現実(拒絶)
「……で、何で付いて来るのよ」
「えー? 俺、アリスちゃん御一行の一員なんだけどなぁ」
「わ、私これからお風呂に入るの!」
「あぁ、そんな気ないから大丈夫だって」
「どっ、どんな気よ! ヘンタイ!」
チェシャ猫をドアの外に閉め出し、鈴は改めて浴室を見回す。広い。これが客用の浴室なら、女王クラスはどんなものだろうか。
鈴はいつものように想像しつつ湯船に浸かった。ちょうどいい湯加減に、汗が少しずつ滲む。
……やはり、夢ではないのだろうか。夢ならば、こんなに盛大な設定をした脳を少しは誇りに思ってみようか。結末が気になるから、ちょっとタイムワープできないだろうか。
これからきっと、モルガンという魔女に命を狙われながらもモンス・ダイダロスに向かうはずだ。その道中に色々あるだろうけど、さらりと飛ばしてエンディングだけ見たい。成功するのか、しないのか。または、モンス・ダイダロスの力をもってしても石の力には敵わない……そんなエンディングも意外性があっていい。
「…………なんてね」
自分の想像というより未来への妄想を笑い、汗を流す。夕食のあとに出された紅茶の香りと、石鹸の香りが似ている。女王の好みだろうか。甘すぎず、ツンとくるのでもない、バーベナを思い出させる上品な香り。
用意されていたネグリジェに袖を通せば、いつもより高級なマキシ丈のワンピースを着ているようで少し気分が良くなった。
「へぇ…女王の見立てにはやっぱり感服するね」
「え?」
浴室から客室に戻った鈴に、チェシャ猫は言う。ハートの女王は美しいものが好きで、よく自ら服飾のデザインをするそうだ。色遣いのセンスもよく、ハートキングダムの特産品としても有名らしい。鈴の世界で言えば、総理大臣がデザインした服のブランドがあるということだろうか。想像して「ありえない」と苦笑をこぼしながら、ベッドに倒れこんだ。
肌触りのいい、シルクの質感。模試の復習を終えて倒れ込んだ自分のベッドは、こんな感触じゃない。あんなに憂鬱で単純で単調だと思っていた学生生活が、ひどく懐かしく、だから今すぐ取り戻したい。
「……ねぇ、チェシャ」
「何だい?」
「……私、早く帰りたいの」
「そうみたいだね」
「帰らなくちゃいけないの」
「どうしてだい? 食事はおいしくて客室は広くて、魔法石のおかげで無敵じゃないか。何か困る要因があるなら聞きたいぐらいだよ」
「……もうすぐ受験で、こんな、変な冒険してる場合じゃなくて……私は明日も学校に行くべきで……だから、」
「受験? 学校? パーティー会場みたいなところかい?」
「勉強するところ。年齢があがってくに連れて難しいことを学ぶの。そういう施設っていうか、制度っていうか……まぁ、この世界には無いみたいだけど」
「ふーん、勉強ねぇ……だとしても問題ないさ。この世界には存在しないものなんだろう? つまりそれは、この世界のアリスちゃんには必要ないってことじゃないか。受験も学校も、困る要因にはならない」
突っ伏していた鈴は、起きあがってチェシャ猫を睨んだ。窓際に座る彼は月明かりに照らされ、美しい。だからこそ余計に、その頭部に生える耳が怪しさを醸し出す。もしかしたら、導くとか言いながらこの世界に留めさせるための刺客なんじゃないか、そんな奇妙な勘ぐりさえしてしまう。
「帰ったときに困るでしょ。受験は人生を左右する大きな試験だから、失敗するわけにはいかないのよ。それで全部決まるの。私がこれから先、どの程度裕福になれるかとか、多分、ここで大体決まっちゃうの。だから神経すり減らして、私は今までっ……」
そのために、頑張ってきた。そのために、面倒くさい塾にも通い、嫌いな先生に反抗したい気持ちを抑え、苦手な体育だって極力良い結果が出せるように取り組み、部活動では副部長を務めてから引退した。
テストの点数と内申点が支配する学生の世界で、鈴は目一杯努力をしてきた。それが全て水の泡になるなんて思いも寄らなかったし、とても耐えきれない。
「だから油を売ってる暇なんてない! こんな石、さっさと捨てて帰りたい! これは夢でしょ? 夢じゃなきゃ困るのよ! 早く……早く早く覚めてよ!」
「アリスちゃん、」
頭を抱え込んでいた鈴の両手に、別の手が重なった。ぎゅっと瞑った目を開けても、やはり景色は変わらない。勇者扱いをされている手前我慢しなければと思っていたが、もう、限界だった。
「何でっ……何で私がっ……!」
冷めた子供だと言われ続けてきた。その評価に応えるように、鈴は成長した。中学に入ってからは、家族にも、友達にも、絶対に見せないように生きてきたというのに。
目が熱い。耳も熱い。情けない声がだだ漏れる。規則的な呼吸ができなくて、肺が疲れていくのが分かる。
「こんな世界、知らないっ……私、来たことないっ……なのに、何で、」
「……そっか、『知らない』っていう認識なら仕方ない。アリスちゃん、1つだけ俺から伝えておくよ」
チェシャ猫の手が鈴の両手を優しく掴み、顔を上げるよう促す。今のぐしゃぐしゃな表情を見られるのは避けたかったが、彼の真面目な声色に応じることにした。
「世間一般で『賢者』と称される者はよく、この世界を二分化して譬えるだろう? それを真似て言うなら……この世の事象は二つに分けられる。認識できる現実と、認識できない現実だ」
「それって……夢と現実?」
「いいや、それじゃ意味が違う。夢はこの世界に発生してない事象じゃないか。個人の妄想、理想、空想、思想。だからアリスちゃん、君がいくら夢だと思いこもうとしても、ここで起きていることは現実だ。君のいた世界にだって、君に認識できない現実はたくさんあったはずだよ。いつどこで誰が生まれて死んでいったか、全ての動植物の名前や生態、君の親が毎日どんな風に働いているか……認識は追い付いていないだろうけど、出来事は存在している。君の五感で知覚できない事象でさえ起きてしまった『現実』なんだから、目の前で起きたと知覚できた事象はなおのこと『現実』として捉えざるを得ないじゃないか」
残る涙を袖で拭いながら、チェシャ猫の言葉を反芻した。女王が言っていた通り、「分かるものも分からなくなる」物言いだ。しかし、そんな彼が「導く者」であるという状況は、うってつけだったのかも知れない。疑問解消のためには思考を惜しまない、考えることが好きな鈴に限ってのことだが。
この世界は、存在してきたらしい。石碑がどうとか言っていたから、歴史だって相当あるのだろう。自分が今まで知らなかっただけで、『この世界』は在ったのだ。
夢ではないそうだ。個人の脳が作り出した虚構じゃないらしい。夢だと思いこみたがったのは、自分中心に捉えていたからだ。つい先ほどまでいた世界では到底起こり得ないことが続き、それらの事象を現実だと認識できなかったのだ。
もしも現実だというのなら……
「……チェシャ、いくつか質問、いい?」
落としていた視線を真っ直ぐ向けると、チェシャ猫は緩やかに口角を上げた。
「頭の弱い勇者だと思ったこと、詫びておこうかな。やっぱりこの世界は、君を待っていたみたいだ」
「そう、それ。待っていたって、どういうこと? あなたも女王様も、私が石を持ってやってくるのが分かってたの?」
「こんな的確な予言だとは誰も思ってなかったけどね。この国の伝説を記した石碑、その最初の1枚とされる物に、こうあったんだ。『赤髪の魔女が猛威を揮う時、石は勇者と共に』……その後に残された文献、絵画、人々の記憶にすら、『赤髪の魔女』は存在しない。つまりこの時代に台頭し始めたモルガンを指していると考えるのが妥当なのさ。実際、彼女はキャメロットへの侵攻を始め、世界を手中に収めようと画策しているからねぇ……俺たちは無意識的にも『勇者と石』の到来を期待していた、ってところかな」
「じゃあ、そもそも石はどうして託されたの? さっき食事の席で言ってたでしょ、私が託されたって。誰に、っていうか、どんな経緯で?」
「それについてはねぇ……申し訳ないけど、マレフィセントが石を託した時の記憶は、俺にもないんだ。ちょうど気を失ってたみたいでね」
「え…?」
「というより、託されたのは勇者であるアリスちゃん自身のはずだったけどなぁ。ま、この世界を知らなかったっていうなら、アリスちゃんの関係者が託された張本人で、何らかの理由によって譲渡することになった……なんてことも考えられるね」
「私が知らないうちに、誰かが私に譲った……」
そんなことがあるのかとあらゆる可能性を疑うばかりだが、とにかく今は自分が石を持っている。その現状を受け入れるしかないのは、もう嫌と言うほど実感した。溜め息とも深呼吸ともとれるゆったりとした呼吸をひとつ。
「じゃあ……もう1つ。モンス・ダイダロスってどんな所? 遠いの? てゆーかこの石、マーリンさんの魔法も吸い込んでたみたいだけど……その場所だったらちゃんと外せる?」
「1つって言いながら3つ質問してるよ?」
「そんなの別にいいでしょ、一纏めにしといて」
仕方ないなぁ、と呆れた笑みを見せ、チェシャ猫は窓の外に目をやる。釣られるように目を向けた先には、銀色に輝く半月があった。地球と同じように衛星があるのだろうか、と新たな疑問を持った鈴の耳に、チェシャ猫の返答が小さく響く。
「遠いだろうね、多分」
「行ったことないの?」
「あるよ。確か……うん、遠かった」
曖昧な記憶をかろうじて引きずり出しているような言い回しが、引っかからなかったわけではない。ただ、どうしてかその瞬間は、チェシャ猫がわざとそんな言葉を使っているとは思えなかった。
銀の月光を反射する黄色い瞳は細められ、懐かしむのとは違う、霧の中を手探りで進もうとするような不安が伝わる。
「そうだ、俺は行ったことがある……あの辺りには昔から強い魔力が眠っていたような…そんな気がするなぁ……」
「……そう、分かった」
何故か、気を遣わなければいけないと思った。モンス・ダイダロスのことは、チェシャ猫ではなく女王やマーリンに聞くべきだと。
「もう寝るから、チェシャ猫も自分の寝室行って」
「え? 俺もアリスちゃん御一行の一員なのに?」
「だ、だから何よ! 寝室一緒とかあり得ないでしょ!」
「俺、女王にあのソファでも使えって言われたんだけどなぁ」
「はぁ!? う、ウソでしょ……」
「こんなことで嘘ついたって全然何にもならないだろ? そもそも俺には爪の一欠片分も『そんな気』無いしね。大船に乗ったつもりで心ゆくまで安眠してくれて構わないよ。ってことでおやすみ、自意識過剰な勇者アリスちゃん」
つらつらと言いながらドアの傍にあるソファへと足を運び、ごろんと寝転がり毛布を被るチェシャ猫。一連の動きを半ば呆然と眺めていた鈴は、彼が寝息を立ててから、その就寝の挨拶が嫌味の宝庫であったことに気付き、ぶつけようの無い恥ずかしさと怒りに肩を震わせた。
「……信じらんないっ!」
そうだ、猫だ。人の言葉を喋ってはいるが、チェシャ猫は所詮「猫」なのだ。その辺に野良猫が寝転がっていると思えばいい。動揺することも警戒することも何もない……そんな暗示をかけてから、鈴はドアに背を向け目を閉じた。
次に起きた時にはいつも通りの朝日の中、いつも通りの光景が広がっているはずだと、抗うように願い、信じて。