終わらせた冒険 ―プレ・エピローグ―
彼の腕の中、少し息苦しさを感じながらぼんやりと思う。こんなに謝ってくるのも、珍しい。もしかして、アリスが車内で寝ている間に、どこかで拾った変なお菓子でも食べてしまったんじゃないか。
「さっき、君の世界へのゲートが出たのを感知した。だから、そこに連れてく前に……言いたかった、どうしても」
緊張と、さっきの怒りと、混乱とで、クラクラする。今、ゲート出てるって言った? もしかして、もう帰ろうと思えばすぐに帰れるってこと?
問い返そうと顔を上げたくても、チェシャ猫がグッとアリスの頭部を固定して放さない。
「アリスちゃんを混乱させてるのだって、分かってる。けど俺は、どうやらこうしなくちゃ……」
「チェシャ……?」
ついさっき、本当にほんの数十秒前までは、あべこべな言動でからかってくるチェシャ猫のことなんて分かりたくないと思っていた。話なんて聞く余地はないと思っていた。けれど、アリスの性分なのだろう。気付けば「意味」だの「因果」だの、推測の範疇を超えることができないあれこれについて、ぐるぐると考えている。
そしてその考察は、チェシャ猫による次の一言で、収束した。
「ごめんね。コレは……『呪い』なんだ」
直後、チェシャ猫の身体が大きくのけぞり、彼は悲痛な叫びをあげた。
「うぐっ……あ、あああああああ!!!」
「チェシャ……チェシャ!!」
腕の力が弱くなったことで、アリスは咄嗟に顔を上げる。だが、そのまま息を呑むことしかできなかった。
叫んだチェシャ猫の喉元を中心に、青い(というより正確には薄紫の)痣が広がっていく。まるで、打撲した時の内出血が自発的に引き起こされているようだ。
「や、やだ……何で、こんな、」
「あああ、ああああ!!!」
叫びは恐らく、痛みからのもの。そこまで分かっているのに、アリスは痛みに苦しむチェシャ猫に対して何もすることができなかった。
そして十数秒の後、彼は抜け殻になったかのごとく膝から崩れ落ち、そのまま蹲った。
「……アリスちゃん、早く……ゲートに……」
小さい痛みが続いているらしく、途切れ途切れの言葉は苦痛を含んでいた。
「だめ……そんな、放っとけるワケ、」
「いつ閉じるか……わからない、だろ……」
「でも!」
「俺は……、大丈夫」
蹲った状態で大きく息を吸って吐いてから、伏せていた顔を上げるチェシャ猫。首元を中心に顎のあたりまで無数の青痣ができていたが、先程までと違ってそれ以上増えていく様子はなかった。
「大丈夫だから、行こう」
「チェシャ……その、首の周りの痣は……」
「痣? ああ、自分じゃよく見えないけど、今のってそーゆー感じの……。うん、もう別に痛くも痒くもないから平気さ」
何だったのだろう。突然痛がって、蹲るほどひどく苦しんでいたのに、また突然平気だと言い出すなんて。直前までのあべこべな態度や物言いも含めて、(考えてみれば出会った当初からそうだったのだが)アリスには最早チェシャ猫のどの言動が「本物」なのか、掴めない。
行こう、と言ったチェシャ猫は、何事もなかったかのようにアリスの手を引いて歩く。前回と同じように、この世界とアリスが元いた世界を繋ぐゲートの場所を完全に把握しているようだ。真直ぐなその歩みには、一切の迷いがない。立ち止まることも、躓くことも無い。アリスにとっては似た景色が延々と広がる地下森林の根の森の中、ある一点を目指して歩みを進めるチェシャ猫の背を、ぼんやりと見つめながら、ただ足を動かす。
先程の一件で出てきた痣は、首の後ろにも広がっていて、服の上からでは分からないが、背中にも続いているようだった。どうして急に痛がって、どうして急に痛みが止まったのか……不可解な彼の言動の理由を考え始めたアリスは、ふと、車内で見ていた夢を、そこで聞いた単語を思い出す。呪い、我が伴、時計……何かが紐解けたワケではないが、何かが繋がった気がした。
しかし、アリスの思考はそこで中断させられてしまう。
「着いた、ほら」
「あ、ホントだ……前と同じ」
見覚えのある、直径2メートルほどの光の渦。チェシャ猫の耳の魔力レーダーは、この渦は発する強大な魔力をキャッチしていたのだ。
「前に出てたやつと魔力量も魔力の雰囲気もかなり近い。同一の魔力保持者が生成したんだろうね」
「これって、誰かが創ってるの?」
「さぁ? 俺に聞かれても。逆にアリスちゃんは、コレが自然発生すると思うのかい?」
「それは……そうじゃないと思うけど」
銀色の光の渦で出来ているような、先の見えないゲート。アリスが元いた世界に繋がっている物でほぼ間違いないのだろうが、不安は拭えない。
「チェシャ、あの……」
「躊躇うのも分かるけどさ、何ならまた俺が押してあげようか?」
「違くて!」
心の中のもやもやが、目の前にある光の渦と共鳴している。前回と違って、今回は何らかの問題を解決へと導いた実感がまるでない。それ以上に、この世界においての気がかりなことが山ほどある。オズのこと、伯爵のこと、シグナスのこと、そして……チェシャ猫のこと。
「……私、帰っていいの?」
絞り出した質問。根の森独特の生温かい風が、アリスの耳たぶをくすぐっていく。トパーズ色の瞳が僅かに大きくなってから、いつもの意地悪な眼差しが返された。
「君は俺に、どんな答えを望んでるんだい?」
唇を噛みしめる代わりに、ワンピースの端をキュッと握った。
どんな答えを望んでいるかなんて、考えちゃけないことだ。チェシャ猫に聞きたいことが山ほどある。しかしその質問を全てぶつける時間の余裕などきっと無く、仮にぶつけたとしても全ての答えが得られるわけでも、消化できるわけでもないのだろう。
迷い悩むアリスに、状況は追い打ちをかけてくる。
「アリスちゃん、ゲートが……」
「え?」
光の渦のようなゲートは、徐々に収縮してきていた。時間がない。……悔しい。自分はまだ、ここに留まるための覚悟をし切れていなかったんだ。元の世界に残してきた色々なものを、そのまま残しておく覚悟なんて、今のアリスは持ち合わせていない。
「……チェシャ! さっきの無し!」
目の前の彼の両手を、包み込むように握る。そちらの態度があべこべなら、こちらは最後の最後くらい、ど直球でぶつけてやる。
「私、チェシャが大好きだった! 元気でね!」
相手の瞳が見開かれる、その前に。捻くれ者の返答を聞かされる、その前に。この手を掴み返されてしまう、その前に。自分から、後ろに跳んで身を投げた。
「バイバイ!」
眩い光で視界がきかなくなる直前、素直に驚いているチェシャ猫の表情があって、アリスは少し……ほんの少しだけ、満足感のようなものを味わった。
ぼすんっ、
お尻から落ちた先で、パッと目を開ける。勉強机と、本棚と、洋服ダンス。見慣れた壁紙と、カーテン。外の世界は夜らしい。自分の格好を見てみれば、水色のワンピースではなく高校の制服。
ああ、そっか。ちゃんと戻って来れたんだ。ということは、あの世界での役割は果たし終わったってことで……――
「ちょっと鈴! まだ着替え終わらないの? 冷めちゃうわよー」
「あっ、はーい! 今行く!」
唐突に階下から響いてきた母の声に、ベッドから跳ねるように立ち、ぱぱっと部屋着に袖を通した。部屋のドアを開けると、ソースの香りが嗅覚と食欲を刺激してくる。
「またぼーっと考え事してたんでしょ」
「まぁ、うん、そんなとこ」
母の鋭い推察に苦笑を返してから、勇者アリスこと有澤鈴は、「いただきます」とヒレカツを一口頬張った。




