(三種三様の)エピローグ
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アリスの世界へと通じるゲートが閉じた後も、チェシャ猫はその場所から足を動かせないでいた。キノコの森とは異なり、小鳥のさえずりが聞こえない地下森林。肌を撫でるように漂う生温い空気の中、ゲートの向こうへと消えて行ったアリスの「最後の問い」に、思いを馳せた。
―「私、帰っていいの?」
「…………いいワケないだろ」
マーリンが言うところの「呪い」を受けた身で、まともに伝えられることなんて、何一つなかった。
実際、自分が推測した限りのことをアリスに話そうとした瞬間に、喉を中心に内側から裂かれるような痛みが湧いたのだ。こうなってはもう、疑いようがない。が、絶望的なことに、何故そんな痛みを伴うような「呪い」の対象になったのか……チェシャ猫の頭の中にヒントになりそうな記憶など欠片も残っていなかった。
―「お前は、その捻くれまみれの減らず口で、勇者を導け」
あれは、誰の声だっけ。とても厳かで、逆らっちゃマズい人だった気がする。けど、どうしてか何がなんでも従いたくなくて、反抗心でいっぱいだったような感覚が、心の奥深くに残っている。
結果的に2回も勇者アリスと行動を共にし、サポートしてきたのだが、果たしてそれは「呪い」を受けた当時の自分の意志に沿っているのだろうか。
「……“君がいないと退屈で仕方ないんだ”」
せめて、この一言だけでも言えたのなら。
「“俺を助けると思って、もう少しこっちで遊んでなよ”」
この程度の冗談すら、目の前で口にできないなんて。けれどきっと、冗談混じりじゃ伝わらない。だからもっと、もっと分かりやすい、そのままの言葉で……
「…………“君と、もっと、一緒にいたかった”」
口にして数秒、チェシャ猫は自嘲の笑みをこぼした。あらゆる言葉を並べたところで、相手に届かなければ意味がない。届かせたい相手の居場所を知らず、そこへ行く術も持たない自分では、伝えたいことの全てをしまいこんでおくしか出来ない。
「またね」
直接言えば、アリスを困らせるであろう言葉を落とし、チェシャ猫はその場を後にした。ジャックの創った魔法の車が微弱に放つ魔力を手掛かりに、マーリンの隠居庵へ向かって。
***
エメラルドシティの中央公園、大きくブランコをこぐ少女が一人。
「次は何処に行こうかなぁ」
ボブショートの金髪が、風圧によって前に後ろにかわるがわるなびく。
公園には、人っ子一人いなかった。それもそのはず、大臣オズを慕う住民は皆、揃ってオズの屋敷前に集まっているのだ。そこで、化け物の姿となってノザンから送還されたオズと、ノザンで起きた一部始終を記したジャックの告発文を目の当たりにして、対応せざるを得なくなった。
新しい統率者として誰が相応しいのか、候補者の募り方から、選出方法の制定から、統率者に委託する行政の範囲などなど。住民の多くにとって、これまで考えたことのない議題ばかりであったため、混乱は免れなかった。
同時に、オズがこれまで住民には公開していなかった技術や知識も、屋敷の外へ出されることとなった。ただし、騒動のきっかけとなった不老不死に関する研究および人造人間に関わる技術については、資料の一切をあらかじめジャックが処分したため、日の目を浴びずに歴史から消えていった。
「次に行きたいところがあるのかい?」
「別に? でももう、ココには用は無いかな。街の人達みーんなに、わかってもらえたから」
隣のブランコに大人しく座るのは、絹のように真っ白な髪を持つ少年。前後移動する少女の姿を追いながら、自分は微動だにせず、「そうか」と返す。
「ところでさぁ、いつの間にか色々変わっちゃってない?」
「色々?」
「例えばねー……あの壁の王国とか。まぁ、別にいいんだけど」
「僕には、よく分からない」
「あっそ」
ブランコからぴょいっと飛び降りた少女は、銀の懐中時計を開き、少年に手を差し伸べた。
「さぁ、もっとたくさんの人に教えに行かなくちゃ」
「……そうだね」
白い髪の少年がその手を取った次の瞬間、二人の姿は煙のように霞み、あたかも初めから存在していなかったかのように、消えてしまった。残されたブランコだけが、ギィギィと怪しげな音を立てて。
***
放課後、四つ折りにした一枚の紙を持って、部室棟へと足を運ぶ。心がざわつくのは、期待からか、不安からか、緊張からか。先日案内された部室の前で止まり、深呼吸と一つ。
コンコン、
「はーい」
内開きのドアを引いて顔を見せた彼女は、ほわっと温かい笑顔を向けた。
「有澤さん! 来てくれてありがとう」
「あの、藤堂先輩……これ、お願いします」
鈴が差し出した四つ折りの紙を受け取って、開くこだま。すると今度は目を丸くして、「本当に?」と鈴を見上げた。ゆっくりと頷いてから、鈴は深くお辞儀する。
「入会させてください」
決め手は何かと問われれば、実に答えづらい。実在するかどうか確かめようのない世界の、捻くれ者が発した「呪い」という単語について考えたくなった……そんなところだ。
もしも、何らかの因果によって自分が「あの世界」への干渉権を与えられているのなら。仮に、もう一度「あの世界」へ飛ばされる事態に陥ることがあったなら。……否、単純に鈴は「考えたい」だけだった。『不思議の国のアリス』に出てくる「チェシャ猫」について。「あの世界」で出会ったたくさんの人物が登場する物語について、知りたくなったのだ。
「この同好会で、研究をしたくなったんです」
「もちろんオッケーよ! 絵本や童話の冊数なら、図書室より上だしね」
大喜びしながら鈴の手を取るこだまに、鈴も「宜しくお願いします」と笑顔を返した。
絵本文化研究会の部室は、元々運動部の用具収納場所だったらしい。そのため、部屋の横幅はあまりなく、更にそんな部屋の両サイドに本棚が壁を覆うように配置されているため、圧迫感を絵に描いたような内装だった。その真ん中に、長机が一つと椅子が三つ。まさに本を読み続けるにはうってつけの空間となっている。
「長机の下にカゴがあるから、鞄は床に置きたくなかったらその中に入れてね。あと、ここはアナログだから、本を持って帰りたい時は、この代本板で目印に」
「木の板、ですか? 初めて見ました……」
「でしょ? 私も」
どうやら、本を片づける場所が分からなくならないように、木の板を代わりに入れておくらしい。なるほど、と思いながら本棚を見渡していると、代本板が差しこまれている所を見つけた。
「あんな感じですか?」
「そうそう、あれは尾崎君っていう2年生の。うちは有澤さん含めて、メンバー三人なんだ」
「そうなんですか」
「滅多に来ないけど、会えた時に挨拶すればいいからね」
「はい」
その日、鈴は改めて『不思議の国のアリス』を読み直してみた。チェシャ猫だけでなく、マーチ・ヘアやマッド・ハッター、ハートの女王にトランプ兵など、「あの世界」に生きていた人物たちが登場していたが、やはり物語の中での彼らは、アリスが出会った彼らと全く異なっていた。
それに、「あの世界」で出会ってない登場人物もたくさんいる。相違点に考えを巡らせながらじっくりと読み進めているうちに、時間は飛ぶように過ぎていた。
完全下校時刻の10分前のチャイムが鳴り、鈴はハッと時計を確認する。代本板をカバンにしまい、本は元あった所に戻した。
「私は部室のカギを職員室に戻さなくちゃいけないから、有澤さんは先に帰っていいよ」
「分かりました。えっと、お先に失礼します」
「うん、またね」
部室棟前でこだまと別れ、正門に向かう鈴。今後の読書プランについて考えてみる。とりあえず次は『鏡の国のアリス』を読んで、その後はやっぱり『アーサー王伝説』をおさえておくのが妥当だろうか。
「なぁなぁ、前の学校でもサッカーやってたのか?」
「そっすね、一応小学1年の時から」
「だよなー……やっぱ小4から始めちゃ遅いよなぁ」
「んなことねーよ! 俺だってなぁ……」
進行方向からやって来る男子の団体の会話が耳に入り、鈴はいったん思考を止めた。どうやら、練習あがりのサッカー部が部室棟に戻る途中のようだ。運動部は遅くまで大変だな、とありふれた感想を抱きながら、交差しないように進路をずらしつつ歩みを進める。
学校名が入ったオリジナルTシャツを着てる部員もいるんだ……生徒がデザインするのかなぁと、ぼんやり視界から入る情報を流していた鈴。だが、サッカー部員たちと一通りすれ違い終わった瞬間、背中につけられた紐がピンと張られたかのように足を止めた。
今、自分は何を見た? どうして急に足が止まった? 違和感が走る。けれど何処にも違和感の正体が見つからない。ぼんやり見ていたのはサッカー部のTシャツと、それぞれに汚れたスパイクと、背がまちまちな十数人の男子生徒の顔……。
そうだ、その中に、見えた気がしたんだ。散々鈴を振り回した、あの顔が。
「…………な、ワケないか」
自分で把握しているよりもだいぶ引きずってるのかも知れない。忘れようとは思わないけど、あくまで物語の中の住人なんだって、そう思えるようになりたい。
黄昏時を少し超え、紺色の夜がにじり寄る。やたら長い自分の影を連れて、鈴は家へと歩みを再開させた。
― おわり ―
『Mechanical Heart』はこれで終了です。
読破ありがとうございました!




