その3、不幸をよぶ悪霊について
土曜日。俺がテケテケと出会ってから初めての休日である。思えば、出会ってからもう六日もたつのだ。
別にだから何かあるわけではないのだが…
俺は土曜日は極力外に出かけることにしている。仕事に疲れて泥のように眠っている母さんの睡眠を妨げないためだ。親子でワンルームに住んでいるとこういう時不便である。
今日もいつもと同じように出かけようとすると、当然のようにテケテケに止められた。
「ヤマトよ、どこへ行くのじゃ?」
テケテケはカーテンの閉まった部屋の中でいつものようにランドセルの上に座っていた。
「どこって、ちょっと散歩に行くだけだよ。」
俺は母さんを起こさないように小声で答えた。
「我も連れて行ってたも!」
「嫌だ。」
即答。当たり前だ。
テケテケは学校の中以外ではランドセルから出られない。つまりテケテケを連れて出かけるということは、ランドセルを持って行かなければならないということなのだ。俺は休みの日までランドセルを背負って出かけたくない。
「なぜじゃ?別に良かろう?どうせ共に遊ぶ友達もおらぬくせに。」
くっ…言いたいこと言いやがる。
「休みの日にランドセルなんか背負ってたら余計に友達なんてできねぇよ。」
「心配するでない。ヤマトには我という友がおるではないか。さぁ、共に出かけようぞ。」
「いくらお前が俺の友達でも駄目なものは駄目だ。」
本当に面倒くさい友達である。
「ヤマトよ、我をこの部屋に置いたまま出かけてしまって良いのか?」
「あん?どういう意味だよ。」
「ヤマトがこのまま我を置いて出ていくと言うのなら、我は泣きわめくぞよ。」
子供かよ!見た目も幼児なら中身も幼児だってのか…
「泣き落としとは…情けないお化けだな。」
「ただの泣き落としではないぞよ。我は既に音を操れることを忘れるでないぞ。我が泣きわめけばお主の母君は寝てはおれぬじゃろうのぉ。」
な…脅しかよ…
「お前…卑怯だぞ…」
「おばけじゃからのぉ。卑怯は褒め言葉じゃ。嬉しいのぉ。」
くぅ…この貧弱お化けが…
「さぁ、どうするのじゃ?一人で出かけて母君を叩き起こすか、我と共に出かけてゆるりと疲れを癒してやるか、二つに一つじゃ。」
はぁ…どうやら俺は休日でもランドセルで出かける変な少年にならねばならないようだ…
「わかったよ。連れて行きゃいいんだろ、連れて行きゃ。」
俺はテケテケが座っているボロいランドセルを掴むと、片側のベルトだけ肩に掛けて立ち上がった。
「さすがヤマト、優しいのぉ。」
「ちくしょう…覚えてろよ…」
母さんを起こさないようにそっと部屋のドアを開ける。途端に朝のさわやかな日差しが部屋に差し込む。
「ほ、やはり眩しいのぉ。」
「やっぱり部屋でおとなしくしてた方がいいんじゃねぇか?大体太陽が出ている時間は寝てるのがお化けなんだろ?」
「我らおばけは人間とは違って睡眠が必要なわけではない。する事が無ければ寝たりもするが、別に寝なくても平気なのじゃ。」
「でも日光には弱いんだろ?」
「弱いと言うか、能力が制限されてしまうだけじゃ。散歩するくらい問題ないぞよ。」
「へぇ…そんなもんなのか。」
ドアを閉め、一応鍵も掛けておく。
さて、どこに行こうかね。いつもなら図書館に行くのだが、テケテケが一緒だとのんびり読書ってわけにもいかないだろう。
「テケテケ、お前どっか行きたい所あるか?」
「ほ?ヤマトが行こうとしていた所でいいぞよ。」
「俺はただ母さんを起こしたくないから外に出ただけだ。どこに行く目的もねぇよ。」
図書館のことはテケテケに話しても仕方ないだろう。
「そうであったか。そう言われても我はこの辺りに何があるのか全く知らぬ。ヤマトに任せるぞよ。」
テケテケは学校の外のことは何にも知らないようだ。そういえばスーパーマーケットも知らなかったっけ。
「んじゃあこの辺を軽く案内してやるよ。」
「本当か?それは嬉しいのぉ。」
まぁどうせ暇だし、これくらいはいいだろう。
アパートの階段を下りようとした時、階段の中腹くらいに誰かがいるのに気が付いた。一人の少女が手すりにもたれ掛かった状態で階段に腰掛けている。
「あれは何じゃ?」
「お隣さんだ。」
少女に気付かれないよう小声で答える。
少女は確か俺の隣の部屋の住人だったはずだ。俺より一つか二つ下の学年で、俺と同じ宮間小学校の生徒である。まぁ校区が同じなんだから当たり前だが。名前は…何ていったっけな…
「ほほ、こやつもここに住んでおったのか。偶然じゃのぉ。」
テケテケが何か意味深な事を言っている。
俺はテケテケとの会話を少女に聞かれないように、とりあえず階段を下りて道路まで出ることにした。しかし、少女は俺が真横を通ったにも関わらず、俺の存在にまるで気付かないようだった。寝ているわけではなさそうだったが、目は虚ろで、何か人生に疲れたような顔をしていた。
「おいテケテケ、あの子のこと知ってるのか?」
道路に出て会話が聞かれる心配がなくなってから、俺はテケテケに聞いた。
「ほ?あの子とはさっきの階段におった娘のことかの?」
「そうだよ。お前何か知ってるようなこと言ってただろ?」
「知っておるに決まっておろう。あの娘は我の学校の生徒なのじゃから。」
そうか、学校内の事なら何でも分かるとか言ってたな。
「あの娘の名前は路改小太刀といってな、四年一組の生徒じゃの。」
路改小太刀、確かにそんな名前だった気がする。珍しい名前だと思った記憶がある。
「ちょっと待てテケテケ、お前全校生徒の顔と名前を暗記してんのか?」
「ほ?そんな訳なかろう。あの娘は少し訳有りでの、ちょっと観察していたのじゃ。」
訳あり?どういうことだ?
「我も最初はよくいる小物かと思って気に留めておらなんだのじゃが、どうもあやつただ者ではないぞよ。」
「ただ者じゃないって、さっきのあの子がか?」
「娘の方ではないぞよ。娘が連れているモノのことじゃ。」
連れている?何か連れてたか?
「ヤマトには見えなんだじゃろう。普通の人間に見えるモノではない。」
おいおい…ってことはまさか…
「あの娘には悪霊が取り憑いておる。」
天気のいいさわやかな休日はそんなさわやかでない話で始まったのだった。
約二週間前、俺が前に住んでいたアパートが全焼するという事件があった。死者一名、負傷者三名を出す大火事であったが、俺と母さんは運良く外出していたため無事であった。火元は俺の部屋の隣に住んでいた無職の男の部屋だった。煙草の火の不始末が原因と考えられているが、その男は逃げ遅れて死んでしまったため詳しいことは分かっていない。死者一名とはこの男のことである。
死者は火元の部屋の男のみだったが、負傷者は他にもいた。その一人が先程の路改小太刀の弟だった。
路改一家は俺と同じ片親の家族だった。母親一人に姉と弟の三人暮らしで、俺の部屋と火元の部屋を挟んで隣に位置する部屋に住んでいた。火事があった時、弟くんは逃げ遅れ全身に火傷を負ったらしく、今も病院に入院中のはずである。
その後、家を失った被災者達は紹介されたアパートに移り住むこととなり、俺と路改一家は隣どうしの部屋になったのだ。
「ほほ、なるほどのぉ。ヤマトとあの娘にそんな繋がりがあったとは…」
俺達は近所の公園のベンチに座って話していた。何人かの子供が遊具で遊んでいるが、ここならテケテケとの会話を聞かれることはないだろう。
「俺も火事が起こる前までは同じアパートにどんな人間が住んでるかなんて気にもしてなかったんだけどな、あの火事のことで元住人達が集まる機会が何度かあったから多少事情を知ってるんだ。」
「と、すると…あの娘が悪霊に憑かれたのもその火事が原因と考えるのが自然かの。」
「そうなのか?」
「ほほ、我の予想ではそもそもの火事にも悪霊が関与していると思うぞよ。」
何だって?悪霊が火事に関与してる?
「悪霊って火事を起こしたりもできるのか?俺の家は悪霊に燃やされたのか?」
「直接の原因は別にあるのであろうが、間接的には関わっていると見てまず間違いないであろうのぉ。」
なんと!あの火事は悪霊が起こしたものだったとは…
「あの悪霊、恐らく以前は火事で死んだという男に取り憑いていたのであろう。男が死んでしもうたので今度はあの娘に取り憑いたということじゃ。」
「死んでしもうたって…男を殺したのはその悪霊なんだろ?」
「それはそうであろうが、あやつも殺したくて殺した訳ではないのじゃ。むしろ生きていてくれた方が都合が良かったと思うぞよ。」
どういうことだ…悪霊が間違って殺してしまったってことだろうか…
俺が悩むような顔をしているとテケテケがまた偉そうにし始めた。
「人間には理解し難いであろう。仕方ないのぉ。我が基本的なことから説明してやろうぞ。」
「ああ、頼むよ。」
最近このテケテケの態度にも慣れてきて、腹も立たなくなってきた。
「良いか?おばけという存在には大きく分けて二種類あるのじゃ。一つは我のように物に取り憑くモノ、もう一つはあの悪霊のように人に取り憑くモノじゃ。」
お前は俺に取り憑いてるんじゃないのか、と言いたかったがやめておいた。テケテケが憑いているのはあの布だろう。
「この二種類の大きな違いは存在するために必要なエネルギーじゃ。物に憑くモノは大抵人間の気持ちから霊力を得る。我の場合は恐怖心、他にも信仰心や懐疑心から霊力を得るモノもおる。それに対して人間に憑くモノは憑いた人間から直接生気を吸い取ることで霊力を得る。だから強力なモノに取り憑かれた人間は生気を多く奪われ、活力を失ってしまうのじゃ。」
ふむ、さっきの少女に元気が無かったのはそれが原因か。
「人間に憑く類のモノは言わば寄生虫じゃ。宿主から少しづつ養分を奪っていく、しかしだからこそ奴らは宿主に死なれては困るのじゃ。宿主が死ねば自分の存在も危うくなるからの。」
なるほど、筋は通っている。
「それゆえ普通、人に憑くモノは宿主を殺してしまわない程度の生気を吸いながら細々と存在するものなのじゃ。しかし、たまに宿主の命を押し潰してしまう程に肥大化したモノが出現することがある。それがいわゆる悪霊というわけじゃ。悪霊は他のモノに比べて霊力を多量に必要とするため、宿主はその分多く生気を吸われてしまう。その結果、悪霊に憑かれた人間は生きる気が失せてしまうのじゃ。」
生きる気が失せる…つまり、死にたくなるということか。
「ってことは、火事で死んだあの男は自殺だったってことなのか。」
「ほほ、違う違う。生きる気が失せると言うても死にたくなるのではないぞよ。生きることも死ぬことも、何もかもが面倒になってしまうのじゃ。自殺のような前向きな行動をとったりはしないぞよ。」
自殺は前向きではないだろ…
「ただし、自ら命を絶つようなことはせぬが、普通の人間よりも死ぬ確率は格段に上がる。一日中体に力が入らず、注意力が散漫になるからの。事故や病気になりやすくなるのじゃ。」
「じゃあつまり…あの火事の原因ってのは…」
「煙草の不始末というのは恐らく間違いではないと思うぞよ。それは悪霊が意図してやったことではない。しかし、死んだ男が煙草の不始末をしてしまったのは悪霊によって生気を奪われてしまったからじゃ。」
間接的な原因とはそういう意味か…
「加えて言えば、その男が逃げ遅れたのも同じ理由であろう。男が正常であれば例え火事が起きても逃げることはできたやもしれぬ。」
…あの火事の裏側にそんな深い事情があったとは…
「それで、取り憑いてた男が死んでしまったから今度はあの路改何とかって子に憑いたわけか。」
「路改小太刀じゃ。色々と不幸が続いておったようじゃから悪霊にとっても恰好の餌食だったのであろう。」
恰好の餌食?悪霊はあの少女を狙って憑いたってことか?
「あの子に悪霊が憑いたのは偶然じゃねぇのか?」
「偶然といえば偶然じゃが、悪霊というモノは気持ちが下向きになっている者に憑きやすいのじゃ。それに悪霊のような人に憑くモノは我ら物に憑くモノのように土地に縛られたりはせぬが、自力では余り動き回ることができぬ。憑いた者の行く先に引っ付いて行くしかないのじゃ。そういう意味では、火事の現場に居合わせ、なおかつ気分が落ち込み気味だったであろうあの娘に悪霊が憑いたのは必然と言えるかもしれぬの。」
むむ…ってことはあの不幸な少女は悪霊が憑いたから落ち込んでいるのではなく、悪霊が憑く前から落ち込んでいたということか…
「ん?ちょっと待て。なんかおかしくないか?」
「ほ?何がじゃ?」
「悪霊ってのは憑いた相手から生気を吸うんだろ?だったらどうしてそんな最初から生気の少なそうな下向きな人間を狙うんだよ。」
もっと生き生きした、生気みなぎる人間を選んだ方が得策だと思うのだが…
「ほほほ、ヤマトの阿呆。」
くっ…なんか馬鹿にされた…。めっちゃ悔しい。
「元気な人間は食物から得た生気を消費しておるからこそ元気なのであろう。消費された生気は吸えぬであろう?その点下向きな人間はせっかく食物から得た生気を垂れ流しておる。どちらを狙った方が効率が良いかは火を見るより明らかではないか。」
そ…そうなのだろうか…
確かにそう言われるとそんな気もしないでもないが…なんか釈然としない…
でもどう反論していいのかもわからないので、そういうことにしておくか…
「で?あの路改小太刀って子はどうなっちまうんだ?やっぱり…」
「まぁ、近いうちに死ぬであろうな。」
おいおい、簡単に言うなよ。
「何とかならねぇのかよ。家が火事で燃えて、弟は大火傷して、それであの子まで死ぬなんて可哀想すぎるだろ。」
「ほ?ヤマトはあの娘を助けたいのかの?」
「何だよ、俺が人を助けたいと思うのがそんなに意外か?」
俺はそんな冷血人間に見えるのだろうか。
「死にかけている人間を目の前にして、手を差し伸べない程俺は極悪人じゃねぇよ。何か方法があるなら助けたいさ。」
「残念じゃが、放っておくしかなかろう。あそこまで成長してしまった悪霊は自然にはそうそう離れぬ。運が悪かったと思って諦めるしかあるまい。」
な…死ぬと分かっていて見殺しにしろってのか…
「お前、冷たすぎるだろ。お化けなんだから何か出来ることがあるんじゃねぇのか?」
「すまぬが我はこの件に関してはヤマトの力にはなれぬ。」
「お…お前友達じゃねぇのかよ!」
「……ヤマトよ、お主何か勘違いしておらぬか?」
??勘違いだと?
「我とお主は友達じゃ。それゆえ我はお主が人間であってもお主の味方じゃ。しかしの、さっきの娘の味方ではない。」
「だからそれが冷たいって言ってるんじゃねぇか。お前の友達である俺が助けてやって欲しいって言ってるんだから助けてくれたっていいだろ?」
「我とてこれがお主とあの娘だけの問題であれば力を貸すことを拒んだりはせぬ。しかしヤマトよ、あの娘を助けるということは、即ち悪霊を消し去るということであろう。」
あ…そういうことか…
俺があの小太刀という子を死なせたくないと思うのと同じように、テケテケも悪霊を消滅させたくないのだ。俺達人間にとっては悪霊なんて災厄でしかないが、テケテケにとっては仲間なのである。
「もしもヤマトに悪霊が憑いたとあれば、我は全力でお主を助ける。しかし他の人間のために同族を消滅させることはできぬ。」
「分かったよテケテケ。お前の言い分はよーく分かった。」
「すまぬのぉ、ヤマト。」
「いいさ、仕方ない事だ。」
テケテケの協力が得られないのは残念だが、あの少女が死にそうになっていることが分かっただけでも良しとするしかない。
いや…知らなかった方が良かったかもな。
ともかく、気付いてしまった以上無視する訳にもいかない。立て続けに隣人に死なれるなんて嫌すぎる。それにまた部屋で火事でも起こされたらたまったものではない。
人助けなんて柄じゃねぇが…まぁたまにはいいだろ。
さて、助けるとは決めたものの、どうすれば助けられるのか皆目見当がつかない。
テケテケに協力を断られてしまった今、俺にできることといったら…何かあるか?
とりあえずあの路改小太刀という少女から話を聞いて打開策を見出す他ないだろう。
っつー訳でアパートまで戻って来たのだが…
「何て話しかければいいんだ…」
路改小太刀はさっきと同じ態勢で階段に座っていた。
「ほほほ、放っておけば良いものを、ヤマトは優しすぎるぞよ。」
「黙れ、テケテケ。協力はしなくてもいいから邪魔だけはしてくれるなよ。」
「心配するでない。それくらいは心得ておる。」
…ならいいんだけど。
しかし、いつまでもまごまごしているわけにはいかない。俺は思い切って階段の下から路改小太刀に話しかけた。
「あ、あの~…路改さん…?」
路改小太刀は俺の声に反応し、顔を上げた。
良かった。無視されたらどうしようかと思った。それこそ後でテケテケに小馬鹿にされてしまうところだ。
路改小太刀の顔からは一目で疲労が見て取れた。目の下にはパンダも驚く程のクマができている。栗毛色の髪を左右に結ったツインテールもバランスが悪く、力なく垂れ下がっていた。
「お…おはよう。すがすがしい朝だね。いや~今日も晴れて良かった。」
何を言えばいいのかわからない俺は適当にお天気の話をする。
…返答ナシ。虚ろな目で黙ってこちらをじっと見ている。
「あ、もしかして俺が誰だか分からないとか?そりゃそうだよな、話したのはこれが初めてだし。」
「…池岸大和様ですよね。お隣の…」
うおっ!しゃべった!しかも俺の名前を!
「名前憶えてくれてたんだな。ありがとう。」
俺が隣人であることを理解してくれているのであれば話が早い。俺は階段を彼女がいる所まで上って、彼女が座っている段の逆サイドに腰掛けた。
「いやぁ、今日はこんなに良い天気なのにさっきから浮かない顔しているからどうしたのかと思ってさ。それで声をかけてみたんだけど…」
「………」
無言…しかし目だけはこちらを向いている。
「あの…何か悩み事?もし何か悩んでいるなら一人で抱え込まずに誰かに話したほうがいいぜ。」
「………」
「あれか?火事のことまだ引きずってるとか?それだったら俺も火事の被害者の一人だし、共感できることがあるかも。」
「………」
「それとも入院してるっていう弟くんのことかな。確かに心配だよな。かなり酷い火傷だったんだろ?」
「………」
むぅ…駄目か…
弟くんの話を出せば良くも悪くも何か反応すると思ったのだが、微動だにしない。ただこっちをじっと見ているだけだ。
「ごめん、余計なお世話だったかもな。悩み事なんてそうそう他人には話せないもんなぁ。大体話せるなら最初から悩んだりしないか。まぁいいや、気が向いたら話してくれよ。俺はいつでも話し相手になるから。」
「………」
ふぅ…まぁ仕方ないだろう。俺を知っているとはいえまともに話したのは今日が初めてなのだ。そうそう胸の内を明かしてくれたりはしないだろう。
俺はテケテケが入ったランドセルを肩に掛けなおして立ち上がった。
「………夢…」
「え?」
今『夢』って言ったのか?
ど、どういう意味だ?
「…夢を見るのです。毎晩、同じ夢を。」
悪夢…ということか。悪霊が見せているのだろうか。目の下のクマはその夢による寝不足が原因だと…
「どんな夢だ?やっぱり嫌な夢なんだろ?」
「ええ、例の火事の夢です。周りを火に囲まれて、逃げられなくなる夢。」
…それは相当きついだろう。火事に巻き込まれただけでもトラウマものなのに、その状況を毎晩見せられるとは…。いや、トラウマになっているからこそ夢に見るのかもしれない。
「その夢について、もう少し詳しく教えてくれないか?」
「夢の内容ですか?」
「そうだ。」
もしその夢が悪霊の見せているものだとすれば、その内容の中に除霊のヒントがあるかもしれない。
「…わかりました。お話させて頂きます。」
路改小太刀はゆっくりと丁寧に話し始めた。
「…いつも気が付くと私は燃え盛る炎の中に取り残されているのです。場所は以前火事があったあのアパートです。私の横にはあの火事の時と同じように弟が倒れていて…私は必死になって弟を助けようとするのです。」
今入院しているという弟くんか…
「しかし、私の力ではどうやっても弟を持ち上げることができないのです。そうしている間に火はどんどんまわってしまって…ついには弟に燃え移ってしまうのです。私は焦ってその火を懸命に消そうとするのですが、火の勢いが凄まじくて消えるどころか私にまで燃え広がってしまって…その火を振り払おうともがいているところで目が覚めるのです。」
壮絶な夢だ…。俺は絶対見たくない。
「その夢は…実体験なのか?実際の火事の時も同じことが起こったってこと?」
「…同じです。目の前で弟が燃えているのに何もできなかった、ただただ自分の無力を嘆くことしかできなかった、あの時と…」
「ん?ってことは君達はどうやって助かったんだ?」
「消防士様が助け出してくださったようです。私が目を覚ました時には既に病院のベッドの上でしたので、詳しいことは存じておりませんけれど…」
なるほど、突入した消防隊が姉弟を救出したのか。
「ありがとう。嫌な話をさせて悪かったな。無駄にはしないから。」
「?どういう意味ですか?」
「いや…なんとか君がその夢を見なくなる方法を探してみるよ。」
「そんなこと…できるんですか…?」
路改小太刀は明らかに疑いの目で俺を見ていた。
「できるかどうかはわからないけど、やるだけやってみるよ。」
俺はそれだけ言って階段を下りた。
「今日はじっとしてろよー」
階段の下からそれだけ叫んで俺はアパートを後にした。
「ヤマトよ、何か策でもあるのかの?」
背中のテケテケが興味津々とばかりに訊いてきた。
「うるさいな、協力する気がないなら黙っていたらどうだ?」
「う…それを言われると辛いのぉ。」
「まぁ餅は餅屋ってやつだ。専門家に訊くことにするよ。」
「専門家?そんな者がおるのか?」
…確かに専門家って程大層なものではないのだが…
「夜嵐だよ。」
「おぉ、あのインチキ占い師か。」
そう、俺の知り合いで除霊の方法なんか知っているのは、俺のことを同志と呼ぶあの黒ずくめくらいだろう。実は余り気乗りしないのだが、非常事態につき致仕方ない。
「これからあの者の家に行くのかの?」
「そうだよ。夜嵐の家はクラスでも結構有名でな、かなりでかい旧家なんだ。ほら、あそこに屋根が見えるだろ?」
「おぉ、あれか!確かに良い雰囲気の家じゃのぉ。ヤマトの家とは大違いじゃ。」
「なら今日からあそこに住んだらどうだ。夜嵐なら大喜びで迎えてくれると思うぞ。」
「我の友はヤマトだけで十分じゃ。他にはいらぬ。」
「さいですか…」
そんなやりとりをしている間に夜嵐の家の大きな門が見えて来た。女子の家にアポなしで訪問するなど普通なら躊躇してしまうところだが、人一人の命が掛かっているのだから細かいことは気にしていられない。
「へぇ、噂には聞いてたが古い家だなぁ…」
築五十年…いや百年はあるだろうか…。無駄に巨大な木製の表門やその後ろにそびえる藁ぶき屋根の家は、嫌でも歴史を感じさせる。
「テケテケ、お前の仲間が何匹か住みついてるんじゃねぇか?」
「複数はおらぬじゃろうが、一個体ならありうるのぉ。」
「お?この家の守り神的な存在とかか?」
「そうじゃの。この家、造りは古いが大切にされているようだからの、おってもおかしくはない。」
テケテケ、悪霊に続き次は旧家の守護神か、俺には見えていないだけで、お化けの系統は周囲に結構いるようだ。
俺はとりあえず古めかしい門に取ってつけたように設置された小さなインターホンを押した。十秒程経つと誰かが応答してきた。
『はい。』
声は大人の女性のものだった。多分夜嵐の母親だろう。
「あの、すみません。池岸という者ですが、夜嵐…きぬさんはいますか?」
『あらぁ、きぬの友達?今日はお客さんが多いねぇ。ちょっと待ってて、すぐに行かせるから。』
そう言って女性はインターホンを切った。
良かった。どうやら夜嵐は家にいるようだ。出かけていたら打つ手がなくなるところだった。
しばらくすると、目の前の門が軋む音を立てながら少し開き、夜嵐が顔を覗かせた。
「ふふふ、いらっしゃい、池岸くん。どうしたの?また本を借りたくなったのかしら?」
「い、いや、ちょっと夜嵐に訊きたいことがあってさ。俺、夜嵐の電話番号とか知らないから直接来るしかなくてよ。悪いな、突然押しかけて。」
「別に気にしないで。池岸くんならいつでも大歓迎よ、ふふふ。」
夜嵐はいつも通り不気味に笑った。
「とりあえず入って。お茶でも出すわ。」
夜嵐は俺を門の中へ招き入れた。中は広い庭になっており玄関まで砂利が敷き詰められている。良く手入れされており、形の良い木々が庭を取り囲むように植えられている。
「すげぇ庭だな…」
「おじいちゃんの趣味が庭いじりなの。すごくこだわりがあるらしくて、少し置石とかを動かすだけですぐ怒るのよ。」
確かに頑固ジジイが住んでいそうな家である。庭の物には触らないようにしないとな。
「それより池岸くん、どうしてランドセル背負ってるの?今日って学校休みでしょう。」
う…やっぱり変だよなぁ…
「い…いやぁ…俺って鞄これしか持ってないんだよな…ははは…」
「ふぅん。そうなの…」
夜嵐はそれ以上追及してはこなかったが、口ぶりから察するに納得はしていないだろう。
「さ、上がって。」
俺は夜嵐に連れられて玄関から母屋に入った。
「そこ、気を付けてね。」
「うおぅ!」
玄関の土間に大きな白い蛇がとぐろを巻いていた。余りに堂々と鎮座しているので驚いてしまった。
「こいつがこの前話に出てたアルビノの白ヘビか。でかいな…」
「ふふふ、『白縄さん』っていうのよ。飼い始めてもう五年くらいになるかしら。」
ペットにさん付けとは、大切にされているのだろう。
白縄さんは俺たちには興味がないらしく、首を上げようともしない。俺は動かない白縄さんの横で靴をぬいで、家に上がった。
「廊下の突き当たりにある部屋が私の部屋だから、先に入ってて。私はお茶を入れて持っていくわ。」
「あ、ああ。」
俺は言われるがままに長い廊下を一番奥まで進んだ。一歩歩くごとにギシギシと床が音を立てる。内装も和風に統一されているようで、廊下の両端には各部屋へと続いているであろう襖が多数並んでいた。
「あら、いらっしゃい。」
廊下の途中で大学生くらいのお姉さんに声をかけられた。声からさっきインターホンに出た人物だと考察できる。声だけだと母親かと思ったが、どうやら姉だったようである。
「どうも…お邪魔します。」
「ふぅん。きぬが男の子を連れてくるとはねぇ。にゃはは、あの子もやるじゃない。」
夜嵐の姉妹にしては随分明るい人だな…
「あ、きぬの部屋はそこだよ~。ゆっくりしていきな。」
「あ、ありがとうございます。」
俺はお姉さんが指した部屋の襖を開けた。
俺は趣味の悪い骸骨とか髪が伸びる日本人形のような気色の悪い置物なんかが沢山飾られている薄暗い部屋を想像していたのだが、夜嵐の部屋はかなりシンプルだった。
窓から差し込む光で部屋は明るく、また変なポスターや置物も一切無かった。
ただ、かなり大きな本棚が一つあり、そこにはびっしりとオカルト関係の書物が仕舞い込まれているようだった。
しかし、俺が何より驚いたのは部屋に先客がいたことだった。
「あら、池岸くんじゃない。おはよう。池岸くんもおきぬに用事?」
「ぐ、久留熊…」
部屋の中央に置かれた机に行儀よく正座してお茶をすすっていたのはあの白いクラスメイトだった。
何故こいつがここに…?
「どうしたの?私がおきぬの家にいるのがそんなに意外?」
俺の驚いた様子を見て久留熊が言った。
「い、いや、部屋に誰かいるなんて思ってなかったからちょっとびっくりしただけだ。ははは。」
そう言いながら俺は久留熊と少し距離を開けた場所に腰を下ろした。
「まさか私以外におきぬの家を訪ねてくる人がいるなんて思わなかったよ。しかも男子。まぁ確かに池岸くんならおきぬが気を許してもおかしくはないけどね。」
「久留熊は結構来るのか?この家に…」
「私とおきぬって実は幼馴染なの。学校ではあんまり絡んだりしてないから気づかないだろうけど。だから昔は毎日のように遊びに来てたの。最近はあんまり来れてなかったんだけどね。」
それは知らなかった。夜嵐と久留熊にそんな接点があったとは…
「それより私は池岸くんがこの家に来たことの方がびっくりだよ。最近おきぬと仲良く話をしているのは知っていたけど。しかもどうしてランドセル?今日休みでしょ?」
くそぅ…家に置いて来ればよかった…
「俺、これしか鞄持ってないんだよ…」
「あ、そっか…火事があったんだよね…。ごめん、無神経な質問して…」
お、なんか久留熊は勝手に誤解してくれたようだ。そうか、火事で他の鞄が燃えたことにすればよかったのか。これはいい言い訳ができた。
「お待たせ。」
部屋の襖が開き、手にお盆を持った夜嵐が入って来た。
「はい、どうそ。」
夜嵐は座っている俺の前に熱いお茶が入った湯呑を置いた。
「おぉ、ありがとう。」
俺は湯気の立つ湯呑からお茶を一口飲んだ。
う…熱い…もう少し冷ましとこ。
「池岸くん、せっかく来てくれたところ悪いんだけど、カジカも私に話があるらしいのよ。池岸くんの話はカジカの後でもいいかしら?」
「あ、ああ、構わないぜ。」
久留熊が夜嵐に話があるだと?ただ遊びに来たわけではなかったということか。
「ごめんね、池岸くん。私もどうしてもおきぬに話しておきたいことがあるの。できるだけ手短に済ませるからちょっと待ってね。」
「気にするな。突然おしかけたのは俺の方なんだから。」
このタイミングで久留熊がわざわざ夜嵐に話があるってことは…
「…おきぬ、私、昨日お化けに会ったの。」
やっぱりな…
予想通り久留熊は昨日の俺たちの作戦について話し始めたのだった。
「まったく…久しぶりに親友の所に訪ねてきたと思ったら、何を言い出すのやら。」
久留熊の話を一部始終聞いてから夜嵐は言った。
「いつも私のオカルト話を馬鹿にしていたカジカの発言とは思えないわね。」
「馬鹿になんかしてないよ。確かに話半分くらいにしか聞いてなかったけど。」
「まぁいいわ。で、その笑う机の話聞いた私はどうすればいいの?」
「おきぬってこの手の話に詳しいじゃない?何か知ってるかと思って…」
夜嵐はそう言われて少し頭をひねった。
「私の知る限りでは机が笑うなんて話は聞いたことがないわね。」
「じゃあ新種のお化けってこと?」
「そうとは限らないわ。大体本当にそれがお化けだったかどうかも怪しいものだわ。」
「え?おきぬ私の話信じてくれてないの?あれは絶対お化けの仕業よ!」
久留熊は力強く言った。ここまで強くお化けの存在を信じてくれているなら脅かした甲斐があったというものだ。
「カジカの話は信るわよ。でも、実際カジカは音を聞いただけでしょう?音なんてお化けでなくても出せるわ。」
「音だけじゃない。ちゃんと証拠だって残ってるんだから!」
久留熊はそう言って手に持っていた小さ目の鞄から二つの物を取り出して机の上に置いた。
一つは『5‐2』と書かれたラベルの付いた鍵、もう一つは電池パックカバーが外れた携帯電話だった。
「何これ?うちのクラスの鍵?」
「そう!それがここにあるってことは、私は昨日確かに放課後あの教室に行ったってことでしょ?」
久留熊はあの後職員室に寄らずに帰った。だから鍵も持ったまま帰ってしまったのだろう。でもだからって、教室に行った証拠にはならないと思うが…
「まぁ、カジカの話が夢ではなかった証拠にはなるわね。」
「う~ん、確かにこっちの鍵は証拠としては弱いかもしれないけど、こっちはどう?ちゃんと雪乃ちゃんからの着信履歴が残ってるんだから。」
取り出した携帯は久留熊の物だったらしい。久留熊は履歴を開いて夜嵐に見せている。
「この携帯、どうして電池の蓋が取れてるの?」
夜嵐は久留熊が見せた履歴には興味を示さずに言った。
「あ、これはね、さっきも言ったけど、私例の電話が掛かってきた時驚いて携帯を投げ捨てちゃったの。その時の衝撃で蓋が外れたみたいでね、本体は今朝探しに行って見つけ出せたんだけど、蓋だけは見つからなかったのよねぇ。」
「へぇ…携帯をねぇ…ふふふ。」
夜嵐はいつもの不気味な笑みを浮かべた。
「何よ、おきぬ。笑わないでよね。」
「悪かったわ。でも携帯を投げ捨てるなんてよっぽど怖かったのね。」
「当たり前でしょ!おきぬと一緒にしないでよ。私は普通の女の子なんだから普通にお化けは怖いよ。」
「ふふふ、失礼ね。」
夜嵐は言葉とは裏腹に不気味な笑顔を絶やさない。
「でね、提案なんだけど…今から学校に行ってみない?」
久留熊が恐る恐る言った。
「?どうして?」
「どうしてって…昨日のお化けの事を調べるために…」
「………」
久留熊のやつ、昨日の今日でもうお化けの調査だと…普通あんな目に合ったらしばらく学校に行くのもためらわれるはずなのに、なんて強い精神力なんだよ。
「…カジカ…よっぽどそのお化けが怖かったのね…」
夜嵐が静かに言った。
おいおい、今の発言をどういう風に聞けば久留熊が怖がってるように聞こえるんだ。
「そうよね、優等生のカジカが教室の鍵を盗んで帰ったなんておかしいものね。こんなこと竜堂さんにばれたらきっとまた疑われるだろうし、ふふふ。」
「はぁー、やっぱりおきぬには隠し事はできないなぁ。そうよ、この鍵、職員室に戻しに行きたいんだけど、私一人だと怖くて…おきぬについてきて欲しいなって…」
そういうことだったのかよ!
どうやら久留熊は昨日の事で俺の想像した以上に恐怖を感じてくれているようである。
「いいわ。カジカ、この鍵は私が預かるわ。あとで学校に返しに行っておいてあげる。」
「え?ほんと?ありがとう!助かるー。さすがおきぬ。」
久留熊は安心したように笑った。久留熊の目的は最初からこのことだったようだ。
「池岸くん、聞いたでしょう?」
「へ?」
急に夜嵐が俺に話を振ってきた。
「私たちの学校にはお化けがいるらしいわよ。」
「そ、そうみたいだな…」
「ふふふ、面白くなってきたわ。やはり学校生活はこうでなくては。」
夜嵐の理想の学校生活は一般的なそれとは大きくかけ離れているようである。
「おきぬ、これからの充実した学校生活はいいとして、私の話も終わったことだし、池岸くんの話を聞いてあげなよ。」
久留熊が夢の学校生活に思いを馳せている夜嵐に言った。
って言うか、久留熊は本当に鍵をどうにかしたかっただけだったんだな…
「そうね。池岸くん、待たせてごめんなさいね。私に訊きたいことっていうのは何かしら?」
ふぅ…ようやく俺の本題に入れる。
「夜嵐ってさ、悪霊の祓い方とかって…わかるか?」
「悪霊?池岸くん悪霊に憑かれてるの?」
「い、いや、俺じゃないんだけどよ。知り合いがな…」
俺もある意味憑かれていると言えなくもないけど…
「ふぅん…テケテケの次は悪霊ね。ふふふ、池岸くんもつくづくオカルト好きねぇ。」
むぅ…否定したいが話がややこしくなるのでやめておく。
「でも残念、私は陰陽師でもエクソシストでもないし、余り詳しいことまでは知らないわ。」
「そうかぁ…」
夜嵐なら知っているかと思ったが、当てが外れてしまったようだ。
「…でも普通、悪霊は聖水をかけたり、お経あげたりして除霊するわね。試してみればどうかしら?」
「試すって…どうやって?」
「本当はお寺とか神社なんかで除霊してもらえばいいんだけど、それだとすごくお金がかかるからね。もっと簡単な方法を教えてあげるわ。ふふふ…」
夜嵐はそう言って傍らの本箱から一冊の本を取り出した。
宮間神社、学校のすぐ近くにある小さな神社である。夜嵐は俺と久留熊をそこへ連れてきたのだった。目的は悪霊の除霊方法を教えるためだそうなので久留熊には関係ないのだが、こいつも休日は暇なようで、興味深々に付いて来た。
「うぅ…嫌な空気よのぉ…。まるで我を拒絶しておるようじゃ…」
背中のテケテケが何か言っていたがとりあえず無視しておく。
休日でも午前中であるためか神社にはほとんど人はおらず、閑散としていた。
「さて、池岸くん、まずはあそこの売店で厄除けのお守りを買いましょう。」
「あ、ああ…わかった。」
俺は夜嵐の言う通りに暇そうに店番をしていたお婆さんから厄除けのお守りを買った。
くっ…お守り一つ五百円かよ…ぼったくりだぜ…
俺の少ないお小遣いでは五百円は痛いが…仕方ないか…
「私も買っとこうっと。」
先日恐怖体験をした久留熊も買うようである。
「ほら、買ったぜ。これ、本当に効くんだろうな?」
「効くか効かないかはあなた次第よ。」
「?」
どういうことだ?
「さ、次は水場に行きましょう。」
神社には手を洗うための小さな水場がある。夜嵐はそこの水を置いてあった柄杓で少し掬うと、自分のポケットから取り出した小さなビンに丁寧に注ぎ始めた。
「何してるんだ?」
「聖水を集めてるのよ。」
「へ?これが?」
聖水というのはもっとこう手に入れにくいものだと思っていたが…
「本当の聖水は朝露を集めたり、吉方で一晩清めたりするのだけれど、そこまでするのは面倒だし、これで十分でしょう?」
…そんな適当でいいのだろうか…
「さて、これで除霊の為のアイテムは揃ったわ。」
夜嵐はビンの蓋を締めながら言った。
「揃ったって…これで全部なのか?」
「そうよ。楽でいいでしょう?」
楽って…除霊アイテムってこんなにあっさり手に入る物なのか…
「はい、これ聖水ね。ビンはあげるわ。元はコロンの容器だけど、シール剥がしたらわからないでしょう。ふふふ…」
コロンて…本当に適当だなぁ…
「じゃあ準備も整ったことだし、除霊の手順を説明するわ。」
「ああ、頼む。」
俺たちは神社の木陰に置かれたベンチに座って除霊の打ち合わせをすることにした。
「まず言っておくけれど、さっき買ったお守りとか今集めた聖水には除霊の効果なんてほぼ無いと思うわ。」
ベンチに座るなり夜嵐はそう言った。
「えぇぇ!せっかく買ったのにそんなこと言わないでよ!」
買ったお守りを早速携帯にストラップのように取り付けていた久留熊が不平を言う。俺も声には出さなかったが内心同じ気分だった。
効かないなら何故買わせたんだよ…
「こんな小さな神社の安いお守りにそんな大層な効力があるわけないでしょう。ふふふ…」
安いって…これでも俺は精一杯の出費なんだが…
「…で?この効力のないアイテムをどうやって除霊に役立てるんだ?」
まさか使わない物を買わせたなんてことはないだろうな…
「ふふふ、効力がなくても使い道はあるのよ。よく言うでしょう?信じる者は救われる。」
「ど…どういうことだ?」
「つまり、厄除けなんて物は実際には効力がなくても、あると信じていれば効力を発揮するものなのよ。要は持つ人の気持ちの持ち方次第というわけ。」
「私、たった今おきぬのせいで信じられなくなったんだけど…」
久留熊はまだ不平を言っている。
「除霊の方法自体は簡単よ。まず、さっきのお守りと聖水を悪霊に憑かれている人に渡す。それからその人の前でお経を読む。以上よ。」
「おいおい待て待て、そんなんで本当に除霊できるのか?」
「それはあなたの演技次第よ、池岸くん。憑かれている人にいかにこれらのアイテムの効力を信じ込ませるか、そこにかかっているわ。」
夜嵐の言いたいことはなんとなく分かる。病人に薬でも何でもない物を薬と偽って飲ませ、まず気持ちから回復させる手法と同じだろう。
しかし、相手は本物の悪霊である。鰯の頭も信心からと言うが、本当に信じるだけで除霊できてしまうものなのだろうか…
「ふふふ…そんな顔していたら相手に不安を与えてしまうわよ。ハッタリでも自信に満ちた顔をしてないと相手に信じてもらえないわ。」
「そうは言ってもよぉ、俺お経なんて読んだことないし…」
「本、貸してあげたでしょう?あれを見ながら読めば大丈夫よ。」
俺は先程夜嵐に手渡された本を取り出した。
『般若心経の教え』表紙にはそう書いてある。
「その本の1ページ目にお経が書いてあるでしょう?ふり仮名もふってあるし、初めての池岸くんでも十分読めるわ。」
確かに本に書かれているお経には全てふり仮名がふられている。
「それに正確に読めなくても要は雰囲気が出ればいいのよ。相手が信じ込んでくれさえすればいいんだから、途中で笑い出したりしなければ多少間違えても問題ないわ。」
簡単に言ってくれるぜ。お経なんか読んだら絶対に噛む自信がある。
「お守りも聖水も特別仕様のとびきり効く物だって言うのよ。間違ってもここで買ったとか五百円だったとか言っては駄目よ。」
「わかったよ。なんとか頑張ってみる。」
まぁ、他に手もないのだ。やってみて損はないだろう。失敗したらその時はその時だ。
「私のできるアドバイスはこれくらいね。参考にしてくれると嬉しいわ。」
「ああ、ありがとう。試させてもらうよ。」
「ねぇ、池岸くん。」
横で聞いていた久留熊が口を挟んできた。
「池岸くんはその悪霊を実際に見たの?」
「いや、見てないけど…」
テケテケに言われただけであって俺自身は見ていない。
「じゃあどうして悪霊が憑いてるってわかったの?」
う…この質問にはどう答えるべきか…。まさかお化けに聞きましたとは言えないし…
「いや…えっと…そうだ!憑かれてる本人が言ってたんだよ。私は悪霊にとり憑かれてるって。だから俺は…」
実際は路改小太刀は悪霊に気づいてさえいなかったが、ここはこう言うしかないだろう。
「ふぅん。でもそれだと本人の勘違いかもしれないじゃない。」
「そ…それはそうだけど…」
くそっ、久留熊め…つまらないことを気にしやがって…
「カジカ、そんなに問い詰めるようなことでもないでしょう。本人が憑かれていると思っているのなら、除霊したと思い込ませればいいだけのこと。悪霊が実際にいるかいないかなんて、議論したって答えなんか出ないわ。」
うぉ…なんて大人の意見…
俺は少し夜嵐を見直した。
「池岸くん、あなたは悪霊がいるかいないかなんて気にしては駄目よ。とにかく相手の気持ちが前を向くようにすること、それから相手に悪霊が退散したと思わせること。それだけ考えていれば大丈夫よ。」
「あ、ああ。ありがとう、夜嵐。」
確かに気持ちを前向きにするというのは重要そうだ。テケテケもそれっぽいこと言っていたしな。
「じゃあ俺そろそろ行くよ。」
「幸運を祈っているわ。」
「頑張ってね、池岸くん。」
俺は二人の少女の声を背に神社を後にしたのだった。
※※※
四年一組出席番号女子20番、路改小太刀
アパート『つれづれ荘』の火災での負傷者、路改悠太の姉であり、自身も火事で逃げ遅れた被害者である。
父親は五年も前に他界しており、母親と弟との三人で暮らしていた。母親の収入は決して多くなく、元々苦しい生活をしていたところに火事が重なり状況はさらに悪化した。
多少補助金が出たとはいえ家財のほとんどを失い、その上弟が入院してしまったことで入院費まで必要になり、いくら節約しても家計は逼迫するばかりであった。仕事と看病、火災の事後処理などで連日多忙の極みに達している母親には小太刀にかまう余裕などなく、ろくにお小遣いも貰っていない小太刀は食事すらまともにとれずにいた。また、火事があってからというもの、ストレスと疲労を溜めに溜めた母親は機嫌が悪く、まともに話もできないため、小太刀は家でも心を休めることができなかった。
そして何より小太刀を苦しめたのは弟を救えなかったという罪の意識だった。弟は命こそ助かったものの、全身に大火傷を負い、今でも意識は戻っていなかった。
ここ一週間の生活と弟への罪悪感は確実に小太刀の精神を擦り減らしていた。
この弱り切った小太刀に追い打ちをかけたのがあの夢だった。火事の後、フィードバックともいえる悪夢を毎晩見るようなった。燃え盛る炎の中に意識を失った弟と共に取り残される夢。その夢はまるで弟を助けられなかった小太刀を責めているようであり、夢の度に目が覚めてしまうので、小太刀は眠れぬ日が続いていた。
小太刀はここ数日で心身ともにズタズタになっていた。何に対してもやる気が起きず、大して動いている訳でもないのに体全体がだるかった。
不幸…だなぁ…
アパートの階段に座って小太刀は思っていた。
悪霊か…そんなものが原因であるならどんなに楽だったことか…
小太刀はさっき声を掛けてきた隣人の言葉を思い起こした。
君は悪霊に取り憑かれている…あの隣人は戻って来るなりそう言った。
そしておもむろにポケットからお守りと小瓶を取り出して小太刀に渡したのだった。
これはある筋から手に入れた強力なお守りと聖水だ…とかなんとか言っていた。
お守りを身に付け、寝る前に聖水で手を洗うようにとも言っていた。
小太刀はさっき渡されたお守りを裏向けてみた。『宮間神社』という刺繍が入っている。聖水が入っているという小瓶の裏には小さな文字で『○×製薬』と書いてあった。
近所の神社と某有名製薬会社の名前である。
こんなもので不幸でなくなるなら、世界中から不幸な人なんていなくなってしまうだろう…
二つの品を小太刀に渡した後、隣人は今度は本を取り出してたどたどしくお経を上げはじめたのだった。隣人は途中噛みに噛んでいたので、小太刀には初めそれがお経なのか何なのかさえ分からなかった。隣人の持っている本が『般若心経の教え』というタイトルであるのを見てやっとお経であると判別することができたのだった。
あんなに詰まってばかりでは効くものも効かないだろう。
お経を最後まで読み終えた隣人は小太刀の顔から小太刀が話を全く信じていないことを察したのだろう、少し悲しそうな表情をした。
そしていきなり両手で小太刀の頭をつかんで、俯いていた小太刀の顔を上に向かせた。そして半ば無理やり視線を向い合せ、大声でこう言ったのだった。
「俺にできるのはここまでなんだ。ここからは君次第なんだ。信じられないかもしれないが、お願いだから俺を信じてくれ!」
それだけ言って隣人は小太刀の頭から手を離し、黙って自分の部屋へと帰って行った。
隣人が部屋に戻った後、小太刀はしばらく呆然としていた。
頭を急につかまれて驚いたというのもある。しかし、小太刀が一番驚いたのはあの隣人が本当に真剣に小太刀の事を心配してくれているということだった。隣人の最後の言葉の意味はよく分からない。また、どうして隣人が小太刀の心配をしているのかも分からない。でも、隣人の気持ちだけは強く強く伝わって来たのだった。
「そうですね…せっかくあそこまで心配して下さっているのですから、池岸様を信じてみることにしましょうか。」
隣人のくれたお守りや聖水が効くとは限らない。いや、多分全然効かないだろう。でも、自分を心配してくれている事は嬉しかった。
小太刀は立ち上がり、自分の部屋へと続く階段を上がった。その手に先程隣人に渡されたお守りと小瓶を強く握りしめて。
小太刀は燃え盛る部屋にいた。
周囲は完全に炎に囲まれてしまっている。視界は悪く、出口を確認することができない。全身からは多量の汗が正に滝のように流れ落ちる。さらに身を焼くような熱気と立ちこめる煙によって、小太刀は今にも意識を失ってしまいそうだった。
しかし、小太刀は気絶するわけにはいかない。
小太刀は傍らで気を失っている弟の悠太を見た。
ここで小太刀まで倒れてしまっては二人共死んでしまう。なんとか悠太を連れて外に出なければ…
懸命に悠太を持ち上げようとするが、汗で滑ってうまくつかめない上、小太刀の細腕では重くて持ち上がらなかった。
火事場の馬鹿力は小太刀にはないのだろうか、それとも馬鹿力を出しても小太刀の力はこの程度ということか…
悠太の体は石のように重く、持ち上げるどころか引きずって動かすことすらできない。
「悠太!悠太!お願い!目を覚まして!」
必死に顔を叩いたり、肩を揺すったりしたものの、悠太が目を覚ます気配はない。
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう…
気持ちばかりは焦るが、どうすることもできない。炎は更に勢いを増し、脱出は既に絶望的になっている。状況は悪化するばかりである。
目と鼻の先まで迫った炎から火の粉が飛び、悠太の服を発火させた。
「だめ!だめ!悠太起きて!」
悠太に燃え移る火を手で叩いて消しながら小太刀は叫び続けた。しかし、そんな抵抗もむなしく、悠太の服にどんどん炎が燃え広がる。
もう…駄目……悠太…
全身が空気を欲しがっているのに、上手く呼吸ができない。そのせいか体が思うように動かない。視界が霞む…
限界だった。小太刀はこれ以上意識を保つことが出来そうになかった。
…誰か…誰か助けて…
ガランガランガランガランッ!
突如小太刀の耳元で大きな音がした。
その音で小太刀は失いかけていた意識を取り戻した。
「何?」
小太刀の目の前に鉄製のバケツが転がっていた。学校の掃除に使うあれである。今の音はこれがどこかから落ちてきた音らしい。
小太刀はなんとなくそのバケツを拾い上げた。長時間炎を浴びていたはずのそれは、なぜかひんやりと冷たかった。
「あれ?」
バケツの持ち手に何かからまっている。どうやらお守りのようだ。神社に売っているような厄除けのお守りがバケツに固く結びつけられていた。
小太刀はこのお守りにどこか見覚えがあった。どこで見たのかは思い出せなかったが、なぜだかとても大切な物だった気がした。実際、お守りを見た途端、さっきまで朦朧としていた意識がはっきりと覚醒していた。これならまだ何かできるかもしれない。
しかし、今さらバケツだけを手に入れたところでどうすることもできない。せめてこのバケツに水を入れることができれば…
小太刀は周囲を見渡した。キッチン台は炎に包まれていて確認することもできない。
…どこか…どこかで水を…でないと悠太が…
こうしている間にも悠太に燃え移った炎は広がり続けている。急がなければ。
「えっ?」
悠太の傍らに何かが生えていた。何だろう、さっきまでこんな物なかったのに。
それはなんと水道だった。よく公園の端などに設置されている野外用の水道が、倒れている悠太のすぐそばに立っていたのである。
このタイプの水道が室内にあるのはかなり不自然だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。小太刀がバルブを捻ると蛇口から勢いよく水が出た。その水をバケツで受ける。水はみるみるバケツを満たしていった。
しかし、最初こそ勢いのあった水道だが、ちょうどバケツ一杯分の水を放出した途端ぱったりと止まってしまった。
どうやらバケツ一杯の水でこの状況を乗り切らなくてはならないらしい。
どうしようどうしよう。
考えている時間はない。とにかく行動しなくては。
小太刀はバケツの水のうち半分を倒れている悠太にかけた。そしてもう半分は自分の頭から被った。
水は驚く程冷たかった。周囲の熱気で火照っていた肌が一気に冷える。
よし、これならいけるかも。
小太刀は先程はビクともしなかった悠太の体に再び手をかけた。燃え移った火はバケツの水で消えている。悠太の肩に手を通して体全体に力を入れる。今回はなんとか持ち上げることができた。
「悠太…行くよ。」
小太刀は持ち上げた悠太を背中に負ぶって、出口までの立ちふさがる炎に飛び込もうと身構えた。
『待て!』
突然小太刀の背後から声がした。
「誰っ!」
小太刀が振り返ると、そこには巨大な火の玉があった。火の玉は周囲の炎を巻き込んで膨らみながら低い声で言った。
『逃がさん。逃がしてなるものか!』
小太刀の周りの炎が一気に大きくなり、小太刀の体の周りを渦巻き始めた。
熱い。身が焦げるようである。
…こんなところで…諦めるわけには…
小太刀は足元に置いてあったバケツをつかんで炎の渦に向かって振り回しながら、出口の方向に突進した。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
小太刀は叫びながら炎の中を走った。顔や体に降りかかる火の粉が熱かったが、そんなことは気にしていられなかった。背中の悠太の重みでさえ今は気にならなかった。
本当なら焼け死んでしまうような無謀な行動だったが、炎は何故かバケツを避けるような動きをしたので、小太刀はなんとか部屋の外へと続く扉の前にたどり着くことができた。
よし、ここを出れば…
…しかし、扉は開かなかった。
鍵が閉まっているわけではない。それなのに何度取っ手をガチャガチャ回しても扉はビクともしなかった。
「そんな…」
炎の渦はすぐ後ろまで迫っている。
ここまで来て…
『逃がさん!逃さんぞ!』
後ろで声がしたと同時に巨大な火の玉が小太刀の方に向かって鉄砲玉のように突っ込んできた。小太刀はとっさに手に持っていたバケツで火の玉を弾いた。弾かれた火球は壁に当たり、壁が大きな音を立てて崩れる。
『くそぉ…護符とは小賢しい真似を…』
どうやら炎や火の玉はこのバケツが苦手なようである。
そうか…もしかしてこの扉も…
小太刀は手に持ったバケツを振りかぶって、思いっきり扉に打ち付けた。
カーン!
バケツの金属音と共に今までビクとも動かなかった扉が大きく震えた。
やはり、この扉もバケツに弱いようである。
『やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!』
後ろで火の玉が叫んだ。途端に小太刀の周りを炎の渦が取り囲む。
急がなければ…
小太刀は連続してバケツを扉に打ち付けた。打ち付ける度に扉は軋む音を上げ、少しづつ開き始めた。しかし、炎の渦は容赦なく小太刀と背中の悠太に襲い掛かる。小太刀は自分の肌が焼けるのを感じながらも、力一杯バケツを振るい続けた。肉が焦げる嫌な匂いがする。
はやく…はやく開いて…
『やめろぉぉぉぉぉ!』
何度も打ち付けるうち、バケツは凹み、ボコボコになっていた。しかし、扉の方も既にボロボロで後数回の打撃で崩すことができそうだった。
小太刀と悠太の体はもはや火だるまになっていた。バケツを持っている手でさえ、皮が焼け落ち、熱は骨まで達していた。それでも小太刀は諦めなかった。
次で…次の一撃で扉を壊す!
『やめてくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!』
後ろに火の玉の叫び声を聞きながら、小太刀は全身に残された力を全て振り絞って、扉に最後の一撃を振り下ろした…
※※※
「…ここで目が覚めたのです。」
日曜日、俺はアパートの部屋の前で路改小太刀の話を聞いていた。
「じゃあ、結局火災現場からの脱出はできたのかどうなのかわからねぇな。」
話の内容はもちろん例の夢の事である。どうやらこの少女は昨日も同じ夢を見たらしいが、夢の内容がいつもと少し違っていたそうだ。これは昨日の夜嵐直伝除霊法が効いたということなのだろうか…
「そうですね。確かに部屋から出る直前に目が覚めてしまいましたから、そのあとのことはわかりません。でも、私は脱出できたような気がいたします。」
「ん?そりゃまた何故?」
「あはは、なんとなくですよ、なんとなく。そんな気がするだけです。」
「そうか。」
悪霊が憑く憑かないは気持ちが大きく関与するとテケテケも言っていた。脱出できた気がするというのは、除霊が成功したと考えてよさそうだ。何より昨日の様子からは想像もできないような路改の明るい表情が、悪霊が去ったことの何よりの証拠だろう。
「池岸様、本当にありがとうございます。池岸様に頂いたお守りのおかげです。これ、本当に効くんですね。」
「あーごめん。そのお守り、実は四丁目の宮間神社で買った安物なんだ。多分効力もほとんどないと思う…」
「知っておりますよ、そんなこと。」
路改はさらりと言った。
「え?」
「ほら、お守りの裏に神社の名前が刺繍されていましたから、すぐにわかりましたよ。」
うわー…恥ずかしい…
「聖水もコロンの容器に入っておりましたし、正直申しまして私は昨日の池岸様のお話はほとんど信じておりませんでした。」
うー…やはり俺の大根芝居では人を騙すことはできなかったようだ。
横に置いてあるランドセルの中でテケテケが大笑いしているのが、めちゃくちゃむかつく。
「あはは、そんな顔しないで下さい。今は信じておりますから。ほら、今だって首にかけて持ってるのですよ。池岸様の言いつけ通り、肌身離さず身に付けているのです。」
「ははは…そりゃどうも…」
その時、路改の部屋の中から路改の母親が顔を出した。
「小太刀、こんなところにいたの?そろそろ準備しなさい。」
「はい、ただいま。」
路改が元気よく返事をする。
「今日は弟のお見舞いに行くのです。今朝弟の意識が戻ったと病院から連絡があったものですから。」
「おぉ、そりゃよかったじゃねぇか。」
「はい!これから弟が元気になるまで私が世話をしてあげようと思っているのです。」
「それは良い考えだな。弟君も喜ぶだろう。」
この姉は夢の中で弟を救えたのだ。きっと現実でも救うことができるだろう。
「それでは私はこれで。池岸様、いつかお礼をさせて下さいね。」
「お礼なんて気にするな。弟君によろしくな。」
「はい。では!」
路改は扉の前で深々と俺に礼をして、部屋に戻って行った。
「テケテケ、除霊は成功したみたいだけど…もう安心してもいいんだよな?」
俺は路改の姿が部屋の中に消えるのを見届けてからテケテケに話しかけた。
「ほほほ、そうじゃの。悪霊も消滅したようだし、何よりあの娘の顔に生気が戻っておったからの、もう心配ないであろう。」
「そうか、よかった。」
隣人死亡は回避できたようだ。これで枕を高くして寝れるってもんだ。昨日は色々考えてしまって余り眠れなかったからなぁ…
「あ、すまん。テケテケにとっては仲間だったんだよな…」
「気を使わずとも良い。同族と言えど、我と悪霊とでは動物と植物程の違いがある。あの悪霊一匹消滅したくらいで我の感情は揺れたりせぬ。」
動物と植物って…それはもはや同族と言えないのでは…?
「そんなに違うなら手伝ってくれても良かったじゃねぇか!」
「ほほほ、良いではないか。こうして我の手を借りずとも解決できたのじゃから。」
「今回はできたけど、できなかたったかもしれないだろ。」
「ヤマトよ、我とてそこまで非情ではない。ヤマトの一友達として、ヤマトが救いたがっておる者が危機に陥れば何とか手を貸してやる心づもりくらいはあったぞよ。」
本当かねぇ…
「しかし、これだけは分かって欲しい。我に関連のないモノと者との関係に割って入ることは極力避けねばならぬ。これは我らの暗黙の掟のようなものなのじゃ。」
「わかったわかった。無理言って悪かったよ。」
人間の世界にルールがあるように、お化けの世界にもルールがあるのだろう。それは仕方ないことだ。
「それにヤマトよ、今回は我が介入しなくて正解だったと思うぞよ。」
「ん?なんでだ?」
「自然な形で悪霊を消滅させることができたからのぉ。」
「自然な形?」
消滅に自然とか不自然とかあるのだろうか…
「そうじゃ。悪霊や我らおばけはお主ら人間の感情で形成されておる精神体じゃ。あの娘ならば火事のトラウマを苗床にして悪霊が憑いたと言えるであろう。それゆえ、あの娘がそのトラウマを克服することこそが一番自然な除霊法なのだということじゃ。」
ふぅむ…確かに苗床ごと排除した方が理想的である。
「仮に我があの娘から悪霊を無理矢理引っぺがしておったなら、悪霊自体は去れどあの娘のトラウマは残ったままであろう。苗床が残っておればまた別の悪霊が憑かぬとも限らぬ。それにさっきの笑顔は取り戻せておらなんだであろうな。」
なるほど…それは言えているかもしれない。
「でもそれは結果論だろ。もし路改の精神が悪霊に負けてたら、死んでたかもしれないんだぞ。」
「昨日も説明したが、悪霊は決して宿主を直接殺そうとはせぬ。それにあの娘の場合はそこまで末期でもなかったぞよ。もちろんあのまま何もしなければ死んでいた可能性は高いが、昨日今日でポックリ逝ってしまうこともなさそうだったからの、お守りと聖水を持たせて様子を見る位の余裕はあったのじゃ。」
「お守りと聖水って…あれには効力なんてねぇんだろ?路改も俺の話を信じてなかったみたいだし…」
結局悪霊を退けたのは路改の精神力であって、俺のやったことはただのきっかけに過ぎなかったのだ。
「ほほほ、あの夜嵐とかいうインチキ占い師はそんなことを言っていたようであるが、お守りも聖水もキチンと効力はあるぞよ。そうでなければあの娘の夢にお守りや水がこれ見よがしに出てきたりするわけなかろう。」
マジかよ…あんな有り合わせの除霊グッズに効果があったとは…
「何だよ。夜嵐の言ってたことは間違ってたのかよ。」
「ほほ、確かにあの占い師はお守りや聖水の力を甘く見ていたようじゃの。しかし、話自体はあながち間違いではなかったぞよ。実際一発で悪霊を除霊してしまうような劇的な効果はなかったわけじゃし、除霊に置いて一番大切なのが本人の気持ちの持ち用であるというのは正しい訳じゃしの。」
「ん?お守りが除霊したわけじゃねぇのか?じゃあお守りと聖水は何をしたのさ?」
効果が薄くて除霊できないアイテムが何の役に立ったというのだろう。
「あれらは言わば蚊取り線香じゃ。悪霊を仕留める程強力ではなかったが、一歩退かせることくらいはできたと言えるのぉ。それにより五里霧中であったあの娘に少しだけ光が射したのであろう。あとは娘が光に向かって走ったということじゃの。」
蚊取り線香ねぇ…確かに路改の話では炎がバケツを避けたとか言ってたな。
「へぇ…そんな効力があるなら俺もあのお守り持っとこうかな。そうだ、ランドセルに付けとけば良く効く気がするなぁ。」
「っ!ヤマト、お主、本気ではあるまいな!」
「さぁねぇ、テケテケがあんまりワガママばっかり言ってたら、そのうち本気でやるかもよ。」
「……き、気を付けるぞよ…」
これはいい脅し文句ができたぜ。
「さてと、そろそろ母さんを起こしてやるかな。」
今日は昼から母さんと買い物に行くことになっている。火事で燃えてしまった家財を揃えに行くのだ。
もちろんランドセルは置いて行く予定である。
次話もよろしくお願いします。