ヴァン・ヘルシング卿 ―王宮専属医―
気分は最悪だった。
「アリスさん、包帯替えに来ました」
「ありがとうございます……」
ヴァンは何も悪くないのに、態度が悪くなってしまいそうだ。他の人への八つ当たりなんてみっともないことはしたくない…そんなプライドが働き、かろうじて平常運転に近づけた応対をする。
「暴れないようにって言ったのに……まぁ猫さんの方に大きな非があったようですけど」
「……そうです」
ぼそっと答えるアリスに、ヴァンは仕方なさそうに笑う。「あれでもアリスさんの意識が戻らない間は結構心配してたんですよ」と。だとしても、だ。仮に、泣きまくっていた目の前の女子を慰めるための軽いジョークだったとしても、だ。
「振り回されてばかりで……情けないだけ、です」
人を惑わせる存在だということは、色んな人から聞かされてきたというのに、その言動を直に受け取り不意を突かれてつけこまれ、ドキドキしてしまったことが、悔しかった。
「今日はいい天気ですね、見事な秋晴れだ」
ヴァンがカーテンを開け、病室内に陽が差す。
お母さんと恵太と、たまにお父さんも一緒になる、そんな朝食の時間を懐かしく思った。ああ、帰りたい――……ゆっくりと瞬きをしてみるが、広がる光景は変わらない。
「あの、ヴァンさん」
「どうしました?」
慣れた手つきでアリスの包帯をほどき、薬を塗り、適度な大きさのガーゼをかぶせて包帯を巻き直す。その過程でヴァンは、目線を一瞬だけアリスと合わせた。
「王宮内にいたあの魔法使いって、誰だったんですか? 捕まってはいないんですよね……?」
「残念ながらそうですね。けど正体は分かってます、マルーシカという少女です。あの杖は少し特殊な魔法具でしてね、十二の月の精霊たちに愛された者しか使えないとか」
「所有者を選ぶ魔法具なんですか」
「そういうことです」
「それと私、すっかり忘れてたんですけど、あの吹雪を一瞬で消した光の矢って、誰が……」
「もちろん、陛下ですよ」
「えっ! アーサー王様って、魔法使えるんですか!?」
「正しくは、魔力を蓄えた矢を放ったんですけどね。陛下は常に聖剣を携えてますが、どちらかと言えば弓の方が得意なんじゃないでしょうか。以前はよく狩りにも出かけてましたし」
「そうだったんですか…」
「『別にいい』そうですよ」
「へ?」
「このことを知ればアリスさんはお礼を言いたがるだろうからって、陛下が」
終わりました、と笑顔を向けるヴァンに、アリスは一礼する。同時に、アーサー王が間違いなく聡明であることを実感した。自分は無愛想で考えを読ませないのに、こちらのことはお見通しだなんて……やっぱり一国の主は違うな、と尊敬の念も起こる。
と、その時。
く~っ
響いたのは、空気を読まない腹の虫の鳴き声だった。
「……あ、えっと、今のはそのっ……」
「ぷっ…あははは、そうですよね、考えてみれば昨日の夜から何も召し上がってなかった」
真っ赤になって弁解しようとするアリスに、「すぐお持ちしますね」と席を外すヴァン。
ドアが閉まると同時に、今度はきゅるると虫が鳴く。そんなに主張しなくたっていいのに。気分的には別にそこまで空腹じゃないのに。包帯ぐるぐる巻きにされた両手で顔を覆うこともできないまま、一人悶々と恥ずかしさを消化していくことしかできなかった。
ヴァンが持って来てくれたのは、野菜たっぷりリゾットだった。漂ってくる香りが、ほぼなかったはずの食欲を次第に増長させていく。
が、ふとアリスは自分の両手がスプーンを握れない状態であることに気付いた。
「すみませんヴァンさん、折角さっき巻き直してもらったところなんですが…」
「ああ、ご安心を。お手伝いしますんで」
「お手伝いって……」
ベッドの下にあるレバーをヴァンがくるくると回すと、自動的にアリスの上体が起こされる。膝の部分も軽く曲げられ、まるで介護用のベッドみたいだ。「よく出来てるでしょう」と微笑んだヴァンは、リゾットが置かれたテーブルを持って来て、傍に置いた椅子に座った。
「ま、足を折ったごつい兵士ならスープを点滴に入れちゃえばいい話なんですけどね、アリスさんは大事な勇者さんですから」
「スープを点滴に!?」
「ふふっ、冗談ですよ。はい、口開けて」
「え?」
突然指示され、改めて状況を整理する。ベッドの傍にリゾットが置かれたテーブル。そして椅子に座ったヴァン。その手にはリゾットが乗ったスプーン……
口を開けろとは、つまり、つまり……
「な、何でそんなっ……はむっ」
「また暴れた。ダメって言ったでしょう、食べるときぐらい大人しくしてくださいって」
抗議をしようと開いた口に、するりとスプーンが入れられる。暴れる患者の相手をするのに慣れているようで、余裕な笑みは崩れない。
「おいしいですか?」
食べさせてもらうなんて、長らく経験していなかった。多分、小学生の頃にインフルエンザにかかって意識朦朧としていた時ぐらいなんじゃないだろうか。あの時だって水くらいはストローで飲めたし、それに、食べさせてくれたのはお母さんで……。
驚きと混乱の連続で味わうことを忘れていたアリスだが、ヴァンの問いかけをきっかけに神経が味覚に引っ張られた。
熱すぎないように作ってくれたらしい。野菜はみじん切りになっている。ふわっと香るのはオニオンか、ペッパーか……
「……おいしい、です」
もう一口欲しい、それが正直な感想だった。けれどもう一口と望めば、自動的にまた食べさせてもらうことになってしまう。そんな、無駄にイチャつこうとする恋人みたいなこと、恥ずかしすぎる。葛藤を重ねて口をぎゅうっと噤むアリスを見て、ヴァンは再び笑う。
「あははっ、そんなに困った顔しないでください。患者さんを介抱するのが私の仕事ですよ? 気にせず頼ってくれればいい。ついでに言っておくと、コレ作ったのは給仕長ですがレシピ考えたのは私です。お口に合えばいいな、って思うんですけど…どうです?」
感想を期待するヴァンの目を前に、アリスは諦めた。人間は(とりわけ空腹状態において)おいしいものの誘惑には逆らえない。
「食べたいです、あの……お手数かけます」
「良かった、どうぞ遠慮なさらず」
無理な話だ。大人の男の人にリゾットを食べさせてもらうのに、遠慮なく口を大きく開けるなんて、みっともなくて恥ずかしい。まだ箸も持てない幼稚園児などではないし、好き嫌いして選り分けないと食べられない小学生でもない。
しかし……ヴァンが当然のように職務をこなす「町のお医者さん」に見えてきたせいか、躊躇する必要などないようにも思えてきた。
正直言えば、包帯を一度取ってもらってでも自分で食べたい。が、それは彼の仕事を増やすだけなのだ。となればもう、仕方ない。お腹が空いている自分のために、ヴァンの仕事を滞りなく終わらせるために、口を開けよう。
はむっ、と差し出されたスプーンを口に含み(正確にはヴァンがスプーンを動かしてくれたのだが)、リゾットを味わう。
…おいしい。昨日の夜から何も食べていなかったアリスにとっては、温かいリゾットが極上のご馳走だった。飲みこめば、胃が「もっと食べたい」と脳に要求し、口を開けるよう指示を出させる。そんなアリスの身体信号よりも早く、ヴァンは再度スプーンを差し出す。喉の動きを見ているのだろうとアリスは思った。
初めの方こそ葛藤があったものの、完食までにさほど時間はかからなかった。「ちゃんと食べれたんで、きっと早く良くなりますよ」とヴァンが微笑んでくれたのが嬉しくて、アリスは「はいっ」と小学生じみた素直で大きな返事をしてしまった。