入城(予備知識つき)
「アリスを、導く?」
「伝説の勇者を導く役目を賜われるなんて、本当に幸せだ。至極光栄だよ。俺のことは好きに呼んでくれて構わないからね、アリスちゃん」
私の夢にしては、私を置いてきぼりにし過ぎている。脳はそんなに疲れているのだろうか。チェシャ猫の言っていることを何一つきちんと理解できないどころか、一番大事な箇所を否定することもできずにいた。
アリスなどという横文字の名前になった覚えはないし、そんな風に名乗ったつもりもない。これはまさしく、まず間違いなく、思いっきり聞き間違えられたのだ。そしてそのまま話が進み始めている。どうにかしてストップをかけなくては、と、そう考えた直後だった。
「怪しいヤツか!」
「怪しいヤツだ!」
「怪しいヤツめ!」
まさか自分が怪しい人物と認定されているのか、そうでないことを祈りつつ声のした方へ視線をやる。が、その祈りは無駄だったとすぐに判明した。
ハート、スペード、クラブにダイヤ、見覚えのあるスートに数字、平べったい胴体……風に飛ばされてしまいそうな見た目だった。鈴をまるっと包みこめそうな大きさのカードにお飾りのような手足と小さな頭が生えており、その手にはカードに描かれたスートと同じ装飾の施された長槍。ハートやクラブなら可愛いものだが、スペードとダイヤは刺されたら確実に痛いだろう。
防衛本能が働き、鈴は咄嗟に駆け出した。これは自分の夢のはずなのに、さっきのサイの大群と言い、こうも命の危機が頻発するものなのか。人間の想像力は甘く見るもんじゃないな。
そもそも向こうの方がよっぽど怪しい。トランプに手足が生えているのだ。今時コスプレ会場でもそんな衣装をチョイスする人なんていない。
様々なことを考えながら走る鈴だったが、耳だけはきちんと機能させていた。足音からして、確実に追いかけられている。いたって普通の見た目をしている自分がどうして怪しいヤツにされてしまったのかは謎だ。
とにかく今は、理由もわからず「悪者」っぽく捕まるのは癪だった。逃げきって、この夢の中での自分の立ち位置をハッキリさせなくては。勇者がどうとか言うチェシャ猫の話は一先ず置いといて、だ。
現実世界での鈴はそれほど足の速い人間ではない。トランプの兵隊たちが鈴といい勝負の走力の持ち主であることは、不幸中の幸いだろうか。
「アリスちゃん、こっち!」
「だからっ……」
アリスじゃない! と訴えるのは、トランプの兵隊たちをまいてからにすべきだ、鈴はぐっと口を噤んで逃走に集中する。木々の枝から枝へ跳んで移動するチェシャ猫の尻尾が揺れる方へ、足を伸ばしていく。
岩や木の根でぼこぼこしている地面で、こんなに全力疾走して捻挫のひとつもない。トランプ兵も同じ条件なのに時々何枚か転んでいる。トランプ兵は見た目もトランプなのにチェシャ猫の見た目はどちらかと言えば人間寄りになっている。
この夢は、在り来たりなファンタジーを思い出させるのに、所々に何とも小さく妙な疑問が散らばっていて……――面白い。
「さぁ着いた」
チェシャ猫の言葉に耳を疑った。どう考えてもゴール地点ではない。辺り一面にバラの花。キノコの森よりは少しひらけているが、何種ものバラが多く植えられていて、明らかに誰かの庭に不法侵入、という状況だった。これではフィールドが変わっただけで、森の中の追いかけっこと何も変わらない、鈴は絶望的な眼差しで振り返り……拍子抜けした。
「そ、そそそそこから出ろ! 怪しいヤツめ!」
「ずるいぞ! 怪しいヤツめ!」
「……何あれ」
ごつごつした地面から整えられた地面に変わるその境界線で、トランプの兵隊たちは叫んでいた。入らないというより、入れないようだった。落ち着かない息で尋ねる鈴に、チェシャ猫が言う。
「この庭には魔法がかけられていてね、俺は先代の女王に許可を貰ったから入れるんだけど」
「じゃあ、どうして私は?」
「大丈夫に決まってるだろ? 君の命はもっと大きな魔力に保証されているじゃないか。じゃなきゃ、庭に足を踏み入れた瞬間、灰になってるさ」
「えぇっ!?」
訪れていたかも知れない顛末は想像より残酷で、鈴はふとトランプ兵の方を見た。ワーワーと騒ぐ兵たちは、恐らく鈴への不信感をより一層強めていることだろう。灰になってしかるべき侵入者が、この庭にかけられているという魔法をも凌駕しているのだから。
ただ、どうして凌駕するに至ったのか、鈴は自分でも理解していなかった。ほら早く、と急かすチェシャ猫は、その理由を知っているようだが。
「ねぇ、私の命は何に保証されてるの?」
先導するチェシャ猫のしっぽが、くるるんっと跳ねるように曲がった。驚きとは違う、喩えるなら、「えっ、たった今先生が言ってたじゃん、何聞いてたの?」という友達をバカにするような視線で、彼は鈴を見て、鼻で笑った。
「ちょっと今だけ暴言吐くけど許してね、アリスちゃん。……はぁ、まさかここまで頭の弱い子が伝説の勇者だなんて正直信じられないし、導く者としては先が思いやられるよ。あぁ、この世界はなんて可哀想な扱いを受けているんだろうねぇ、こんな子に救われたとなっては世界の恥、世界が恥をかいていると言っても過言じゃない」
「それのどこがちょっと暴言なのよ」
「先に謝っておいたじゃないか。それにしたってアリスちゃん、俺は正直言って君の目の節穴っぷりが病的なまでだと思うんだけど、どうなんだい? 自分が首から提げている物すら認識できていない状態で、これまでどうやって生きて来たのさ」
「首?」
名乗った時と同じで、そんな覚えはなかった。寝る前にしたことと言えば、ふらつく足でベッドに倒れ込み、目覚ましのセットを確認したぐらいで。それなのに、どうしてだろうか。
「何コレ……きれい……」
高めの外気温の中でも涼しさを感じさせる、澄んだ青。クリアで、明るい空色に近い青。直接行ったことはないが、写真で見たグレートバリアリーフ。その海のような色と輝きが、鈴の胸元にあった。直径2センチ程度の、丸い石。光の反射角が変われば輝き方も変わる。その変化はまるで移り変わる波のようで……。
「マレフィセントの涙」
チェシャ猫がその名称を口にするまで、鈴は完全に見入っていた。
「涙?」
「比喩的な名称だけど、真実だ。それはこの世界の秘宝と言うべき魔法石。かつてこの森で力を揮っていた魔女・マレフィセント。彼女が消滅する際、その石に自分の魔力の全てを閉じ込めた。アリスちゃんはそれを持っているから、ここで灰にならないのさ」
「ってことは、まだその燃える系の魔法がかけられてるってこと!? この道にも!?」
「まだも何も、ハートの女王の城に無断で入れば灰になる。当然だろ?」
「信じられない……」
もう、名前の訂正は諦めた。この夢から覚めるまでは、アリスと呼ばれるままでいい。環境に順応できる者が生き残る、昔どこかでそんな言葉を聞いたじゃないか。
それに、先ほどから話にちょいちょい出てくる「ハートの女王」にも会ってみたくなった。幼い頃、絵本やアニメ映画で見た『不思議の国のアリス』、そこに描かれていた女王と、自分の脳が作りだした女王の違いがどんなものか、純粋に興味を持った。
バラの庭から、バラのアーチをくぐり抜け、今度は百合の園を抜け、ラベンダー畑を横切った先に、大きな噴水が見えた。4人の天使が彫刻されている、凝ったデザインの噴水。チェシャ猫が「大天使さまたちなんだってさ」と言うのを聞き流しながら、回り込んで通り過ぎる。その奥に再びバラのアーチ道があり、ようやく辿り着いた。
「すごい……」
「ようこそ、我が女王の城へ」
まるで、1つの大きな山のようだった。石の城壁が幾重にも城を囲い、その中心にある建物からは尖った鉛筆のような屋根が、スッと伸びていた。一体どんな女王様なんだろう……鈴は踏み出す直前に、ふぅっと一息吐きだした。
一歩一歩、チェシャ猫の足取りと鈴の足取りは違った。彼ときたら、女王様にいいお土産でも持っていくみたいにご機嫌なステップを踏んでいる。鈴はというと、(やや今更だが)童話の展開を思い出して些か不安になりつつあった。
とりあえず怒らせないように振舞わなくては。口答えしない。無礼なことはしない。ゲートボールにでも誘われたら全力で女王に勝ちを譲る……。
長い廊下での考え事は、大きな扉の前で全て吹っ飛んだ。
「お前が自ら連れて来るとは、珍しいこともあるものよ」
「やだなぁ女王様、俺は導く者ですよ?」
扉越しに聞こえたのは、想像より若く妖艶な、二十代前半と思われる声だった。扉の向こうの人物は、チェシャ猫のよく分からない返答に「よう言うわ」と笑う。
「通せ。客人じゃ」
赤絨毯の柔らかさとは裏腹に、重苦しく響く扉の音。その木目が正面からズレていくのを少し目で追ってから、鈴は正面の玉座を見た。広間の窓から差す陽光が、一瞬目を眩ませる。その人物は足を組んだ状態で座り、右手にある絢爛な扇で口元を隠していた。
「よう来た、勇者アリス。妾は少々待ちくたびれたぞ」
波打つような長い金髪に、鈴は一瞬見とれた。赤を基調としたドレスがとてもよく似合っている。頭に乗る銀の王冠にはハートの装飾がなされており、彼女がハートの女王と呼ばれる所以はこれかと考えた。
「えっと……初めまして、女王様」
鈴はバッと頭を下げて、挨拶する。と、玉座の横に立っていた男性が、杖をついて鈴に近づいて来た。ちらりと見上げれば、白ひげを蓄えた彼の片眼鏡がキラリと光る。全身を覆う紺色の長いローブと太くて長い木の杖……魔法使いを想像するのに時間はかからなかった。
「本物、のようですな」
「それはここの庭でも実証済み、というより俺もこの目で見て割と驚いてるんですよ。そこにある魔力は強大なんてレベルじゃない」
「面をあげよ、アリス。そち、何処でそれを手に入れた」
「えっ、そ、それは……」
気がついたら付いてました、と正直に答えて信じてもらえるのだろうか。迷った。が、それ以外の返答――まして女王と魔法使いを相手に上手く誤魔化せるような嘘――など思いつかないのも事実。ここは夢の世界だ。仮に女王の機嫌を損ねて打ち首になったとしても、現実世界の自分は死なない。大丈夫だ。意を決して、鈴は口を開いた。
「私、別のトコから来て……気付いたら、これはもう私の首にかかってました。チェシャ猫に連れられてここまで来たんですけど、正直もう……何がなんだか分からないんです」
沈黙。
女王と、魔法使いと、チェシャ猫は、特別に驚いた様子もなく、ただ沈黙した。表情から何も読みとれない分、次の展開も読めない。その不安に呑みこまれそうになった鈴が、もう一度口を開こうとした、その時。
「紛れもない本物……伝説は、かようなまでに具現化するものなのか…」
「あれは伝説なのではなく、史実なのやもしれませぬな」
「へ?」
「遠路はるばるご苦労だった。アリス、今宵はここで休め。客室を用意させよう」
扇子で口元は隠れていても、女王が微笑んでいるのが分かった。魔法使いの視線にも、疑惑のような感情は見えない。チェシャ猫にいたっては、「良かったねアリスちゃん、この城に泊まれることなんて滅多にないよ」と、貴重度を訴えている。
「あ、あの! 私のこと、怪しまないんですか!? 何処から来たかもわからないし、服装だってこの国と合ってないし、それにこの石だって……気付いたら持ってたとか、怪しすぎるのに……」
「そち、打ち首にでもなりたいのか?」
「えっ!」
突如冷ややかな視線を向けた女王に、鈴は反射的に一歩下がって口を閉じた。
「用意はいつでも出来るぞ……のう、マーリン」
「少々お時間を頂ければ」
「あ……そ、そんな、打ち首って……」
やってしまった。機嫌を損ねてしまった。童話でもアニメ映画でも女王はアリスを打ち首にしようとしてた。その予備知識があったというのに、どうして余計なことを言ってしまったんだろう。激しい後悔の中、どう弁解しようか考え始めた鈴に、女王は再び微笑んだ。
「ふふ……冗談じゃ」
「……へ?」
「伝説の勇者を打ち首になどするわけがなかろう、妾はそこまで高慢ではないわ。ただ、そちの訴えが煩わしかったのでな……どうじゃ、そちを信用するという妾の言葉を、少しは信用する気になったか?」
「……あ、はい……」
全然冗談に聞こえなかったです、と言うのはやめておいた。マーリンと呼ばれた魔法使いも、同じようにクスクスと笑っている。貫禄ある大人が、そろって悪戯っ子のようだ。
「もっとも、そちの理解があまりに乏しいのも困る。マーリン、そろそろ夕餉じゃ。食卓にてアリスの質問に答えてやれ。その猫の口では分かるものも分からなくなるであろう」
「それって俺のことですか? ひどいなぁ、説明力自信あるのに」
チェシャ猫がわざとらしく口を尖らせるその横で、鈴は窓の外を確認した。女王の言った「そろそろ夕餉」という言葉の通り、日が傾いている。
一体この夢は、どうやって終わるのだろうか。現実世界で寝坊していることはないと思いながらも、久々に夢の中で長い時間を過ごしている感覚に、鈴はほんの少し緊張した。寝坊で遅刻なんてすれば、内申に少し響くかも知れない、と。