安堵(油断)大敵
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リンゴの香りが鼻腔をくすぐる。
おかしいな、もう秋だっけ。私、受験はどうなったのかな、もしかしてタイムマシンで戻っちゃった……? だったらもう少し前に戻って欲しかったな、まだ完璧に仕上がってない単元、ちょくちょくあるから……
藍色の瞳が、安堵に染まった。
「おはようございます、アリスさん」
「ヴァン、さん……?」
「一先ず絶対安静です、王宮専属医命令なので遵守してください。手足には凍傷が表れていますが、応急処置は済ませたので二週間もあれば完治するでしょう」
ぼうっとする頭でヴァンの話を反芻していると、その横に朽葉色の髪が現れる。
「すまない」
「アーサー王、様……」
「勇者の面がわれている場合を想定し、王宮内の警護を万全にすべきだった……こちらの落ち度だ」
「そ、そんな、頭上げてくださ……いつっ、」
深々と謝罪するアーサー王に対し自分も起きあがろうとした瞬間、四肢に痛みが走る。包帯が何重にも巻かれ自分の力ではピクリとも動かせない(ようになっている)ことが分かった。
「だから言ったじゃないですか、絶対安静! 忘れるの早すぎます」
「す、すみません……でも、」
「そのままで良い、聞いてくれ」
アーサー王の右手が、包帯越しにアリスの右手に重なる。
「我が王宮に招いておきながら危険な目に遭わせてしまい、本当に申し訳ない。命に別状なかったことが何よりの救いだ。ロゼにも顔向けできなくなるところだった……若い娘一人守れず、国王など名乗れまい」
包帯越しに伝わる手の温度が、優しくてくすぐったい。不意を突くように纏われる、童話の王子様を想わせる雰囲気。威厳がないのではなく、それを上回る温かさ。顔が熱い。
「早い回復を祈っている」
「ありがとう、ございます……」
手が動かないため布団をかぶることも出来ず、アリスは逸らせるだけ顔を逸らした。
「ヴァン、彼らを呼ぶが、いいか」
「そうですね、アリスさんも目を覚ましたことですし」
「彼ら……?」
疑問符を浮かべるアリスの目に飛び込んできたのは、アーサー王と入れ替わりに入って来た顔見知りだった。
「あ……」
「やぁ、元気かい? アリスちゃん」
「刺客に遭ったそうだが、無事で何よりだ」
「チェシャ……マーチさん……」
街中で別れてから一日も経っていないはずなのに、今度は目が熱くなる。
ダメだ、堪えるんだ、必死に言い聞かせながら、アリスは口を開く。
「わ、私、ここの書庫で交戦記を読んで……マッド・ハッターさんの記録、いくつか見つけたんです。二年前から、ちらほらあって……」
「……了解した。僕も確認しよう。君はゆっくり休んでいてくれ」
「はい……」
マーチ・ヘアがヴァンに「適切な処置、感謝する」と頭を下げる。ヴァンは、「本職ですし」と笑顔でこたえ、地下の書庫に案内すべく共に退室した。
「猫さん、アリスさんが暴れないように見ててください」
「はーい了解」
「あ、暴れませんってば……」
扉が閉まったため、反論を聞き取ってもらえたかは微妙なところだった。
というより、本当はチェシャ猫にも退室して欲しかったのに……と、アリスは再び逸らせるだけ顔を逸らす。四肢が包帯でぐるぐる巻きになっているため、動きがかなり制限されるのだ。
とは言え、沈黙は沈黙で気まずい。適当な会話でやり過ごそうと、ありきたりな会話のスタートを切る。
「今、何時なの」
「夜の十一時。ごめんね、こっち着くの遅くなってさ」
「別に、大丈夫。勝手に店出たの、私だし」
「けど俺達が離れて、怖い思いさせた」
顔を逸らしているのが逆に不利になっていることに気付く。チェシャ猫の表情が見えないせいで、その言葉の真意が推測できない。情報が足りない。
けれど布団をかぶることもできない自分の表情は、相手に見られているのだ。きっともう、バレているのだろう。
「アリスちゃんは、下手だね」
不意に覆われた視界。アリスの目元にかぶせられる、チェシャ猫の掌。
「な、何のつもり」
「もう誰もいないよ」
「……チェシャが、いるでしょ」
「うん、俺しかいないから。もう、我慢しなくていいハズだよ」
「意味、わかんない……」
声が上ずっている。もう、ダメだ。これ以上は、無理だ。内側から呼吸が乱れてく、大嫌いな感覚が襲ってくる。まだ、チェシャがいるのに。
熱い雫が、自分の鼻を伝っていく。もう一筋は、そのままベッドに滲みていく。極力、情けない声は出さないようにと堪える。
「チェシャ……、」
「ん?」
「この、布団……顔まで、かぶせて」
本当は潜ってしまいたい。こんな姿は、こんな顔は、自分の中だけで収めてしまいたい。そう考えて捻りだした頼みを、チェシャ猫は思いきり無視した。
肩に回される彼の手。突如勢いよく起き上がらされ、頭がくらくらして状況把握が遅れた。
「はい、これでいい?」
「なっ……何して」
「布団かぶるより防音効果あるだろ、保温効果もあるし」
「は、放してっ」
「見せたくないんじゃないのかい、泣き顔」
その言葉が呪文のように、アリスの動きを止める。確かに防音効果抜群かつ、温かい。
けれど、「チェシャ猫」という名前であるとは言え、耳としっぽが生えているとは言え、年上男性っぽい人物に抱きしめられるのは、やはり恥ずかしい上に緊張する。
「俺か軍司サマ、せめてどっちかは傍にいるべきだったよね。反省したんだ。だからもう……君を一人にしないよ」
そんな言葉、少女漫画の世界だけでしか使われないと思っていた。冒険ファンタジーもので使ってくるなんて、こっちが弱っているときの不意打ちなんて、卑怯すぎる。
「……か」
ぽんぽんと背中を優しく叩くのも、髪を梳くように撫でる指も、普段のチェシャ猫じゃないみたいで、どう反応したらいいのか分からない。皮肉屋系男子の見せるギャップに、ついて行けない。
「チェシャの、ばかっ……」
卑怯だ、ズルい、胡散臭い、騙されたくない、本当は泣いてる姿を見て面白がってるかも知れない……そう思うのに、温かくて優しいから、甘えたくなってしまう。
そんな気の緩みを跳ねのけるためにも、繰り返す。
「……ほんとに、ばかっ……ばか……」
「ひどいなぁ、こっちだって結構頑張ってたのに。……でも、アリスちゃんを危険な目に遭わせたら意味ないか、ごめんね」
「だからっ……大丈夫って、」
「大丈夫じゃない」
右頬に添えられたチェシャ猫の左手を、大きく感じた。心臓が跳ねるのと同時に、涙が引っ込む。
トパーズ色の瞳が見えるということは、情けない泣き顔が見られているということだろう。ただ、そんなことよりも、見たことのない彼の表情に、雰囲気に、アリスは言葉を失う。
「……こんなにたくさん泣いてるのに、大丈夫なわけないだろ」
そう言えば、イケメンの部類に入るんだと再認識した。再認識した途端、今度は顔の熱が上がる。
「アリスちゃん、今晩は俺、ずっと一緒にいるから」
「えっ……?」
どうしようもなく上がっていく熱は、多分、チェシャ猫の掌にも伝わってしまっているだろう。その証拠に、彼が浮かべる微笑。
「真っ赤な顔……熟れたリンゴみたいで、美味しそうだ」
「ちょ、ちょっとチェシャ……」
四肢が動かせないせいで、抵抗ができない。縮められる距離に対して、何一つ対処ができない。細められる瞳が何を思っているのか、全く読めない。ひたすらうるさくなる鼓動を制御することもできず、アリスはぎゅっと目を閉じた。
「……なーんてね、どう? ちょっとは元気出た?」
顔が熱くなるのと同時に、「頭の血管が切れそうになる感覚」というものを、初めてしっかりと理解した。
「なっ……チェシャのっ……バカーっ!!」
ニヤニヤと愉しそうな笑みが許せなくて、現在振り絞れる最大火力の頭突きを、その胸部に食らわせてやった。
「いっ……! アリスちゃん暴れちゃダメだってお医者サマから言われて」
「出てって! 今すぐ出てって! 即行出てって! ホントに出てって! さっさと出てって! もう来ないでバカ! チェシャのバカバカ! 大バカぁーっ!!」
出てってと騒ぎまくったアリスはチェシャ猫の支えを失いベッドに倒れ、そのまま顔を逸らす。
チェシャ猫が何か言いかけても「出てって!」と食い気味にかぶせて返し、一切言い分を聞こうとしなかった。とにかく今度こそ、何としてでも早く一人になりたかった。
そのうち、騒ぎをききつけたヴァンがとりあえずチェシャ猫を追い出してくれたようだが、その頃には既にアリスはふて寝モードに突入していた。




