収穫祭 ―夜の部―
「アリスちゃん、こっち。置いてくよ」
「ま、待って……!」
祭の雰囲気から一変、人の気配がほとんどない場所に連れられて、不安にならない方がおかしい。小走りで後に続くアリスに、チェシャ猫はようやく振り返った。
「荷物その辺に降ろしていいよ。……うん、こっからだったらよく見えそうだね」
「何が?」
アリスが首を傾げたその瞬間、前に立ってたチェシャ猫の向こうの空に、光の花が咲いた。更に2秒ほどして追加される爆発のような音。呆然とするアリスを前に、チェシャ猫はニッと笑う。
「ふーん、今年は出来がいいみたいだ。良かったね、アリスちゃん」
いくつもいくつも、重なって咲く花火。大きさも色合いもバラバラだが、陽が落ちたばかりの紺色の空を美しく彩っていく。
「きれい……」
自然とそう零すと同時に、アリスの脳裏には花火を見るといつも思い出す「ある出来事」が過っていた。
***
自分の中には幼稚園での思い出というのがあまり残っていない。ただ、年中の時の花火大会での出来事は強烈に刻み込まれていた。好奇心旺盛、というより疑問解消のためなら試行錯誤を惜しまない性質は今と全く変わっておらず、むしろ論理的思考力が乏しかった分、今より些か無鉄砲な子供だった。
花火の火はロウソクの火とは違う。何故こんなに激しく燃えるのだろうか。何故こんなに鮮やかに燃えるのだろうか。疑問に思ったその時にはもう、幼い少女は自分の左手を、右手に持っている花火の火の中に突っ込もうとしていた。
「危ないっ!!」
次の瞬間、その場は大惨事になっていた。
「怪我はないかい?」
そう言って笑いかけてくれた先生の手は、赤く爛れていて。一方少女の左指には、小さな火の粉が散ったことで先生のとは比べ物にならないほど僅かな火傷ができた。何度も何度も謝った。泣いて泣いて謝った。他の子が大騒ぎして、それも自分のせいだと分かり俯いた。
ところが後日、母親と共に改めて謝りに来た少女に、先生は言った。
「いいんだよ、先生は元気だから大丈夫。それよりも、鈴ちゃんに大きな怪我がなくて本当に良かった」
そして、何故か先生が少女の母親に頭を下げた。
「私たちの監督不行き届きでした……利き手ではないとは言え、大切なお子さんに火傷を負わせてしまい、大変申し訳ありませんでした」
違う。危ないことをしようとしたのは私の方なのに。どうして先生が謝るの? 先生は私を庇って、助けてくれたのに。謝らなくていい。だって先生は悪者じゃない、ヒーローなんだ。
「先生、あのね、ありがとうっ……! お母さん、私ね、先生に助けてもらったの!」
全力でそう訴えると、母親は仕方なさそうに笑い、逆に先生はボロボロと泣き始めた。
***
「……そっか、」
あまり美しいとは言えない記憶を掘り起しながら、花火に見入るように屋上の柵まで歩み寄ったアリスは、伯爵の言葉を思い出した。「彼らが欲しい言葉を考えてくれ」という、諭すような言葉を。
そして答えに行きつく。
「ねぇ、チェシャ」
「ん?」
今回のランスロット迎撃にあたり怪我をさせてしまった。それについて散々謝ったが、チェシャ猫は不快感を露わにして嫌がらせをしてくるだけだった。ならば、別の言葉にしようと思う。果たして「それ」が彼の欲しい言葉なのかは定かではないが。
「私……まだ、チェシャに言ってないことがあった」
「何だい? 隠しごと?」
違うよ、と言う代わりに首を横に振り、アリスは怪訝な顔をするチェシャ猫と視線を合わせた。
「あのね……守ってくれて、ありがとう」
とても笑顔で言える心境ではなかった。しかし眉を下げながら言う台詞でもないと考えた結果、どちらかというと無表情に近いお礼になってしまったように思う。一方のチェシャ猫は少し目を丸くしたまま固まり、機械人形のように首から上を正面に戻す。
「……別に、使命だから」
「……そっか」
アリスも同様に視線を正面の空に戻し、不規則にあがる花火を瞳に映す。特に嫌味も言われないということは、不快にはならなかったということだろう。
「あと……お祭りも、ありがとう。来れて良かった」
「ふーん、そう」
興味なさそうに返したチェシャ猫に、アリスはくすっと笑う。お礼を言われ慣れてないのだろうか。
「何笑ってるんだい?」
「ううん、別に何も」
「嘘くさいなぁ」
「それチェシャにだけは言われたくない」
「それはそれはご愁傷様」
向けられたのは通常仕様の妖しい笑みだったが、この時は何故か安心してしまった。「ホントにね」と返した瞬間、思わず笑みがこぼれる。
前にも感じたことのある空気、ボロボロのゴム紐が張りつめている状態のような関係性が、元の(と言っても恐らくは毛糸ほどの強度だが)状態に戻っていく感覚。
「ああ、そう言えば、」
微笑むアリスからふいっと目を逸らしたチェシャ猫は、思い出したように持っていた薄っぺらい紙袋を開ける。「あげるよ、コレ」と差し出され、アリスは首を傾げた。
「シール? 何の?」
当然だが身一つでこの世界に来た手前、スケジュール帳などは持っていない。小学生じゃあるまいし、シール帳でコレクションする趣味もない。しかもそれはホクロのような小さくて黒い丸シールの7つ入りで、別段収集欲求を掻き立てられるわけでもない。
「実際に物を見てもこっちの意図をまるで理解してくれないところって本当に君の最大の弱点…ああつまり頭の弱さね、だと思うけど、初めて見る物かも知れないから説明しておくよ。タトゥーシール。なかなか落ちないヤツさ」
「その盛大に邪魔な前置き必要だった?」
「アリスちゃんが自分の弱点を認識してくれれば本望さ」
ただ単にアリスの胸中に行き場のない苛立ちを芽生えさせるだけだったような気もするが、話が進まないのでとりあえずツッコまないでおく。
「それで? どうして私にタトゥーシールくれるの? 何のために貼るのよ」
「まぁ簡単に言えば目印かな」
ぺりっとタトゥーシールを開封しながら、チェシャ猫はアリスに「どっちでもいいから腕出して」と指示する。腕に貼られるのだということはさすがに察せたので、利き手ではない左の袖を肘の少し前まで捲った。
「私の偽者が現れるってこと?」
「そうなった時のための保険さ。実際ウチの財務官サマはそれで落とされたって話だしね」
「財務官って……マッド・ハッターさん? どういうこと?」
「……ああ、軍司サマが話すワケないか。財務官サマが向こうに連れていかれたのは、どうやら偽者を使った謀略にハメられたとかでね。ま、興味なかったから俺も詳細は聞いてないんだけどさ。……はい完成、我ながらいい出来だね」
語りながらアリスの左腕にペタペタとタトゥーシールを貼っていたチェシャ猫は、満足そうに頷く。黒い7つのシールは北斗七星を象って貼られており、何だか「特別な子供に現れたホクロ」のようだ。
いよいよ特別な登場人物感が出てきて、アリスは若干憂鬱になる。元々目立つのは嫌いなのだ。どうせなら「通行人C」くらいの扱いがいいのに。
「分かってると思うけどアリスちゃん、これ貼ったこと誰にも言っちゃダメだよ」
「え?」
「当たり前じゃないか。『本物の勇者の腕には北斗七星があります!』とかお触れ出されたら、刺青した勇者が続出するだろ? まるで意味がなくなるからね、俺の出費だっていうのに」
ああそうか、と納得はしたが、「俺の出費」とか余計な嫌味をぶっこんでくるところにまた少し苛立つ。
普通に忠告できないのかと思いつつ、とりあえずは感謝すべきなのだろう。チェシャ猫はチェシャ猫なりに、涙を捨てるミッションをより円滑に、なるべく安全に進めるために考えてくれているのだから。
「アリスちゃん、無反応ってことは分かったってことでいいのかな?」
「うん、分かった。二人だけの秘密ね、ありがとチェシャ」
大きな花火が連続して上がる。再びそっぽを向いたチェシャ猫は「まぁ端的に言えばそうなんだけど」と、彼にしては珍しく口ごもるように返した。
上がった花火はどれも美しく、秋の夜空を温かく彩ってゆく。もしかして今朝ルーカンの言っていた「祭りの準備」とは、花火のことだったのではないか、だとしたら城に戻ってから感想をちゃんと伝えよう。
そして……もしかしたら伯爵の言っていた「彼らの欲しい言葉」とは、感謝だったのではないか。まだ確信は持てないが、仮にそうだとしたら……多大なる感謝を伝えなければならない人がいる。
「そろそろ終わりっぽいね、袖、戻しなよ」
「あ、うんっ」
北斗七星が貼られた左腕。捲っていたその袖を手首まで戻し、ふぅ、と一息吐いた。