言おう、僕は同伴する。理由は二つだ。軍人は女王の命に逆らうという選択肢をそもそも持ち得ない。そして、自らの能力不足によって作戦が中止されることが、何より大きな傷になるからだ」
「傷……?」
「経歴につく傷であり、己の信念と矜持につく傷だ。僕は、僕自身の感情を制御できないほどの未熟者ではない」
マーチ・ヘアの言ったことをもう一度頭の中で繰り返し、アリスは一つ深呼吸をした。
「軍人さんは、強いんですね」
「そうでなければ戦えない」
目の前の軍人は、あくまでマッド・ハッターを相方とは認めないのだろう。仲間意識の有無は関係ない、命令を遂行するまでだと、アリスだけでなく自分にも宣言しているようだった。その決心に、アリスはぐっと頭を下げた。声が大きくなる。
「本当に、ありがとうございます。ご迷惑をかけないように、私もできる限りのことはします。だから、あの……宜しくお願いします!」
「いや、礼と挨拶をすべきは僕の方だ。今回受けた命は、この世界の未来に関わること。携われなければ、僕は指をくわえて世界が変革していく様を城壁の内側から見るだけに止まっただろう。勇者殿、僕の力が使えるときは遠慮なく使ってくれ。協力は惜しまない」
マーチ・ヘアの語り口調こそ変わらなかったが、言葉の中に(漠然としたイメージだが)軍人らしい力強さを感じる。少し圧倒されたアリスは、ゆっくりと深く頷いた。
***
「揃ったの。では始めよ、マーリン」
「畏まりました」
再び大広間。話を終えたアリスが部屋に戻った後、招集がかかったのだ。女王とマーリン、アリスにチェシャ猫、そしてマーチ・ヘアが集まり、机の中央に地図が広げられる。マーリンが杖を揮えば、赤・青・黄・緑の丸が地図上に一ヶ所ずつ現れた。
「ちょっと待って、その前にさぁ」
「どうしたのじゃ? チェシャ猫」
「あれだけ渋ってた軍司サマがいるってどういう風の吹きまわしだい? 作戦会議にだけは参加してくれるってことでいいのかな?」
「ふふ……チェシャ猫よ、この世のどこを探したとて、主に背く軍司などおらぬ」
のう、とマーチ・ヘアに視線を送る女王はたいそう満足気で、アリスとマーリンも少し笑った。一方、質問したチェシャ猫は、よほど「彼の決断」を信じられなかったのだろう。トパーズ色の瞳を転がり落ちそうなほどに丸くし、「冗談じゃないよ、あり得ない」と脱力し項垂れた。