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アナテマ  作者: はるた
第四章
85/124

12 茫漠



 どんどん遠くなる彼の背中。その先には昏い闇が広がっていて――。


(いやだ……行かないで)


 呼び止めようとしても声が出ない。足はぬかるみにとらわれて、体ごとどんどん沈んでいく。


「――っ!!」


 はっと見開かれた眼に映ったのは天井だった。

 リリィは柔らかい布をかけられて、仰向けに寝かされていた。


「…………」


 何が起こったのだろう。どこまでが夢で、どこまでが現実なのか、その境目がわからない。

 いや――はっきりとわかったことが一つだけある。

 ルシナは行ってしまった。どれだけ止めても、振り返りはしなかったのだ。

 お前も聖霊(やつら)と同じだ。

 彼の言葉が耳の奥にこびりついて離れない。――もうルシナはいない。更なる闇の奥へ行ってしまった。


「リリィ! 気が付いたのか」


 レムの声だ。心配そうに、けれど心から安堵した笑顔を浮かべてリリィの顔を覗き込む。


「レム……」

「良かった……丸一日以上寝てたんだぞ。心配したんだからな」


 丸一日――そんなに経ったのか。ずっと悪夢にうなされていたような気がする。


「ここはどこ……?」

「ライザ族長の家だよ。オレとお前が泊まってた部屋だ」

「あたし……どうしてここに?」


 森の中でルシナに首を絞められて、そこから意識がない。

 するとレムはちょっと不満気な顔してから言った。


「……セスがお前を捜してきたんだよ」

「セスが?」

「情けないけどオレ、あの後ずっと気絶してて。一番最初に気が付いたのがセスだったらしいんだ。ほら、あいつ丈夫だから。それで森の中で倒れてたお前をここに連れて来たんだって」


 セスが――。意外だった。他人の身などこれっぽっちも心配などしない男だと思っていたのに。


「もう……何ともないか?」

「うん……」


 体は一応動くようだった。レムに支えられながら、ゆっくりと体を起こす。


「リリィ……ルシナと話したんだな?」


 リリィはぼんやりとした視線を空中に漂わせた。

 脳裏に浮かぶのは冷たい光を宿す血色の眼。そして氷のように鋭い声。ルシナが流した涙の冷たさよりも、記憶に残っているのはそれだった。


「……もう、わからないよ……」


 生気のない声で呟く。


「ずっとルシナを助けたかった。そのためなら、何でもできるって……でも違うの。ルシナを苦しめてるのは、あたしだったんだよ。あたしの存在が、ルシナにとっては苦痛なの」

「…………」

「ルシナと二度と会えないなんていや……だけど、会えばルシナが苦しむ。――どうすればいいの? ルシナを苦しませたくない……でもあたしが想うほど……」

「リリィ……」

「……ごめん。しばらく一人にして欲しいの。今は何も考えたくない……」


 レムは何か言おうとしたが、結局無言のまま部屋を出た。


 一人部屋に残ったリリィは、泣くわけでもなくただ呆然としていた。

 起こった出来事を整理しようとしても、頭が働かない。ただひたすらルシナの言葉が巡るだけだ。

 これは絶望? 悲しみ? ――どれも違う。何もないまっさらな、茫漠とした虚無だ。

 自分の思考がどこにあるのか、足元さえわからない。


 レムが部屋を出てからどれほどの時間が経っただろうか。窓の外は真っ暗な夜空が広がっている。

 部屋の扉が開いた。


「やあ、元気?」


 入って来たのはセスだった。

 リリィは何も言わない。セスに視線を合わせることさえしなかった。


「残念だったね」


 そう言いながらリリィの真横に腰掛ける。


「…………」

「悲しいのはわかるけどさ、どうしようもないよ。君の覚悟より、ルシナの覚悟の方が強かったってだけ」

「…………」


 何も言葉を発さないリリィの顔を覗き込み、セスはちょっと笑った。


「酷い顔してるよ」

「…………」

「……言い返す気力もないか」


 するとようやくリリィが口を開いた。


「どうすればいいのかな」

「どうすれば、って?」

「あたしじゃルシナを助けられない。彼の生きる道に……あたしは邪魔なんだよ。どれだけ想っても、届かない。苦しませるだけ……」

「じゃあもうやめれば?」


 軽くセスは言った。


「そんなに苦しいなら、やめればいいじゃん。その方がルシナだっていいだろうし」

「…………」

「ここで引き返した方が君のためでもあるよ。まあ、レイハの意志は無駄になるけど」


 リリィはぎゅっと拳を握り締める。


「簡単に……言わないで」

「何て言えばいいの? ――本音を言いなよ。慰めて欲しいんでしょ? 現実を突き付けられて傷付いた自分の心を、都合よく癒して欲しいんだろ? どうすればいい、もう駄目だ。そればっかり繰り返して、君の中で答えは出ているはずなのに、他人から言葉を欲しがる。――悲劇に浸って一人で嘆いてるだけだよ」


 ほとんど無意識のことだった。

 リリィの右手がセスの頬に閃く。しかし、それはいとも容易く受け止められた。


「この前より全然遅いよ」

「簡単に……簡単に、あたしの意志を計らないでよ! 何もわからないくせに!」

「わからないよ。簡単に揺らぐ君の意志なんか」

「――!」

「君が今ここでセルドナへ引き返そうが、僕はどうでもいい。今の君はつまらないから」

「あたしだって……あんたなんか大嫌いよ!」


 セスは楽しげに笑う。


「元気出て来たね」

「っ……」

「怒ってるくらいの方がいいよ」


 掴んでいたリリィの手首を解放する。セスの手に触れられていた手が温かい。


「……わざと挑発したの?」

「心からの本音だよ」


 そう言ったセスの声は、今まで聞いたどんな言葉より温かく、空っぽの心に響いた。


「……ありがとう。あなたのお陰で、少しは気力が出たかも」

「……実はね」

「え?」

「キスしたんだ」

「……は?」

「君を捜しに行った時。君がいつまで経っても起きないから」

「……誰に?」

「君に決まってるだろ」

「――はあ!?」


 部屋中に響き渡るような大声が、無意識のうちに出てしまっていた。それを聞いたセスは高らかに笑う。


「すっごい声。顔もすごいよ」

「何て言ったの!? キ、キ……」

「だから、キス……」

「どうして!?」


 セスは不満気に口を尖らせる。


「別にちょっとくらいいいじゃないか。舌入れたわけじゃないんだし」

「よくないっ!!」


 憤慨したリリィはやがて盛大にため息をついた。


「もう……本当に何なのよ……」

「そんなにいやだった?」

「この前話したじゃない。本気で好きな人以外と、そういうことしちゃ駄目だって……」


 本当にこの男はつかめない。からかったり、突き放すようなことを言ったり。終いには……

 面白がってこちらを困らせているようにしか思えない。実際そうなのだろうが……


「君を困らせようとしたわけじゃないよ。したかったからしたんだ」

「だからあたしが言ってるのは――」


 その続きは言うことができなかった。

 セスの唇で塞がれたからだ。


 何が起こったのかわからず二、三度瞬きをした後、セスは唇を離した。


「好きだよ」

「――え?」

「君が好きだ」

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