19 朱の世界(2)
「!?」
イーズの声がした方向を見た。
イーズは少し離れた所にいるので、茂みが邪魔になって彼の姿は見えない。
「イーズさん!? 何があったの!?」
彼の絶叫が響いた後、その場には異様な静寂が立ち込めていた。呼び掛けても、返答はない。
(一体……どうしたっていうの!?)
何が起こったのか、全くわからない。突然叫んだイーズの身に何があったのかも……
しかし、鋭い感覚を持たないリリィでも異常事態であることはわかった。ほぼ無意識のうちに腰の剣に手を這わせ、柄を握り締める。
慎重に足を前へ動かして、イーズがいた場所へ進む。
ざわりと吹く風が不吉な気配と臭いを運んでくる――。
リリィは茂みの間から眼だけを覗かせ、それを見た。
仰向けに横たわるイーズの体。濁った彼の瞳は見開いたまま瞬きもしようとしない。
彼の胸は真っ赤に染まっていた。そう、彼自身の血で。
ぐちゅり。
何かを啜っているような、柔らかいものを舌で舐めているような音。
リリィは確かに見た。
イーズの胸に顔を埋める化け物を。それは顔を上げると、血色にぎらつく視線をリリィに向けた。
「――!!」
気配を隠していたことも忘れ、声にならない叫びを上げる。
信じがたい光景に目を奪われながらも、剣によって研ぎ澄まされたリリィの感覚は、背後から迫る何かの気配を肌で感じ取っていた。
それを感じると同時に、剣を振り向きざまに大きく振る。意識してそうしたわけではない。リリィの手に吸い付いた剣が意志を持って行動したかのようだった。
リリィへ迫っていたそれは、剣の一閃を避けるために大きく後方へ飛んでいた。
「――ったく。狩りの途中で獲物を喰うなっていつも言ってるだろうが」
リリィの剣をよけたのは、少年だった。リリィと同じ年くらいに見える。
彼の双眸は鮮やかな赤に煌めいていた。よく見知った色。セスやルシナの――。
(魔人!?)
「ごめんごめん。久しぶりだったから、ついね」
イーズに血で口元を染めている少女が笑いながら言った。
その赤眼の少女こそ、イーズの体を貪っていた化け物の正体だったのだ。
「二人かあ。皆のところに持っていったら喜ばれるね」
「一人だろ。そいつはお前が喰っちゃったんだから」
「えー、まだ残ってるもん」
無邪気な会話。よく見れば、少女は人間でいえば十歳程度の年頃だった。それがイーズの命を一瞬で消し去り、彼の肉を喰らったのだ。
(どうする――どうする!?)
一瞬でも動けば殺される。二人から放たれる殺気を一身に受けながら、辛うじて視線だけを動かす。
魔人が二人。まともに戦って勝てるはずがない。戦闘慣れしていないリリィは逃げ出すことさえ難しいだろう。
殺される。
今か? 一秒後か? 一分後か?
逃れられない。この二人から。自分に定められた死の運命から。
全身を嫌な汗が伝い、呼吸さえままならなくなる。恐怖に全身が震えだした時、右手に握る剣がどくんと脈打った気がした。
(!)
じんわりとした温かさが伝わってくる。
(レイハ――)
負けるな。そう言ってくれた気がした。
リュカたちはかなり離れたところにいる。助けには来てくれないかもしれない。それでも、その可能性に賭けるしかなかった。
今するべきこと――それは、助けが来るまで生き延びることだ。
(光を!!)
剣を両手で握り締めてそう願う。
リリィの心の声に呼応し、刀身が一瞬で眩い輝きを放った。
「!!」
不意の閃光に、目の前にいる魔人の少年が怯む。この一瞬しかない!!
歯を食いしばり、大きく踏み込んで剣を突き出す。ありったけの力を、と願いながら。
魔人を殺すには首を刎ねるか心臓を破壊するしかない。リリィが選んだのは後者の方法だった。
貫くのだ。この剣で、少年の体を。
(殺す――殺さなきゃ、あたしが殺される!!)
殺意を持って剣を人に向けたことなどない。平和に暮らしてきた少女の生活に、命のやり取りなどあるはずがなかった。
動物を殺したことさえない。そんなリリィが、殺意を剥き出しにして剣で他人を貫こうとしている。
切っ先が少年の胸に届くまでの間、リリィの心が剣の鋭さを鈍らせた。躊躇してはいけないと思ってはいても、理性がそれを止めずにはいられなかったのだ。
「――っ!!」
できない。
死の覚悟をしたと同時に、このようなことになる覚悟もしたはずだった。それなのにできない。仲間の命も危険にさらされているというのに。
少年の顔が獲物に狙いを定めた獣の笑みに変わった。
素手で軽く剣を薙ぎ払い、武器を失ったリリィへ悪魔の爪を剥き出しにした。
少年の右手は真っ直ぐにリリィの心臓へ向かう。
(死ぬんだ、あたし――)
その一瞬が限りなく長い時間に思えた。
記憶という記憶が脳裏に蘇る。ああ、これが走馬灯か――ぼんやりとリリィはそんなことを考えていた。
母の記憶、ロザリア家での思い出――そして浮かんだのは――。
(ルシナ……)
穏やかな微笑を浮かべる彼の姿だった。
(ごめん、ルシナ、レイハ……あたし――助けてあげられなかった)
視界が紅く染まった。




