三月ウサギ ―軍事司令官―
「改めて自己紹介をしておこうか。初めまして勇者殿、僕はハートキングダムで軍事関係、主に国防の責務を担っている。……どうかしたのか?」
「えっ?」
「僕の顔を見て別の考え事をしているだろう。質問があるのなら受けるが」
自己紹介を左耳から右耳へと流していたのは図星で、アリスは一瞬にして緊張状態に陥る。だが、起床時からこれまで驚きと疑問の連続であり、多少なりともこの朝のうちに体感した事象を整理する時間が必要なのは事実だった。
物凄い音で叩き起こされ広間を覗いてみれば、見知らぬ青年(見た目はチェシャ猫と同年代)が紅茶を啜る現場に遭遇。女王に促されるまま正面の椅子に腰かけたアリスに、その青年は言ったのだ。「汚いものは捨てた方がいい」と。
マーチ・ヘアと呼ばれたその青年がチェシャ猫と犬猿の仲であることは、やり取りを聞けばすぐに分かった。が、解消されない疑問点と、興味深い点が数点。
その数点に思いを巡らせていたところに、先の切り返しが飛んできたのだ。
「質問というか……その、」
「アリスちゃんて分かり易いよね。初めて俺に遭った時と同じ顔。まぁ色々と妙だと思うのは仕方ないさ。ウサギが軍服なんて着て紅茶をカップで飲んでいたら、遭遇した誰もがまず自分の目を疑うだろうからねぇ」
「僕は勇者殿に聞いている。森番は少し黙っていろ。仮に君が僕との会話を弾ませようと試みているとして、現在の僕にはその希望に応える気が微塵もない」
「これはこれは、さすが軍司サマと言うべきかな。冗談にさえユーモアの欠片もない!」
「冗談を言ったつもりはない。人を惑わすことに長けたせいで、他人の発言すら全て虚偽前提で考えるとは、非常に嘆かわしい」
「表面的な同情を含んだような物言いは逆に相手を苛立たせるって知ってるかい? 軍司サマ。俺は」
「あーもう! チェシャは少し黙ってて!」
このまま言い合いが始まってしまえば、マーチ・ヘアと話すタイミングがまた暫く失われる。そうなっては話が進まない。
意を決し発言を遮ったアリスは、目を丸くしたチェシャ猫が口を閉じたのを確認し、改めて正面の人物に頭を下げた。
「あの、ごめんなさい! 叩き起こされてから目まぐるしくて、ボーッとしてたんです。それでえっと、顔を見てたのは……きれいな目だなぁって、思って」
チェシャ猫の言ったように、ウサギが軍服を着ている……というより、軍服を着た青年がウサギの耳を生やしていることに疑問を持たなかったワケではない。
が、その疑問についてはチェシャ猫という存在により大方解消の段階に持っていけた。この世界ではおかしな耳が生えていても人の言葉を喋れるし、同じように服を着る。それはもう把握した。アリスが注目していたのは、むしろ彼の双眸。右目は少し深いグレーに対し、左目は澄んだエメラルドグリーンで、知的な雰囲気を漂わせていた。
アリスの言葉に対し、マーチ・ヘアは特別な反応をすることもなく、ただ「ああ、珍しいとはよく言われる」とだけ返し、今度は女王に問いかけた。
「女王様、そろそろ教えていただけますか。貴女は普段、大広間での賑やかな朝餉の場に僕をお呼びにならない。特別な命があるのでは?」
「呼んでもなかなか顔を出さないのはそちの方であろうに……まぁよい、話そう。マーチ・ヘア、そちはこれよりアリスに同伴せよ」
「えっ?」
声をあげたのはアリスだった。当のマーチ・ヘア本人は一度紅茶を啜り、女王に進言する。
「恐れながら女王様、僕が同伴するべき理由が見受けられません。案内役はそこの森番が買って出ているでしょう」
「それゆえじゃ。そちも知っての通り、チェシャ猫の言葉は回りくどく皮肉めいているゆえ、『導く者』に適しているとは到底思えぬ。そちならば、アリスに的確な情報を即座に伝えられよう。一瞬でも早い状況把握と、その上での判断力が問われる戦場に身を置いたそちならば、と思うての」
「しかし、僕が勇者殿に同伴するとして、その間この国の守りはどうするのです。只でさえ今、アヴァロンが妙な動きを見せているというのに……」
「左様、モルガンはこの一帯を支配下に置こうと画策しておる。そして最終的な目的は……アリスの持つマレフィセントの涙、すなわち絶対的な魔力じゃ。よって今、国防を緩めるのは賢くない選択であろうな」
「ならば、」
「考えてもみよ、モルガンがアリスから涙を奪えば、この世界は瞬く間にあの女の手中に収まってしまう。そうなっては国防も意味をなさぬ。マーチ・ヘア、妾が今回そちに命ずるのは、この国のための役割ではない。魔法石の存在は多かれ少なかれ争いを生むであろう。場合によっては多くの命が……それは、あまりにも耐え難い……」
女王はナプキンで口元を拭き、扇を取り出す。背もたれに寄りかかり、ゆっくりと窓の外の青空を見上げた。
「そもそも、妾にはそちが同伴を渋る理由が量れぬ。アヴァロンによるキャメロット侵攻の件は耳に入っておろう。二つの地区を制圧したと」
「……はい」
「精鋭揃いのキャメロットから土地を奪うなど、余程の力と策がなければ成し得ぬことじゃ。そちの相方が働いたのではないかのう」
「……相方などではありません。ただ、紅茶を飲み交わしていただけの間柄です」
場違いかも知れないが、アリスは純粋に尊敬した。全く変化しないマーチ・ヘアの表情からは、まさに感情を悟らせない軍人の心がけが窺えたのだ。紅茶を啜るその仕草にすら、少しの動揺も見せない。笑顔こそないが、まるで他愛のない話をしているような、自然体に見える。
「ふふ、面白い嘘をつくの。仮にそちの言う通り、希薄な関わりしかなかったとして……軍人とは、そのような仲である者に対しても深い後悔をするものなのか?」
「……おっしゃっている意味が不明瞭です」
「後悔ではないか。そちは……自分を責めておる」
「女王様、今日は随分と妙な勘ぐりばかり口にされますね」
「当たらずとも遠からずであろう。あまり妾を見くびるでない。その読みとり難い表情と声色に、一体何年向き合ってきたと思うておる」
微笑む女王に、マーチ・ヘアは何も返さなかった。
***
「マーチ・ヘアさんの相方って、どんな人?」
客室までの長い廊下でアリスが尋ねると、チェシャ猫は思い出し笑いで少し肩を震わせた。
「相方っていうより、本当に紅茶を飲み交わしただけの間柄って気もするけどねぇ。普段は確か…この国の帳簿をつけながら罪人を裁いてたよ」
「それって、財政と司法を取りまとめてたってこと? よっぽど頭いい相方なんだ……」
「というよりむしろ、同じ穴のムジナだね。『イカれてた』のさ、マッド・ハッターって男は。そう言えば、あの二人がチェスに興じる光景は何とも奇妙だったよ。一人は終始無表情、もう一人は終始愉悦むき出し。チェスの駒を弄びながら飛び交う会話は紅茶に関することばかり。どちらも対局に関することは何一つ話題にしないから、勝敗が決まったのかどうかは盤上を見ないと分からないんだ。だからと言って適当に打ってるワケでもなかったんだよなぁ……アレは何がしたかったんだろう。チェスか紅茶談義か、どちらかにすればいいのに」
マッド・ハッター……アリスはその名からやはり童話を連想した。そのうち『不思議の国のアリス』のキャストが勢揃いしそうだ。
それにしても、財政と司法とを一手に引き受けるなんて、財務省と警察組織と裁判所を凝縮するような盛りっぷりだ。どれだけ女王から信頼されていたか窺える。自分だったら絶対に途中で目が回るだろうなと思いつつ、チェシャ猫に新たな質問を1つ。
「それでその、マッド・ハッターさんは、今……」
「モルガンの家臣でもしてるんじゃないかなぁ? さっきの女王様の話じゃ、キャメロット侵攻においては作戦参謀を務めたみたいだし」
「そ、それって……!」
「マーリンも言ってたろ? 魔術にかかった者は皆、彼女の支配下に置かれる。財務官サマがどうしてモルガンの手に堕ちたかは俺も知らないけど……まぁ確実に言えることは、今現在あの『イカれる』ほど頭のいい男はアヴァロンに与し、俺たちに敵対してるってことさ」
何でもないことのようにチェシャ猫が告げた内容に、驚かなかったのではない。ただ、これでようやくアリスには分かった気がした。モルガンの話をするとき、女王とマーリンが厳格な雰囲気の中に喪失感を漂わせる理由が。同伴しろと言われたマーチ・ヘアが、首を縦に振ろうとしなかった理由が。
不意にアリスが立ち止まったのに気付き、チェシャ猫も足を止める。くるるんっと軽やかな動きを見せる尻尾。「どうしたんだい?」と彼が声をかければ、俯くアリスは小さく尋ねた。
「……チェシャ、マーチ・ヘアさんの部屋は何処?」
「知らないけど、何で? 頭の固い軍司サマにわざわざ会いに行ってどうするのさ。きっとまた評価がどうとか」
「ふざけてる場合じゃないの。こっちは大真面目なんだから。で、何処?」
「……悪いけど、本っ当に知らないよ。知りたくもないからね」
「そう……分かった。戻るなら先に戻ってて」
アリスは廊下を引き返し、一番に遭遇したメイドにマーチ・ヘアの部屋の場所を聞いた。
まるで、「童話のアリス」が「三月ウサギ」を捜して駆け抜けているようだ……教えてもらった場所、尖塔の最上階へと続く階段を駆け上がりながら、そんな風に感じた。