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アナテマ  作者: はるた
第四章
98/124

25 悪魔は甘くささやく

 思えば、あの時――どうして急に姉に会いに行こうなどと思い立ったのか。

 行ってどうなるわけでもない、遥か昔に姉の骸を埋めたあの場所へ。


 セスは雨風に削られ、なぜ未だにそこにあるのか不思議なほどぼろぼろの石碑の前に立っていた。いや、石碑などと呼べすらしない、ただの石の前に。

 今はもう読めはしないが、その石には名が刻まれている。自分でその名を彫り、自分で亡骸を埋めた。

 『リーシャ』――久しく口にしていない名前。そしておそらく、これからも口にすることはないだろうと思っていた名だ。


 セスは暗黒戦争が終わった後、大抵の時間を一人で生活していた。

 死んだ姉の他にも家族――もとい、生活を共にする仲間はいたが、戦争が終わった後自然と散り散りになっていった。元々魔人族は家族の情というものに縛られる生き物ではないし、戦争のために一時的に集結していただけのようなものだった。

 全ての時間、一人だったわけではない。気まぐれに他の群れに入ったり、同行者を伴ったり。しかしそのどれも長くは続かなかった。しばらくすると、誰かと一緒にいる必要性を感じなくなるのだ。


「一人が寂しくないか?」


 背後から聞こえてきた声は、誘うように甘く、そして神秘的に響いた。

 振り向くと、そこには一人の少年――少女のようにも、もっと年長のようにも見える、不思議な容姿をした人物が立っていたのだ。

 気配を感じなかった不覚を認識するより、セスは()の超然とした美貌に思わず見惚れていた。

 流れ落ちる白銀の髪、吸い込まれそうな闇色の瞳――不敵な笑みを浮かべる唇は、花の色をしている。

 何よりも、性別や年齢のよくわからない神々しさ。セスは()がヒトではないと本能的に感じていた。


「私は聖霊族のネオス」


 と、セスの思考を見透かして()は名乗った。


「聖霊族……」


 聖霊族はエーゼスガルダにおいて、神の一族として伝説的な存在であるが、実物を見るのは初めてではなかった。

 以前に親交と呼べるものがなかったわけではない。今はもう思い出したくないある男の、育て親というのがその聖霊だったのだ。


「お前はルシナと最も親しかったのだろう?」


 その名を聞いてセスの表情が強張るのを、ネオスという聖霊はおもしろそうな目で見た。


「違う。あいつと一番親しかった人は、この石の下にいる」

「お前の姉だろう? 名は……リーシャ」

「なぜそんなことを……」

「親に教わらなかったか? 私たちは人間の思考を読むことができる」

「……そういえばそうだったかな。僕には関係ないし、興味もない」

「そうも言っていられるかな? セス――私はルシナを追っているのだ」


 セスは眼を細めて、ネオスを見つめる。

 異次元からこちらを見ているかのような、ネオスの深い紫の眼――セスが視線を逸らすのに、時間はかからなかった。


「それが何?」


 と、せめてぶっきらぼうに応酬をする。


「お前の協力が欲しい。ルシナを捕える機会があったのだが、不覚にも逃げられてしまった。どうもセルドナへ行ったらしい。セルドナ人に聖霊の力が知られるわけにはいかないし、環境が違うと色々と面倒だ。お前はルシナの性格や行動もよく知っているだろう?」

「言っただろ――僕には関係ない。あの人のことも――」

「もちろん代価は与える。――契約をしよう」

「契約?」


 この時聞き返さなければ――あるいは運命は変わっていたかもしれない。

 しかし、尋ねずにはいられなかったのだ。あの美しい聖霊の妖しい魅力が――甘く優しい悪魔の声が、そうさせた。


 ネオスは繊細な指で、セスの背後の石を指した。


「お前が一番望むもの――ルシナに奪われたものを、蘇らせよう」


 もしこれを言ったのが他の誰かなら、笑い飛ばしたに違いない。

 死者を生き返らせるなど、不可能だと。普通なら、そう思った。


「……馬鹿な」


 そう返した声は、少し震えていた。

 もうすでに、魔術にはまっていたのだと――今ならそう思う。


「可能だ。私ならば」


 柔らかい声でネオスは言葉を紡ぐ。


「あの男に奪われたものを取り戻したいとは思わないか? たった一人の姉を殺した男を、お前は許せるのか?」

「…………」

「己を解放しろ。自分の心に問いかけるがいい。今のお前を縛っているあの男は――お前の心にどのような傷を付けた? お前の眼に、どのような姿に映る? あの男を……どう思っている?」


 理性が叫ぶ。これは罠だ。誘惑するための嘘にすぎない。

 しかし悪魔の甘い声は、セスの理性をあっさりと消した。

 

「僕は……ルシナを――」


 その瞬間、ネオスの笑みは変わった。獲物を仕留めた獣のそれに。


   * * *


 空想の聖殿の中は、異様な静寂に包まれている。

 リリィたち四人は大人しく冷たい床の上に座っていた――、否、座らされていた。

 手足が拘束されているわけでもない。しかしそこから動くことはできない。――ネオスの呪縛によって。


「……ネオス」


 じっと睨みながら、リリィが銀髪の聖霊の名を呼ぶ。


「なんだ?」


 呼び掛けに応じた彼の声は上機嫌に聞こえた。


「一体何をする気なの。なぜさっさとあたしたちを始末しないの?」

「余興のために、お前たちが必要だからな。それにヒトの命を奪うことはできん」

「……あなたがさっき言ったこと……」


 ネオスは嫣然と笑ってみせる。


「時間稼ぎが下手なようだね、リリエル? なるほど、心を読めずともお前の思考は手に取るようにわかる。呆れるほど真っ直ぐで正直だ」


 からかうように考えを見透かされて、リリィは唇を噛んだ。

 一方のネオスは、身に浴びせかけられる呪いの視線など意にも介さず、片手で宝玉を弄んでいる。


「この風景、なかなか見物だな。馬鹿みたいに綺麗に並んで、とてもおもしろいよ」

「てめーの力のせいで動けねえんだろうがっ」


 ネオスの笑い声にレムは悪態をつくが、首から下を動かすことはできない。

 リュカはレムを視線でなだめ、再び静かにネオスを観察し始める。

 そしてリリィと視線を交わす。どうするべきか――ネオスは今度こそルシナを捕える気だ。もう時間はない。


 セスは無表情の仮面の下で、考えを巡らせていた。

 この状況をどうやって打開すべきか。聖霊の力という反則技がある限り、こちらに成す術はない。

 しかし、口だけは自由だ。話術でネオスの気を逸らし、この呪縛を破ることができれば――。

 そこまで考えてふと思い留まった。

 以前のネオスだったら、その方法も有効かもしれない。不覚をとったこともあったが、少なくとも狡猾さと口先は自分の方が上手である自信はあった。

 でも、今は?

 今のネオスは明らかに以前とは違う。本人の言う通り思慮深さを得たのなら――あの余裕のある微笑、超然とした姿には、人智の及ばぬ何かがある気がして、迂闊に飛び込むのはあまりにも危険に思われた。


「どうだ、セス? 私を倒す良い方法は見つかったか?」


 ネオスが穏やかな声を投げかけてくる。

 彼にとって他者の思考を読むのは、あまりに簡単なことだった。

 

「あんたこそ、こんな所で暇そうにしてていいのかい? ルシナを迎えに行かなくて」

「そう急ぐ必要もない。弱った獣を捕えるなど、容易なことだ」

「余裕こいてると足元をすくわれるよ。あんたのお仲間も、そうやってルシナに殺されたんだろう?」


 その言葉に、ネオスは口の端を吊り上げて笑う。

 だめか――内心、セスは舌打ちをした。

 昔のネオスならば、仲間を侮辱されればすぐに表情を消していただろうに、目の前の聖霊はいささかも動揺した様子はない。

 くすくすと笑って言う。


「やはりお前はおもしろいな」

「……それはどうも」

「セスよ。もう一度私と共に戦わないか?」

「あんたと戦友になった覚えはないんだけどね」

「私には不思議でならない。なぜお前はあの男に味方をしている? 姉を殺した憎い男と、そいつに惚れている女に?」

「……僕は自分の意志でここにいる。あんたにとやかく言われる筋合いはない」

「リリエルに惚れたからか? つくづく恐ろしいものだ、“愛”とやらは。お前の姉も、レイハも、それで己の運命を狂わせたのだからな」


 宝玉をいじる手を止め、ネオスは立ち上がった。音もなく床を蹴りふわりと宙に浮いたかと思うと、セスの目の前に降り立っていた。


「ネオス! 何をする気なの」


 リリィの声などネオスは全く気にも留めず、セスの顎をつかんで上を向かせた。


「あの時の“契約”はまだ有効だぞ」


 それをネオスが口にした瞬間――セスの表情が凍りついた。それは彼が今までに一度も浮かべたことのない、強張った表情だった。


「セス……? 契約って……」


 リリィの言葉すら聞こえない様子で、セスの赤い眼は優艶に笑う悪魔を映している。


「私はお前の全てを知っている。過去も、記憶も、何もかもすべてだ。お前は一時の優しさに、自分をだまそうとしているだけ。そこの女を愛していると思えば、心の底の黒い気持ちを抑えられるから」

「何を言っているの――セス、しっかりして!」

「そんなもので忘れられるほど、お前が望んでいたものは優しくはないだろう? 選ぶだけだ――自分をだましてこの女たちについていくか、あの男にお前の痛みを味わわせ、欲しいものを手にするか。答えは決まっている」


 ネオスの声は甘く優しく、セスの耳をくすぐる。


「セス、一体どういうことだ!?」

「なんだよ契約って……説明しろ!」

「外野は黙っていることだ」


 ネオスがリュカとレムの方を指差す。

 見えない手によって口をふさがれたかのように、二人は声を発することができなくなった。


 リリィはすがるような瞳でセスを見ている。

 何が起きているのかわからない。けれども確かな不穏な気配を感じて――。


 おもむろにネオスは宙に手を差し伸べた。

 空気に漂う薄闇が凝縮し、ネオスの手に集まる。それは以前、レイハがリリィに自らの力を込めた剣を託した時に似ていた。


 次の瞬間、ネオスに握られていたのは漆黒の――この世の暗黒を煮詰めたかのような、そんな不吉な色をした刃を持つ短剣だった。

 ネオスが短剣から手を離すと、それはそのまま空中に漂い、セスの目の前まで一人でに降りて行った。

 まるで、その手で握れとでも言うように。


「決めるのはお前だ。もしお前が本来の目的を遂げようと言うのなら――歓迎しよう」


 セスはうつむく。

 そして顔を上げるのに五秒もかからなかったが、その時間はあまりにも長く感じられた。


「……決まったようだな」


 ネオスは満足げに笑う。


 セスの端正な顔は暗く――しかしわずかな笑みを刻んでいた。

 それは確かに、リリィが最初にセスに対して持った印象通りの――毒のある、けれども無邪気な少年のような笑みだった。


「セス……」


 かすれた声でリリィが呟く。


 セスは彼女を見た。すがるようなリリィの表情を捉えた時、ほんの少し彼の瞳は細められた――寂しげな色を滲ませて。


 そして、唇を動かす。しかし発せられたはずの声は空気に溶け込んで、リリィの耳には届かなかった。


 体の拘束を解かれたセスは、ゆっくりと浮いている短剣を手に取った。

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