8 恐れ
数時間後、ルシナとリリィは目的地のイグリスに辿り着いた。
あの後、ルシナの指示で、ルシナとリリィ、リリィを襲った刺客、巻き込まれた若い男女を乗客に、馬車はそのまま走り出したのだ。
道中、馬車の中には緊張した沈黙が張りつめていた。
ルシナはジスパの遺体の傍に座り込み、ガトーは脱力して壁に寄りかかっている。リリィはその二人とは離れた場所に座っていた。
ヘルムート・ロザリアがリリィの命を狙っている――。
リリィは兄と親しくなかった。それどころか、父親と同様、ほとんどまともに言葉を交わしたこともない。
しかし、嫌われているわけではないと思っていた。ただ単に、自分に無関心なだけだと。
今思えば、その考えはおかしかったのだ。
古くから続く高貴な一族に、自分のような、貧民の母を持つ土にまみれた娘が入り、受け入れられるはずがなかった。
ヘルムートは最初から、汚れた血を持つ娘と自分を侮蔑していた。当然だった。
ガトーの発言はリリィに衝撃を与えた。しかしそれよりも――。
ルシナは迷わず引き金を引き、今はただの物のように転がっているジスパの命を奪った。
彼は記憶を失っている。しかし、あの無駄のない動きは、明らかに人の命を奪うことに慣れている者の動きだった。
記憶がなくとも、体が命を奪う一連の動作を覚えるほど、彼にとって人殺しは当たり前のことだったのだろうか。その白く美しい手を、赤い血で染めてきたのだろうか。
それに、あの笑み――。
リリィが今まで見た誰のどんな笑いより、美しく残酷な笑みだった。
あれを見た瞬間、体が凍ったように動かなくなるのを感じた。その冷たさに。その美しさに。
ルシナはただの人間ではないとは思っていた。その過去に興味を持っていた。
しかし、今は――。
開けてはならぬ箱の鍵を開けてしまったかのような、恐怖と後ろめたさがリリィを支配していた。
* * *
ルシナとリリィが馬車を降りた後、ガトーとジャンは馬車の中で座り込んでいた。冷たくなった仲間の体を前に。
「どうして女を殺さなかった! ジスパが死んだんだぞ!」
責め立てるジャンの声に、ガトーは頭を抱えた。
「違う、違う……! 本当なら、殺されていたのは俺だった……」
「チャンスはあったはずだ!」
「お前はあの男を正面から見ていないからわからないんだ! あいつが笑った瞬間、俺は運命を悟った。俺はこいつに殺されるのだと……」
異常なほど怯えきったガトーに、ジャンは言葉を失った。
「あんな……あんな、恐ろしい笑みが存在するとは……冷たいだけじゃない、とんでもなく獰猛な狂気をはらんだ笑いだった」
「…………」
「ありゃあ人間じゃねえ! どんな殺人鬼にもあんな笑い方はできない。――今まで、何度も死線はくぐった。悪魔と呼ばれるような奴と会ったこともある。だが……こんなもの、信じたことはなかったが――あいつは本物の悪魔だ」
しばらくして、落ち着きを取り戻したガトーは大きく息を吐いた。
「あいつを殺れる奴がいるとしたら……化け物だけだ。噂じゃあ、あのレムとリュカもリリエルを狙っているらしい」
「! あの……!」
「もしかしたら……奴らのことだ。既に牙を伸ばしているかもしれないぜ……」
* * *
「リリィ……話が違うな」
イグリスの街並みを歩きながら、ルシナは口を開いた。
「追手は父さんのお迎えだけじゃなかったのか?」
「そのはずだったんだけど……」
リリィはしばらく会っていない兄のことを考えた。
あの人は、父にそっくりだった。目つきや表情、まとう空気が。
「あの人があたしを殺そうとしてるなんて……思いもしなかった」
リリィは首を振った。
「ううん、当然のことだったのかもしれない……ほとんどまともに話したこともないし、あの人のこと何も知らないもの。そう思われてたって不思議じゃないよね」
「ちょっと待ちなよ。まだ君の兄さんが首謀者だとは決まってないだろ。あいつの話だって全部憶測に過ぎないし、大体、君の兄さんが君を殺そうとしていたのなら、何で今なんだ?」
「それは、あたしが家出してて消しやすいから……」
「六年もロザリア家で暮らしてたんだろ。殺すならもっと早くやってたんじゃないのか」
「でも、逆に他に誰がいるっていうの?」
「いくらでもいるさ。今の君は身分ある立場なんだから、理由ならいくらでも付けられる」
ルシナは馬車でミルタを出る前と、ほとんど様子は変わらない。
「ねえ……あの二人組、放っといてもいいの? 誰かに言うかもしれない」
「大丈夫だよ。怖くて何も言えないさ」
だがリリィは――彼に対して『恐怖』を感じ始めていた。
いや、恐怖というのは少し言い過ぎかもしれない。彼がジスパを殺したことによってリリィが助けられたのは事実なのだから、守ってくれていたことに対して感謝もしていた。
しかし、彼への気持ちは、出会った当初の単なる興味だけではなくなっていたのだ。
そんなリリィの気持ちを知ってか知らずか、ルシナは始終彼女の顔をはっきりと見ようとはせず、真っ直ぐに前を向いていた。
* * *
イグリスは多くの旅人が滞在する都市でもあり、宿の数もそれぞれの大きさも、ミルタとは比にならない。
夕刻でも、今夜泊まる場を見つけるのは容易だった。
「リリィ、お金に余裕はある?」
目星を付けた宿の玄関で、ルシナがそんなことを言い出した。
「ええ、あるけど……」
「じゃあ、今日は別々の部屋にしよう」
「え?」
リリィは思わず聞き返していた。部屋を二つとるのは手間だし、どうせ一緒に行動するのだから同じ部屋の方が都合が良いと思っていた。
「どうして?」
「そっちの方がいいだろう? ここの宿は部屋にも余裕がありそうだし」
「でも」
「一緒の部屋にする理由も特にないし……君の方だって俺がいない方が色々と楽だろ」
珍しく、ルシナの声には断定的な響きがあった。まるで、リリィの反論を拒むかのような。
リリィは決めつけるような態度に、少しむっとして言い返した。
「別にそんなことないわよ。むしろ一緒の方が過ごしやすいじゃない」
「そうかな? 着替えたりするたびにいちいちそっぽを向いてじっとしていなければならないのは、面倒だと思うんだけど」
「あたしの部屋に殺し屋が来たらどうするつもりよ」
「怪しい物音がしたらすぐわかる」
ルシナは一向にリリィの顔を見ようとしない。
リリィは余計に腹が立った。
「だめ! 今日も一部屋しかとらないからね。部屋にもお金にも余裕があったって、無駄なことをする必要ないじゃない」
その後もルシナは色々と理由を付けたが、リリィの強硬な態度に結局折れて、二人は今夜も再び同じ部屋で過ごすこととなったのだ。
* * *
どうもルシナの様子はおかしい。
いや、昼間にあれだけのことがあったので当然なのかもしれないが、その時もあれだけ冷静だった彼が、急にリリィを避けようとしているのだ。
(ルシナは記憶を失っているんだから、今まで落ち着いていた方がおかしかったのかもしれない……でも、それにしたってこんないきなり……)
浴場から戻ると、部屋には全く灯りがついていなかった。
「ルシナ?」
返事はない。
暗闇の中を探り、灯りをつける。
部屋の奥、ベッドの上にルシナはうつむきながら腰かけていた。
「何だ、いるんじゃない……」
ほっとして、リリィはルシナの元へ駆け寄った。
「リリィ……」
そっと口を動かして、ルシナは言った。
「何?」
「ここで別れよう」