極寒の地下通路(まさかの凌駕)
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どれくらい経ったのだろうか、ヴァンに案内された地下の書庫には膨大な交戦記があり、アリスはすっかり読み耽っていた。得体の知れない文字のハズなのに、すんなり頭に入って来るから不思議だ。これも「現状維持」の効力の一環なのかと考えてみる。
とにもかくにも、交戦記のおかげでキャメロットとアヴァロンがどんな戦いを繰り広げてきたのか、アリスにも少し理解できた。頼み方を間違えたせいで人手は借りられそうにないが、情報が得られたのはやはり大きい。
これならチェシャ猫にバカにされることもなくなりそうだ……と、ここまで考えてから、アリスは思い出す。
そう言えば、チェシャ猫とマーチ・ヘアに自分の居場所を伝えていなかった。王室のスフレ取り扱い店で別れたっきりになっているから、もしかしたら大捜索されている可能性もある。
しかし目的がアーサー王に謁見することだと明白である以上、この王宮に向かっているに違いない。
「お食事の用意ができました」
「えっ?」
あの二人なら大丈夫だ、と再び交戦記に目を通し始めたアリスは、少し驚きながら振り向いた。書庫の入口に、メイドが一人。
「び、ビックリした……私、もう少しこれを」
「恐れ入りますが、お食事が冷めてしまいますので」
頭を下げられては、さすがに断れない。巻数とページ数をチェックし、本棚に戻す。
「わかりました」
食事というのは、アーサー王も同席するのだろうか。支援を断られた直後で、居心地の悪さを感じそうだ。それに、「王子様みたい」と言ってしまったものの、王子様のイメージとかけ離れた堅苦しく恐れ多い雰囲気なのは事実。気さくに話しかけてくれるヴァン・ヘルシングが一緒なら、少しはマシになるとは思うが。
「あれ? こっちでしたっけ」
「こちらからも上の階へあがれます。食堂へはこちらからの方が近いので」
「へぇ……やっぱり王宮って凄いですね。ただの広いお屋敷じゃない感じ」
それにしても、奥へ奥へと進んでいるはずなのに、心なしか寒気を感じる。だんだんと室温が下がっているようだ。それに…
「あの、この廊下、暗くないですか? いつもこんな……」
「そうですね、慣れてないと怖いかも知れませんね。少々お待ち下さい、今明かりを点けますから」
「ありがとうございま……」
冷える指先を擦り合わせていたアリスがお礼を言い終わらないうちに、目の前で銀色の何かが弾けた。
よく分からなかったが、何かが爆発したような強い衝撃に襲われ尻餅をつく。「涙」のおかげで一切の痛みは感じなかったが、前を歩いていたメイドはどうなったのか。
暗い廊下でも目が慣れてきたアリスは、必死に前方の状況を確認しようと壁伝いに立ち上がった。
「い、一体何が……!」
「やっぱりダメですね。とても強い。だからこそ欲しくなってしまうのだけれど」
「だ、大丈夫ですか! 今、何か爆発……」
「爆発じゃありません、ご心配なく」
「え? それじゃあさっきの……きゃあっ!」
先ほどと同じくバチィッと何かが弾ける音。そして衝撃。
しかし今回は、何が起こったのかきちんと把握できた。メイドの手に握られた、鈍く光る鋭い形。
「教わらなかったのですね、知らない人に付いていってはいけませんって」
「だ、だってあなたはここのメイドさんじゃ…」
「私はメイドの真似事をしただけです。『お食事の用意ができました』……それだけで連れて来れるのなら、魔法なんていらなかったかも知れませんね」
ふふっ、と可愛い笑い方をされ、アリスは察知する。これは、命の危機なのだと。
爆発なんかじゃなかった、「涙」が刃物を跳ね返したのだ。怪我をしなかったのはそのため。
けれどその「現状維持」効果はいついかなる時も所有者に対して発動するものではない……マーリンの言葉を思い出す。完璧な安全と無傷は、保障されていないのだ。
血がドクドクと音を立て始め、感じていた寒さを忘れる。逃げられるのか、いや、逃げなくては。ここで首を切られて涙を奪われました、では話にならない。
一歩、後ろに駆け出そうとアリスが踏み出したのと同時に、メイドが再び刃物を振るった。カラカランッ、足元から金属音。どうやら振るったというより投げつけてきたらしい。気にしてはいられないと、走る。
「やっぱりダメですね。でも通じるかしら、私の魔法」
駆け出したはいいが、暗い廊下の終わりが見えない。
そんなに奥まで進んでしまったのか、もう少し考えてから付いていけば良かった、そもそも王宮に刺客がやって来るなんて聞いてない、聞いていればもっと警戒して……いや、聞いていても多分結果は変わらなかった、そもそもの話をしてしまえばキリがない、チェシャ猫やマーチ・ヘアと別行動になってしまった時点で……
「あーもー考えるの後!」
走ることに集中すれば、絶対に階段が見えるはずなんだ。階段を上がれば誰かいる。本当の執事やメイド、あるいはヴァンやアーサー王が。
信じて足を動かすうち、いくつかの異変を感じ取ってきた。息が白い。背筋が凍る。自分を追いかけているのは冷気なのかと錯覚するような、環境の異変。
「ここ、室内じゃ……」
「効いたんですね、良かった」
足の動きが鈍くなる。寒い。雪の中にダイブした時の、そのまま体温を奪われていく感触。指先が動かなくなる。呼吸を続けるほど肺が凍る。
気付けば足元は、サクサクと音を立てる雪の道へと変化していた。
「う、ウソ……」
「もっと、もっとですよ、一月の精」
サク、サク、サク、近づいてくる規則的な足音。アリスの足は何とかこの雪道を進んでいるというのに。
まだ、まだ階段は見えて来ない。この廊下の終わりが、見えない。もっと早く違和感を持つべきだった、もっと早く話しかけてぼろを出させるべきだった、もっと……早く……
「雪の日はお好きですか?」
雪が好きだとかワクワクしちゃうとか、そんなの、小さい頃の話だ。かじかむ手をそのままに、かまくらを作るんだと意気込んではしゃいだのも昔の話。今や、ちょっとでも風が冷たくなれば、黒タイツとマフラーと手袋で完全防備して登校する中学生。雪の日なんて、コートの両ポケットに使い捨てカイロをつっこまないと外に出れないのに。
壁伝いに足を動かすのも、限界だ。寒い、寒い、寒すぎる。壁に触れる手先なんて、もう凍ってしまっているんじゃないか。
このメイドは、完全防備もしてないのにどうして平気なのだろう。魔法使いだからか。それならどうして、「涙」の効力は働いてくれないのだろう。この魔法が、自然現象の延長だから…なの、か。
理由を考察したところで、現状打破の策など浮かばなかった。もう、動けない。為すすべ無く、体温を奪われながら膝を折るアリスの背後で、メイドは太い杖を頭上に掲げる。
「十二月の精も、力を貸してください」
その杖が青白い輝きを放たんとした、その時。
「今は九月だ」
真正面に、眩しく光る一点。朦朧とする意識の中で、アリスは確認する。
それは、神々しい光を纏う一本の矢だった。一陣の風のように長い廊下を通りぬけ、瞬く間に雪をかき消していく。そして……
「あああああっ!」
甲高い悲鳴が背後から聞こえ、メイドの肩にその矢が刺さっているのが見えた。しかしそこでアリスの体力は尽きる。
「アリス!」
雪のなくなった絨毯の上に、うつ伏せに倒れ込んだ。




