プロローグ ―夏休み―
懲りずにまだ続けます。
「鈴ちゃん、アリスって呼ばれたことない?」
「むぐっ……!」
サンドイッチのパンの欠片が喉の変なところに入った。全身でむせこんだ鈴に、慌てて近くの麦茶を差し出すこだま。
「ご、ごめんね! 変なこと言って……。大丈夫?」
「けほっ、けほっ……な、なんとか……」
ぺこっと頭を下げて麦茶を受け取り、ぐっと飲みほしてから深呼吸。肺に新しい空気を取り込めることをこんなに有難く思うなんて、滅多にないだろう。
あれからまた時は流れて、八月初旬。鈴の高校も夏休み真っただ中である。
今日は、絵本文化研究会の(唯一のまともな活動と言っても過言ではない)校外活動で、鈴は先輩のこだまと共に、電車で二駅のところにある保育施設に来ていた。目的は施設内の清掃などの手伝いと、絵本の読み聞かせ。二年の尾崎は私用で参加不可だとこだまが言っていた。
子供たちが昼寝の時間になったので、二人は支給された軽食(サンドイッチと麦茶)を食べて休憩を取っていたのだ。
「というか、どうして急に?」
冒頭の質問は、こだまが鈴に文字通り突然に投げかけたものである。(意図しない出来事とは言え)これまでに二度も別世界へ渡り、「勇者アリス」として扱われていた鈴にとっては、とんでもない質問だったのだが……やや高まっていた鈴の警戒心は全く無意味だった。
「だって、有澤鈴って名前、略すと『アリス』になるでしょ?」
この考え方が童話マニアかなぁ、と照れ笑いするこだまに、鈴は拍子抜けしてから笑い返した。
「そう、ですね……とりあえず、今までのあだ名には無いです」
呼ばれた経験があるかないかで聞かれれば、間違いなく「ある」のだが、(こちらの世界での)あだ名として付けられたことは「ない」ので、そう答えておく。
入会してから分かったことだが、絵本文化研究会の会長・藤堂こだまは、自他ともに認める「童話マニア」だった。アンデルセンやグリムはもちろん、『イソップ物語』や『千夜一夜物語』にまで興味を持ち、知識を深め続けている。絵に描いたような「物語オタク」という感じだ。(当然話すことはできないが)鈴が飛ばされたワンダーランドなんて、きっと彼女の大好物に違いない。鈴にしてみれば、この人が「勇者アリス」として向こうに行くべきなんじゃないか、とも思うぐらいだ。
「そっかー、残念。私が鈴ちゃんの幼馴染みとかだったら、絶対アリスって呼ぶのになぁ」
「変に目立ちませんか、横文字のあだ名なんて……」
「可愛いからいいの! むしろ最近は本名だって横文字っぽいの増えてきてるじゃない?」
「それはそうかも知れませんけど……」
鈴がお茶を濁したところで、ふと、保育園の近隣にある高校から、歓声が聞こえる。反射的にそちらを向いた鈴に、こだまは言った。
「ラッキーだったでしょ? たまーにこういうことあるんだよね」
「いつもじゃないんですね」
「当たり前。この保育園がたまたま高校の近くだったから、今回は私たちの交通費浮いたの。まぁその代わり、サッカー部が終わるまで帰れないけどねー」
「最後の点呼までってことですか?」
「うん。けどそれもラッキーじゃない? サッカー部の試合見れるんだからさ」
絵本文化研究会の読み聞かせ活動は、部活動の遠征試合と扱いが異なる。基本的に交通費は出ないし、引率もなし。一方で、当然部費などの年会費徴収もなく、諸々のかしこまった書類も不要。予算を取り合う必要もないので活動アピールもいらず、日々の放課後には好きな本を読むのみ。文化祭で研究発表ができればまずます、といったところだ。正式な部活ではない同好会ならではの緩さが、鈴にはちょうど良かった。
こだまの言う「ラッキー」とは、自己負担になる予定だった交通費が、サッカー部の遠征バスに同乗できたことで浮いた、という話である。もちろん読み聞かせボランティアの終了時間の方が早いのだが、サッカー部の試合を見て時間を潰していれば、帰りも乗せてもらえるらしい。
「運動部の人って、暑いのによくきびきび動けますよね」
「好きなことに没頭してると、ちょっとしたことって意識から抜けちゃうのよ。ほら、だから熱中症とかも起きたりするじゃない?」
「こだま先輩は、暑い部屋でも集中して本読んじゃいますか?」
「そうねぇ……やっぱり好みの本を読んでると、暑いとか寒いとかはあんまり気にならなくなるかなぁ。まぁでも汗かいたり喉渇いたりっていうのはさ、本能的に気付けるからまだマシ。それよりも時間が飛ぶように過ぎるの、私的にはそっちの方が困っちゃう」
「確かにそうですね」
夢中になると時間が過ぎるのがとても早く感じるのは、鈴にもよくある経験だ。昨晩も、早く寝ようと思っていたのに考え事をしていたせいで、遅くなってしまった。しかも結局疑問は解消せず、鈴は行きのバスの中でも人知れず悩み続ける羽目になった。だが、ある意味仕方のないことだろう。
「鈴ちゃん、サッカー好きなの?」
「えっ?」
「さっきからジーッと見てるから。午後も頑張って、早めに試合見に行こっか」
「あ、えっと……はい」
こだまには勿論、校内の誰にも、家族にさえも、鈴の悩みは打ち明けられるものではなかった。
絵本文化研究会に入会をしたあの日、部室棟からの帰り道。鈴は見知った顔とすれ違った気がした。その人は、練習を終えたサッカー部の集団の中にいて、他の部員と話しながら歩いていた。すれ違ったのは一瞬の出来事だったため、まさかと自分の目を疑い、見間違いだと思っていた。見間違いであればいいとさえ思いながら、帰路についた。
けれど、そうではないことが昨日の挨拶で判明し、今日の行きのバスで確定してしまった。
その人は、サッカー部の二年生レギュラーとして、こちらの世界に、この学校に、存在していた。鈴が忘れようとしても忘れられない人物――ワンダーランドで散々鈴を振り回したチェシャ猫と、瓜二つの顔をして。
***
正直なところ、他人の空似説が濃厚だ。地球上には自分と同じ顔の人間が三人いる、とかいう都市伝説だってよく聞く。地球上に三人もいるなら、異世界を合わせたら十人や二十人ぐらい同じ顔が存在したっておかしくないだろう。
頭ではそういう方向で処理しようとしているし、ワンダーランドで体験したことや出会った人を、無闇にこちらの世界とリンクさせたくないとも思っている。それでも鈴は、心の何処かで気にしてしまっていた。
「……ねぇ、ちょっと鈴? 鈴ってば!」
「あっ! えっ、何!? 何だっけ?」
「何だっけ、じゃないでしょ! もう。私の話ぜーんぜん聞いてなかったのバレバレ!」
「ご、ごめんって……」
大げさに顔をしかめてみせる莉紅を前に、鈴はそれまでしていた考え事の一切を頭の隅っこに追いやる。葉月はマイペースにズズーッとアイスミルクティーを啜った。
学校の近くの喫茶店にて、三人は学校帰りのティータイムを楽しんでいた。学校帰りというより、夏休み中の部活帰りと言った方が正確だろうか。指定の通学カバンを持っているのは鈴だけで、莉紅はクラリネットとミニショルダー、葉月にいたってはテニス部ジャージにエナメルのスポーツバッグで来ている。
そうだ、さっきまで鈴の入った同好会がどんな活動をしているのか聞かれてたような気がする。しかし緩い同好会には胸を張って紹介するような活動実績などなく、いつも本を読んでいるだけで、そう言えば先週末に読み聞かせをしに行ったんだけど……というところまで話したのだ。
「交通費浮くのは嬉しいよね。私も練習試合とか他校行くけど、遠いと片道600円近くだもん」
「私が気になったのはそこじゃないの! うちの花形、サッカー部と同じバスだったってトコ! もう、超うらやましいっ!」
「えーっ、むさ苦しそうじゃない?」
「だから鈴に聞いたのに! いつの間にかボーッとしててさぁ!」
ああ、そんな文脈だったのか……と、やや他人事のように感じながらも、鈴は「熱気が充満してる感じはなかったよ」と答える。
「てゆーか、うちのサッカー部って花形なの?」
「当たり前でしょ! 去年とか関東大会ベスト4! 公式戦には管楽も応援に行くんだって、先輩たちが言ってたもん」
「そうだったんだ……」
目を丸くした鈴に、葉月が「鈴は運動部の実績とか眼中になさそうだよね」と(あまりフォローになってなさそうな)フォローを入れる。
考えてみれば、こだまも「試合見れてラッキー」と言っていた。あれは、うちの高校のサッカー部はレベルが高いから、という意味だったようだ。
「それで!?」
「え?」
「え、じゃないよ! カッコイイ先輩いた!?」
瞳をキラキラさせながら前のめりで聞いてきた莉紅に対して、その瞬間、自分がどんな表情を返していたのか、鈴は自分で把握できなかった。ただ、パッと思い出されたのは、チェシャ猫にそっくりな先輩がいた、ということ。
いやいや、だからアレは間違いなく他人の空似だし、そもそもこっちの世界にいるはずないし、猫耳生えてなかったし、ってゆーかこっちで猫耳生やしてたら職質かけられるし、バスの中でも話さなかったし、気にしたって仕方ないことだから……
ぐるぐると頭の中に文字が回る。そんな鈴の意識を強制送還させたのは、のほほんとした葉月による鋭い指摘だった。
「あ。鈴が赤くなった」
「やっぱりいたんだー! 誰!? どんな人!? 何年生!? ポジションは!? 試合見たんでしょ!?」
「え、いや、別に、気になる人っていうのは、その……知り合いに似てるなぁって思っただけで……」
「知り合いのイケメン?」
「写メ! 写メ見して!」
「そんなの無いよ! だって、その知り合いも、違う国に住んでるし……」
嘘は言っていない。言っていないが……このままでは何かしらのぼろが出そうで、鈴は咄嗟に「今度練習見に行けばいいじゃん」と適当な提案をしてしまった。提案をしてから気付く。これでは、あの(チェシャ猫そっくりな)部員と接点が出来てしまう恐れがある。莉紅が「わざわざ見学行くのは面倒だなー」と返してくれることを期待したが、見事にアテは外れた。
「オッケー! じゃ、24日の登校日とかどう? 管楽部はミーティングだけで早上がりだよ」
「ホームルームの後、先生たち会議入ってるんじゃないのかなぁ? テニス部もその日は希望者のみ自主練だったぽいし」
「ま、待って待って。だったらサッカー部も自主練になるでしょ。見に行ったって、」
「花形運動部がそんな甘いこと言うワケないじゃん! てゆーかむしろ、そーゆー日に自主練する人こそ、ホンモノのサッカー男子でポイント高い!」
「なるほどー」
素直に納得する葉月の隣で、鈴は小さく溜息をついた。
***
夏休み終盤と言うのは、鈴だけでなく一般的な小中高生にとって、憂鬱に向かい始める時期だ。あと何日学校が休みなのか、数え始めてしまう。そうこうしているうちに夏課題の提出というビッグイベントを含んだ登校日がやってくるのだ。(鈴の個人的な感覚だと)残暑も相まって一年の内で最も憂鬱にされる時期と言えよう。
しかも今回はその登校日に、なんとサッカー部見学という望みもしないスケジュールが追加されてしまっている。あの部員がチェシャ猫と瓜二つだから何なんだ、どうでもいいじゃないか。毎日繰り返し言い聞かせては、溜め息をつく。もしも、もしも「あの部員」の仕草や発言に、見つけたくもない共通点を見つけてしまったら……――
「……バカみたい」
いよいよ明日に迫った登校日。寝返りを打っても打っても、眠りの世界に入れない。部屋は真っ暗なのに。こんなに目を固く閉じてるのに。呼吸するたびに肺が痒くて、脳が思考をやめてくれない。
共通点を見つけたら、どうやって振る舞おう。どうすれば違和感なくかわせるのか。いや、あり得ない。チェシャ猫のような捻くれた物言いや意地悪な性格では、サッカーなんて王道中の王道スポーツ……ましてチームワークなくしてこなせないスポーツをやるのに支障ありまくりだ。だからきっと、中身は似ても似つかない。顔が似てるだけ。同じ顔をしているだけ……。
「だと、いいな……」
目を閉じて、深呼吸。羊を数えなくたって、こんな風にゆっくりと呼吸すれば、そのうち眠れる。そして明日は、なるべく目立たないように……莉紅と葉月に隠れながら、こっそりと過ごそう。
自分を安心させるように暗示をかけながら、胸の奥のむず痒さも取れてきたのを感じ始めた鈴。ようやく脳も思考を手放してゆく。
―「貴女がいい……」
その美しい声が聞こえたのは夢か現実か……。ずるずると眠りの世界に引き込まれていく鈴にはもう、判別など出来なかった。




