収穫祭 ―夕の部―
「大丈夫、少し休んで」
「はいっ…」
女性陣のみが踊る8小節が終わると、今度は男性陣のみが踊る8小節。この時間でアリスは呼吸を整えてスタミナを回復させなければならない。こうなってはもう義務化した苦行だ。だがこの場から逃げようにも、大量の荷物を置いていくワケにもいかない。つくづくチェシャ猫の嫌がらせはタチが悪いと思う。
そうこう考えているうちに男性陣のみパートが終わり、アリスは仮面の男性に「休めたかい?」と手を引かれる。たかだか8小節で(しかも結構アップテンポのため)体力回復などするはずもないのだが、全回復できなかったところで「じゃあもう少し休んでいなよ」ともならないことは既に分かっていた。
いっそこの踊りを極めてしまえ、アリスは溜息一つの直後、顔を上げた。
「驚いたな、途端に上手になった」
「さすがに慣れましたっ」
息を上がらせながらの返答だったものの、アリスは向かい合って踊るメインパートでのコンマ数秒遅れを克服していた。仮面の男性の声が少し驚きを含んでいて、何だか勝った気分になる。残るは最大の難関、やたら難しくなる女性陣のみのパートだけ。
タンタタタンッ
軽くタップを交えながら、フラメンコのような半身の捻り、遅れないように手拍子を混ぜ、クルリと回って4ステップ。
「できたっ…!」
広場を囲んでいたギャラリーも、今まで途中で躓いてしまっていたアリスがそのパートを完遂したことで盛り上がった。その歓声や拍手に赤面しつつ、仮面の男性とハイタッチをする。男性陣のみの8小節が終わり、メインパートをもう一度繰り返した後、その音楽はようやく終わった。
「はあっ…はぁ……」
「よく頑張った。素晴らしかったよ、猫のお嬢さん」
「ありがと…ございます…」
かれこれ6~7分は踊っていただろうか、アリスは完全に息を切らして石のベンチに座り込んでいた。体育の授業より汗をかいた気がする……こんなに動いたのはいつ以来だろうか。深呼吸しながらぼんやりと記憶を辿っていたアリスの手を、仮面の男性は再び引いて、立ち上がらせた。
「へ…?」
「次の曲が始まるようだ」
「ま、まだ踊るんですか…?」
声色と台詞で体力の限界を訴えるアリスに対し、彼はふっと微笑んだ。
「大丈夫、私に任せていればいい」
「わっ…」
ぐっと引き寄せられ、彼の左手がアリスの腰に添えられる。突然の近距離に驚くアリスの左手は、彼の右手にすっぽりと覆われるように握られた。
「あ、あの…」
「右手は私の肩に」
囁くような声が、アリスの心拍数を上げる。直後に流れてきたのは、(恐らく)ヴァイオリンの音色。そこで初めて、さっきと違うジャンルの音楽が流れ始めているのだと察する。
「リードするから、安心してくれ」
いつの間に楽器が変わったのか。演奏されるワルツはアリスのイメージする「ダンスパーティーの宮廷音楽」そのものだった。仮面の男性に手を引かれ、自然とステップが踏める。こんな上品な音楽で踊った経験などちっともなかったのに、不思議と転ばないし、相手の足を踏むこともない。
「すごい……」
「こちらの方が得意ではある」
男性の口元が再び微笑を見せ、アリスもつられるように微笑んだ。
アーサー王に、馬から降ろしてもらった時と同じような感覚に包まれていく。ふわふわした空間と、いつもより少し高鳴る鼓動。きっと、おとぎ話のお姫様はこうして恋に落ちていくんだ……と、そんな風に感じた。
「だいぶ柔らかくなったようだ」
「え?」
「ダンスの前は、ひどく思い詰めたような表情だった」
その指摘を受けた瞬間、アリスは無意識的に目を見開いた。仮面の男性は、アリスの左手を少し強く握り直して、続ける。
「相談に乗れたら、と思ったんだが。私では力不足かな」
「いえ……でも、」
「……君は心優しく気高い。それ故の苦悩だろう」
違う、違う。心の中で否定語を繰り返しながら、アリスは俯き、足を止めた。正確には止まってしまった。
優しいからではない。マーチ・ヘアに怒鳴った時、感情の赴くまま、爆発するがままに吐き散らした。押しつぶされる罪悪感から、逃れたかっただけだ。それは紛れもなく、弱さと身勝手さが引き起こした結果である。勇者なのに、強くあるべきなのに、どうして仲間に怪我をさせてしまったのか。
表情を暗くしていくアリスに、仮面の男性は優しく問いかけた。
「お嬢さんさえ良ければだが…差し障りない程度に聞くことは可能だろうか」
「……私、もっと、ちゃんとしてなくちゃいけないんです……。それなのに、守られてばかりで、周りが傷ついて……私のせいなのに、みんな、責めることもしなくて……」
「それは彼らが、そう決断したからだ」
「え?」
顔を上げると同時に少し強く手を引かれ、アリスの足は再びワルツのステップを踏む。彼は優しい微笑みと共に、アリスに語りかけた。
「罪悪感を抱くのも仕方ない。君と君が持つ力によって、彼らは戦うこととなった。しかし……それでも同行すると決断したのは彼ら自身だ。逃げることはできた、背くことも、放っておくことも」
彼はどうして、全てわかったように話すのだろう……そんな疑問が湧き起こる頃、彼はアリスの腰に添えていた手を、後頭部へと移動させ、ふわりと抱き寄せた。
「わっ…」
「大丈夫だ。君の感じる弱さは弱さではない。君が持つべきだと思っている強さは、持つ必要のない強さだ」
頭を撫でる彼の優しい掌を感じながら、アリスはその言葉を反芻する。この世界の勇者として扱われているのに、強くなくてもいいのか。そもそも聞き間違われたせいだから、なのか。否、恐らく彼の言っている意味は違う。
抱きしめられていることも忘れて考え込むアリスの耳に、再び彼の声。
「君は戦士ではなく勇者なのだろう。両者の持つべき強さと求められる役割は異なるはずだ。私が思うに、勇者の背負う役割は、戦士のそれとはスケールが違う」
「スケール……って、いうか、その、どうして…」
問うてはいたが、分かり始めていた。この背丈と、穏やかな口調……昨日の一件から目覚めていなかったはずなのに、ダンスでリードできるまで回復したのだろうか。彼の胸部を少し押し返しながら、アリスはバッと顔を上げる。
「あのっ、伯爵…なんですよね? 体の具合は? あれからずっと眠ってるってヴァンさんから聞いて……もう大丈夫なんですか? わ、私がっ…安易なこと提案したせいで……!」
「私が決めたことだ。ヴァンの制止を振り切ったのも、私だ」
「そんな…危険なことだったんじゃないんですか!? ヴァンさんが止めようとするなんて…」
「問題ないさ。あの時は何より、君を守らなければと思った……それは恐らく彼らも同様だろう。この世界と君の運命を知り、この世界に不慣れな君のために行動することを選び、守ることを決めた。ゆえにアリス嬢、彼らの決断を否定してくれるな。その決断による境遇を哀れに思ってくれるな。君を守ろうと負った傷を嘆いてくれるな」
伯爵の言葉を呑みこむ、というより、その意味を把握するのに時間がかかった。それはつまり、抱いた全ての「哀れみ」をなかったことにしろ、と取れる。マーチ・ヘアは女王の命令で来ざるを得なかった、チェシャ猫は森に帰りたいはずだ、それに…
「二人の怪我が私のせいだってことは、動かない事実です……負い目を感じないなんて、」
「そうだな、では謝罪をやめるというのはどうだろう」
「やめる?」
「彼らが欲しい言葉を考えてみてはくれないだろうか。負い目を感じるのは仕方がない。しかし彼らは君と出会い、君の役割と運命を共に背負おうと覚悟したんだ。この世界の未来は、君一人の肩には重すぎると。だからどうか彼らの…いや、我々の覚悟を拒んでくれるな……アリス嬢」
彼の頼みを、残酷に感じた。そんな覚悟はして欲しくない。守られるだけで何も出来ないのは悔しいのに、今すぐ自分一人で何とかしたいのに……彼らは手を差し伸べる。
小学生の頃からそうだった。一人で解決したい。宿題を親に教えてもらうのも気が引けた。「この問題がよくわかんないから教えて」などと頼まれた日には、快く引き受けはしたが、心中ではその友達に対して「どうして自分で解決しようとしないのか」と軽い侮蔑さえ抱いた。どんなに苦手なことでも求められる最低限(もしくは最底辺)までは自分で到達してきた。
それもこれも、誰かに助けを求めるのが一番苦手だから。
「頼って欲しい…つまりはそういうことだ」
「それはその……迷惑、なんじゃ…」
「まさか。我々は皆、この運命に関われたことが誇らしい」
アリスの不安を全て拭い去るような伯爵の微笑みに、目が熱くなる。ダメだ、この世界に来てからどうも涙腺が緩い。と、その込み上げる熱に拍車をかけていたBGMが止んだ。
「どうやらダンスパーティーは終わりのようだ。君のことが知れて良かった、アリス嬢。この大荷物はさすがに嵩張るだろう、私が少し持って帰ろうか」
「えっ、でも伯爵病み上がり…」
「問題ないさ。それよりも、病室を抜けてきたことをヴァンに知られる方が恐ろしい。すまないが、一足お先に失礼するよ」
「あ…」
アリスが引き止めるより先に、伯爵はいくつかのクッションと駄菓子を持って行ってしまった。当初の3割ほど荷物が残っていたため、追いかけることも出来ず立ち尽くす。
音楽がやんだことで、ダンスを楽しんでいた人々がはけていく。同時にギャラリーの中から、いつの間にか戻って来たらしいチェシャ猫がひょいっと姿を現した。
「お待たせアリスちゃん、もしかしてずっとココにいた?」
「あ、ど、何処行ってたのよチェシャ!」
「ちょっと買い物って言ってあったハズだけど聞こえてなかったみたいだね。俺の声が小さかったって言うなら謝っておくよ。今後は倍ぐらいの音量をご所望かな?」
「そうじゃなくて……もう、別にいい。今の音量で結構です!」
ぷいっとそっぽを向くアリスに、チェシャ猫は「あ、そう」と返してから、ぐっと背伸びをした。
「さーてと、陽も落ちてきたし、そろそろかな」
「何が?」
「いーから付いてきて。そこ見終わったらアリスちゃんの付き人任務も終了だから」
早く、と若干気だるげな物言いに、アリスの気持ちは萎えるばかり。ここまで楽しめない祭は今まで生きてきて初めてだ。しかし……
「うわ、まだ階段あるんだ」
文句をこぼしながら、目的の建物の階段を上り続けるチェシャ猫。その足取りは僅かとはいえ未だぎこちなく、やはり斬りつけられた片足を庇っているようだ。黙って上り続けていればまた無意識に謝罪してしまいそうで、アリスは絞り出すように質問した。
「チェシャ、ここって何のお店なの? 階段以外、明かりついてないっぽいけど…」
「ん? ああ、別に買い物しに来たわけじゃないんだ。荷物はもう増えないから安心していいよ」
こちらを向かずに答えたチェシャ猫は、「やっと着いた」と最上階の扉を押し開けた。途端に、びゅおおっと秋風が正面から吹き付ける。
「何? ここ…」
チェシャ猫に続いて扉をくぐり、辺りを見回したが、何の変哲もないただの屋上。むしろ少し寂れているようにも思える。この建物には、人は住んでいるのだろうか。少々警戒しながら、足を進めた。