初問答(最悪)
地響き。聞いたことのある単語だが、どのようなものかは不明。そんな現象だった。
――鈴がその時、目を覚ますまでは。
ドドドドドドド……
「うるさ……」
目覚ましのアラームは、『聖者の行進』に設定してあるはず。勝手に変えられたとなれば、悪戯好きのお父さんが犯人の筆頭候補だ。ビール禁止令を出してやる……と報復の手法を決めてから目を開け、鈴は叫んだ。
「う、う、うわああああーーーーーっ!!!」
迫り来るのは巨大な群れ。角を振りながら走るサイ、サイ、サイ。動物園でしか見たことがないそれらは、動物園では見せてくれない獰猛さを全面に押し出して、鈴の方へと真っ直ぐに走って来る。
うつ伏せで寝ていた鈴は、あまりの光景に起きあがることもできず、無駄とは分かっていたが、それでもやはり悪あがきを兼ねて、その場でなるべく小さく丸まった。避難訓練で机の下に隠れる時よりも、もっと小さくなるように膝をたたんで頭を両手で庇う。けれどもうダメだ、多分潰される、踏み潰される。頭蓋骨が陥没する。私の人生は、ここで終わる――――……
ドドドドドドド……
まさしくそれは、奇跡だった。
走ってないのに息が切れている。「息が切れている」ということは、「息をしている」ということ、だ。生きている。かつてないほど心臓はバクバクしているが、どうやら生きている。試しに、丸めていた体を元に戻してみる。ちゃんと動く。サイの大群に真正面から突っ込まれたにも関わらず、頭蓋骨が陥没するどころか、鈴の体にはかすり傷一つ付いていなかった。
「生き、てる……」
心臓も呼吸もまだ落ち着かない。それでも鈴は、何故生きているのか考えた。もし、サイの大群(頭数×4本)の足が全て自分を踏み潰さないルートで通り過ぎたのだとしたら、それはものすごい確率だ。頭数がわからないから計算はできないが。
呼吸が落ち着いてきたので、仰向けになって深呼吸をしてみる。眠る直前と同じ、パジャマ代わりのジャージを着ている。真正面には青い空、両サイドにはたくさんの葉で覆われた木々の枝…………何故だろう、まるでジャングルのような光景。そう言えばサイって、あんなに多く野放しになっているわけがない。どうして私はここにいる? というかそもそもここは何処?
鈴の頭に浮かんだ数々の疑問は、一瞬にして1つの結論に集約された。
「あ、夢」
口にした途端、鼓動も呼吸も元の速さに落ち着き、鈴は「よっ」と起きあがる。とりあえず夢にしても、もうサイに踏み潰されそうになるのはごめんだ。木の陰に座り込み、空を見上げた。ジリジリと暑い太陽に、滲む汗。現実世界では冬なのに、随分とリアルな夢だ。もしかしたらストーブを消し忘れて、室内があったまり過ぎているのかも知れない。だとしたら起きなければ電気代がもったいないな……。
と、そこまで考えて、鈴は違和感を覚える。いつもなら、いつもの自分なら、夢だと気付いた瞬間に起きるのに。時々こんな「手強い」夢もあるが、何か違う。本能的に、鈴は立ちあがった。出口を探すパターンの夢だ、それなら辻褄が合う。とすれば、歩き出さなければならない。早く起きて、ストーブを消さないと暑くてしょうがない。しかし、問題があった。
「どっちに行けばいいの、これって……」
鈴の手元には、何一つヒントがなかった。自分で作った(はずの)夢なのに、自分に厳しすぎる。余程受験ストレスが脳を圧迫しているのだろうか。でもそれもあと三ヶ月。高校になっても勉強は続くけど、人生のかかった重みからは一瞬遠ざかるのだ。進むべき道が読めないなら、木の棒を倒して決めてしまおうか、そんな風に考えた、その時だった。
「お困りのようだね」
唐突に話しかけてきた自分以外の声に、鈴はぎょっとして後ろを向いた。が、誰もいない。いやいやいやいやあり得ない。否定しながらも背筋は凍り、ぶんぶんと頭を振る。と、その声は笑いながらもう一度呼びかけてきた。
「やだなぁ、そっちじゃないよ。上、上」
「上……えっ」
「やぁ、初めまして」
木の枝からストッと降り立ったその姿に、鈴は絶句した。身軽な少年、それだけの表現で完結させられたのなら、どれだけ良かっただろう。異性も羨む大きな瞳はトパーズのようで、モデルも羨む背の高さと、スタイルの良さ。笑顔になると見える、白くてきれいな歯。イケメンの部類だと即座に判断できたが、それを上回る衝撃が鈴を襲っていた。
「そ、それ……生えてるの?」
「気付いているのに答えさせるなんて、大変野暮な行為をありがとう。俺がもし寛大でなければ、はぐらかして立ち去ってしまうところだよ。お察しの通り、いやこの場合見ての通り、生えているさ。君の言う『それ』が、俺の耳と尻尾を指しているのならね」
三日月を想わせる白い歯が、逆に胡散臭さを醸し出す。耳としっぽが生えている少年だなんて随分と妙な存在を作りだしたものだ、と鈴は客観的に自分の脳を少し貶した。しかしこの妙な存在が、(恐らく)ゴールへと繋がるヒントであるというのも事実。不信感を全面に出しながらも、尋ねた。
「あなた、誰?」
「名前? 俺の? あっはははは! 信じられないなぁ、全くもって筋違い、図々しさの極みだ。この状況で名乗るべきは、君の方だろ?」
もう一度、鈴は自分の脳を貶した。何だこの捻くれ者に捻くれ者を掛け合わせたような存在は。普通に「君から名乗れ」でいいのに。言い回しが無性に神経を逆撫でする。ムッとした鈴は、思わず言い返す。
「名乗るべきって何よ。別にどっちからだっていいでしょ。先に聞いたもん勝ちよ」
「へぇ、どっちからでもいいんだ。そうなんだぁ、君って旅先で宿の主人に名前聞く部類の人間かい?」
「……は?」
どんな部類だ。意味が分からない。鈴の理解が及んでいないことを察したのか、彼はわざとらしく目を丸くする。
「あれっ、いい喩えだと思ったんだけど。つまりはさ、余所者が突然住民に名前を聞くなんてさ、普通じゃないだろってこと。引っ越ししてきたヤツだって最初はちゃーんと挨拶しに来て名乗ってくれる。お近づきのシルシと一緒にね」
よく舌の回る少年だ。半ば感心しつつ、鈴はやはりムッとした。確かに旅行先のホテルにチェックインする時は、まずこちらが名乗る。フロントの受付に名前を聞くなんて、変な人だ。それにしたって……
「わ、私が余所者だって言うけどっ……こ、これは私の夢だし、私は旅行に来たんじゃないし……」
「別に君がこの森に来た目的は聞いてないけど? 教えてくれるなら名前からにしてくれると有り難いなぁ。ほら、呼び方困るからさ」
「……私、余所者じゃない」
「まだ言う? 頑固だね。この森の名前すら知らないクセに」
森に名前があることに少し驚いたが、鈴はとにかく悔しかった。これは自分の夢であり、目の前にいる捻くれ者だって自分の脳が作った存在のはずなのに。口達者っぷりに腹が立つ。そして彼は、本当に鈴が名乗らない限り名乗るつもりも、ましてヒントを与えるつもりもないようだ。
「森の名前は……知らない」
「ほら、君が余所者って証拠だ」
どうしてこんなヤツが夢から覚めるヒントなのか。そもそも本当にヒントなのか。叶うなら、この瞬間に夢から覚めたい。苛立ったままでも、寝ざめが悪くても全然構わない。彼と話せば話すほど、悔しさや苛立ちでどうにかなってしまいそうだ。
しかし、目をギュッと瞑ってからまた開いても、景色は変わらなかった。大きく肩を落とし、口を尖らせる。せめてもの抵抗として、ぼそっと答えることにした。
その小さな抵抗を、鈴はこの先、幾度も後悔することとなる。
「……有澤」
フルネームなんて教えるもんか。斜め下に目線を固定して、極力小さな声で名乗った。だから、分からなかった。彼の表情が胡散臭い笑みでなくなったことも、その瞬間に彼が息を呑んだことも。
「本当に?」
「え?」
「本当に、本当なのかい?」
「な、何が……」
一歩、また一歩、彼は鈴に近づいた。その距離と態度の変化に戸惑った鈴は、反対に一歩ずつ後ろへ。
「な、何なのよっ……わ、私ちゃんと名乗ったからね! 早くそっちも名乗ったらどうなのっ?」
「そっか、そうなんだ。余所者である君が強気なのも納得だ、合点がいくよ。やっぱり伝説は本当だったんだ……来てくれたんだ、この時代にも」
「あの、一体何の話を……」
ヘリクツ理論でベラベラと鈴を追い詰めた彼が、途端に意味不明なことばかり言い始め、鈴の戸惑いも加速する。期待に溢れたトパーズ色の瞳に恐怖心を煽られ逃げだしそうになった鈴に、彼は突如深々と頭を下げた。
「キノコの森へようこそ。伝説の勇者・アリスちゃん」
「…………は?」
「そうだ、俺の名前を知りたがってたね。俺はチェシャ猫、この森を任されてるんだ。ここはハートの女王の管轄でね、色々なものが住んでる」
ああ、チェシャ猫なのか。彼が回りくどい物言いをする理由が分かったし、森の名前も教えてもらった。
が、新たに生じた疑問……むしろ異議申し立てがある。
「ちょっ、ちょっと待って、私……」
「世界はもう待ってはくれないよ。君という勇者を出迎えてしまったんだから。ああそれにしても本当に、序盤で出会えてよかった、ずっと待ってたんだ……君は、俺がこの世界に存在する理由でもあるから」
「存在する理由? 私が、あなたの?」
「そうさ」
向けられたのは、ニヤニヤという胡散臭い笑みではなかった。木々の間を駆け抜ける風のような、爽やかな微笑み。
「俺は、アリスを導く者だからね」