篝火 夏 -21-
前回のあらすじ
妖怪は人から生まれしもの。そう告げたミコに、受け入れると千歳は笑う。そんな彼を突如襲う悲しみの感情。嫌な予感を覚えながら、千歳は居間に向かうのだった。
何かは分からない。
ただ、大事なものが失われていくような、そんな実感だけがあった。
居間は蒼然としていた。先ほどまでの喧騒が何処か遠いものに感じ、懐かしく思えた。返ってきてほしいとすら思えた。この痛々しい光景を元通りに戻せるなら、いくらでも騒いでやる。
件が倒れていた。
弱々しく喘ぎ、額には汗が浮かんでいる。閉じかけた瞼から覗く瞳は焦点が定まっておらず、ふらふらと宙を彷徨ってはまた閉じる。気を失っては再度目を開く。そうでもしないと、意識を繋ぐことができないように見えた。事実、件は薄い意識の闇を漂っていた。
懸命に光を掴もうとしている。
決して逃すまいと、必死に手を伸ばしている。
その手をユキや子供妖怪達が握りしめている。口々に件の名を呼んでは、涙をその手の甲に落としている。
居間の隅で、枯葉が顔を手で覆い泣いていた。肩に手を置いて、伝えてくれてありがとうと小さく告げた。枯葉の頭が小刻みに揺れる。頷いてくれたのだろう。
部屋の反対側の隅では鬼の親父さんと芙蓉が思い詰めた様子で顔を曇らせていた。彼らの態度だけでそれとなく分かる。多分もう、手遅れだということ。そしてそれを、二人は知っていたのだろうこと。
犬神も落ち着いていた。件が少しでも楽になるよう体を支えてやっている。居間に戻ってきた僕を見とめると、何か言いたげに口を動かしたがすぐに目を逸らした。
分かっている。おそらくお前と僕が考えていることは同じことだ。
そう思ったことを読心されたのか、僕の後から来たミコが隣に立ち、優しく僕の手を握った。そっと横に顔を向ける。目が合ったミコが、残念そうに首を横に振った。
そうじゃない。
そうじゃないだろう。
諦めていいものじゃないだろう。
知らず知らずのうちに、彼女の手を握る僕の力が強くなる。
勇気が湧いた。
最初に目に入って、その後意図して避けていた件に視線を向ける。さっきまで威風堂々として胸を張っていた件が、居間の真ん中で、皆に囲まれながら倒れ込んでいた。犬神に支えられ辛うじて顔を上げているものの、燃え尽きそうな蝋燭に似た哀愁を感じてしまう。
荒く上下する胸。辛そうな呼吸が一層僕の胸を詰まらせる。
苦しげな件の口から言葉が小さく漏れ出した。
「あら……下僕……遅いじゃ、ないの」
「喋るな」
「ふふっ……屈辱ね。あなたを、こうやって、下から見上げることに、なるなんて……」
「いいから喋るな! 休めよっ!」
激昂とも慟哭ともつかない、やり場のない気持ち。
誰も何も言わない。それでも伝わることがある。どれだけ僕が彼らに無知だとしても、変わらないことだってある。
死の悲しさはいつだってどこだって同じだ。
件は、その命の灯を消そうとしている。
「なあ、僕じゃ駄目なのか? そのために来たんじゃないのか? 相談に乗ってやるから。話し相手になってやるからっ。新しいものを教えてやるからっ、褒めてやるから、忘れないでいてやるから!」
他の皆の目が一斉に僕に集まる。
「思い続けてやるから! そうなんだろう? だから妖界から皆来るんだろう? なあ、それじゃ駄目なのかよ! 僕だけじゃ……」
かみ砕けそうなほどに、歯を食いしばる。涙は堪えようもなく、嗚咽は抑えようもなく。溢れ出る言葉は次第に支離滅裂になっていき、頭はいつになくこんがらがっていく。
熱い、苦しい、激情。
どうすることもできないなんて、他の奴らを見ていれば察せる。どうにかできるのなら、ミコが事前に僕に言っている。どうにかできないかもしれないけれど、ほんの少しの望みを賭けたからここに連れてきたのだ。犬神が僕を呼んだのだ。そしてどうにもできなかったから、ミコはあんな話をしたのだ。
守ってやると、強く思っていたのに。
連鎖的に繋がっていく思考。いつの間にか自分がどこかふわふわした異次元にいるような感覚に陥った。足場が崩れていく。奈落の底へ心が落ちていく……。
真っ暗な闇が目の前に広がった。
どんどん自分の体が黒く染まっていく。
脳髄をどす黒い何かが満たしていく。
何もわからなかった。
心がつぶれそうだった。
どうしようもないのか。そればかり考える。右も左もない漆黒の中でもがき続ける。それもやがて力尽き、飲まれていく……。
「楽しかったわ」
その一言が、咄嗟に僕を救い上げた。
「他の人達も、そうなのじゃないかしら?」
もうどこも見ていない件の目がゆっくりと辺りを見回す。皆それぞれが頷いた。
「何もできないなんて、思わないで?」
件の手が震えながらも僕の方に伸びる。近寄って、その手を握った。ユキのように冷たい、件の手のひら。温めて命を吹き込むかのように、僕は強く握りしめた。
「あなたの未来を、見てきてあげてよ?」
「喋るなよ……」
「あなたは大切なものを手に入れる。でも、それは近いうち離れて行ってしまうわ」
「喋るなって」
件の角がぽうっと光を帯び始める。それは力の解放ではなく、最後の一瞬を煌めこうとする命の輝きに思えた。
「辛い、過酷な試練があなたを待ち受けるでしょう。でも逃げないで。戦うのをやめないで? 手放さないように、離れないように、必死に掴み続けなさい?」
僕の掴んだ件の手から、すっと力が抜けていくのが分かる。離さないように手を伸ばしてみても、それは陽炎のように逃げていく。
そして、いつか消えてしまうのだ。
角の内側から発せられている青白い光が徐々に弱まっていく。
「なあ、僕じゃ駄目なのか? 思うだけじゃ駄目なのか? 僕ならっ」
「手遅れじゃ」
ミコの諫めるような言葉が場に広がっていく。
「妖力と思う力があれば、お前達は!」
「件は、寿命だよ」
芙蓉が辛そうに口にした。俯いた顔から落ちる涙が、卓上のお猪口にぽつりと落ちて飛沫をあげる。
「どうにもならないことだって、あるのさ」
「じゃあ、僕は何のためにっ」
額を件の手に押し付ける。件の力がもうほとんど残っていないことが肌を通して伝わってくる。どうか、少しでも長く生きられるように。そう強く思った。
それくらいしか僕にはできないから。
僕の名前をユキが呼ぶ声がする。兄ちゃん、と座敷童も心配そうに呟いた。
「楽しかった……本当に」
件の声は風で掻き消えてしまいそうなほどにか細い。
「あなたには、力が……あってよ?」
「僕は何もできていない」
「そんなこと、ないわ。なんてたって、ワタクシの下僕でしてよ?」
だから、何もできないなんて思わないで?
一瞬、件が微笑んだ気がした。
命の炎の、最後の輝き。
青白い、厳かで神秘的な件の光が角から溢れだし件の体を包み込んでいく。淡く、それでいて気品に溢れた光は件そのものだった。魂、というやつを僕は連想した。
光が同心円状に広がっていく。一面が青白い光に包まれていく。僕の握った件の手のひらが温もりを取り戻す。
気高い光の中心で、件が僕に笑いかける。
期待した。
―――そして、裏切られた。
眩い光が弾け、無数の粒になって散っていく。
光が消えた。同時に、件の体も消失していた。仄かに香る薔薇の香り。空を握る僕の両手。ほろりと床に落ちた、件の髪飾り。
まだ、感触が残っている。
まだ、あいつはここにいる。
そう思わないと、泣き崩れそうだった。
散っていった粒子たちに、件の存在を探してしまう。茫然としながら、辺りを見回しても、もうそこには何もない。
誰からともなく、声を出して泣きだした。
「あいつは、どこに行ったんだ?」
「自然から生まれたものは、自然に還っていく。それが道理じゃ」
「そんな悲しい事なのか?」
ミコは答えなかった。
「俺らは死なんてものとはほとんど無縁だ。件が特別短命だっただけだ。だが、あいつは精一杯その一生を生きていた。それは俺が保証するぜ」
親父さんが立ち上がる。
「こいつらは俺が連れて帰る。だから―――」
「忘れない」
「千歳?」
泣きじゃくるユキ達。暗い影を落とす芙蓉達。そして目にいっぱいの涙を浮かべながら、それでも僕を安心させようと笑いかけてくるミコ。
こいつらと、一緒に居たいんだ。
「僕が忘れないから、だから……ずっと一緒にいてくれ」
手のひらの間にはもう何もない。ぎゅっと自分で自分の手を握りしめ、何かを掴もうとする。力を込めて、震えながら。
「約束じゃ」
ミコが言う。
「主と、ずっと、一緒に……」
すとん、と軽い音がした。
恐る恐る振り向くと、もう何度も目に焼き付けた彼女の金髪がはらりと畳に広がっていた。
「ミコ!」
急に倒れたミコに這いずりよる。慌てて体を仰向けにさせて、頭を膝に乗せる。彼女は顔を紅潮させながら、それでも僕に笑いかけていた。
「共に、いよう……のう、主?」
ミコは最後まで笑っていた。
どこまでいけるか




