10 届かぬ想い
「はあっ……う……くっ……」
激しい呼吸と共に吐き出される血。抑えようとしても抑えられない。地面に付いた膝と口元を抑える手が小刻みに震える。
やっとのことで息を落ち着けて、ルシナはすぐ傍にある泉の水で顔を洗った。
「…………」
体中が石のように重くなって、仰向けに寝転ぶ。真っ黒な夜空が視界を覆った。
もう何も見たくない。聞きたくない。全ての感覚を閉ざせればいいのに。
「どうして……」
ようやく心をなくすことができた。やっと昔の自分に戻ることができたのに――封じていた感情が蘇ってしまいそうになる。
ルシナは自嘲気味に笑った。まさかこれほど弱かったとは。決意も何もあったものではない。
考えることを止め、そのまま眠りの海へ墜落して行った。
* * *
次に眼を開いた時には、森の中だった。
月明かりも差しこまない真っ暗な森。しかし、今立っている場所の前方――木々の無い開けた場所に、泉があるのがわかる。
「……ここは……」
前にもこれと同じような光景を見た。
ゆっくりと歩みを進める。
泉のすぐ傍に、人が倒れていた。死体のようにぴくりとも動かない。
ルシナと初めて会った時。そうだ――あの時も、彼は死んだように倒れ伏していた。
傍らまで近寄っても、ルシナは起きなかった。仰向けに寝そべって眼を閉じたままだ。
膝を付いて、彫刻のように美しく整った顔に触れる。ひんやりとした感触。まるで刃のような。
最後に見た時よりもかなり痩せているようだった。青白い肌の内側からは生気が感じられない。
「……っ!」
いつの間にかルシナが眼を開いていたことに気付き、リリィははっとして手を引いた。
うっすら開かれた紅い眼がリリィの顔を捉える。
「……ルシナ」
ルシナは何も言わず、ゆっくりと身を起こす。
そしてすぐ横にいるリリィをぼんやりと見つめた。
リリィは真っ直ぐにルシナを見返し、ずっと心にあった言葉を口にした。
「……ありがとう。あたしを助けてくれたんでしょ? 力を、使って……」
その言葉を聞いたルシナが浮かべた自嘲的な笑みに、リリィの心臓はどきりと脈打つ。
ひどく荒んだ退廃的な微笑。以前のルシナなら、こんな表情をすることはなかった。
「ついさっき、殺そうとしたのに?」
掠れた、低い声だった。
ルシナの眼をはっきり見ることができない。ルシナもリリィから視線を逸らしている。
問いには答えず、リリィは言葉を紡いだ。
「あたし……あなたに会うために、ここに来たの」
ルシナは何も言わない。
「宝玉を奪うのはもうやめて。聖霊と戦うのも」
「…………」
「あなたの力に、もう一度鍵をかけたいの。そしてあなたを救いたい」
「……なぜ? 俺のことは放っておけばいい。君がそうまでする責任も、義理も、理由もない」
「あたしは……ルシナを……」
顔を上げると、やはりルシナは無表情で虚空を見つめていた。リリィの言葉を聞いているのかわからない、どこかぼんやりとした表情でそこにいる。
「愛してる、から」
小さな、しかし熱の籠ったリリィの言葉は夜の空気に溶けて行く。
永遠にも思われた一瞬の沈黙の後、ルシナは何か言葉を発した。というより唇が動いたように見えたのだが、リリィの耳には聞き取れなかった。
「……して」
ルシナがもう一度、同じ言葉を口にする。
「どうして」
「え……?」
ルシナは鈍く光る深紅の眼をリリィに向けた。
「なぜ、そんなことが言える? 空っぽの言葉なんか、たくさんだ。俺はもういらない……愛なんて言葉は」
「空っぽなんかじゃない!」
そう叫んだのはほとんど反射的なものだった。
「あたしは心から……そう思ってる。ずっと言いたかった。言葉にして、あなたにこの気持ちを伝えたかった!」
ルシナは笑った。馬鹿げている、とでも言うように。
喉の奥から聞こえる笑い声が、嗚咽のように聞こえるのは気のせいだろうか。
「……君が俺に対して感じていたことは、全部錯覚だよ。俺は愛されるような存在じゃない。どうせいらなくなる。いずれ重荷になって、君の方から放り出すさ」
「違う……あたしは、本当に……」
「どちらにしろ、君と一緒にいた時の俺はもういない」
「――!!」
「わかってるだろ? 君が知ってる俺は……記憶喪失のルシナは、消えたんだ」
自棄的にそう言う表情も、声も、視線も、何もかも――リリィの知るものとは違う。
「もう君は俺には関係ない、赤の他人だ。ここにいても無駄なことだよ」
いない――もういない?
どこか冷たくはあっても、優しい彼は――温かく、時折子供のように笑った彼は――。
(いない……もう、会えない? 二度と……?)
見開かれた空色の双眸から、透明な雫が流れ落ちる。頬に筋を残しながら、ただ流れていく。
「いや……」
半開きの唇から漏れたのは、掠れた小さな声だった。
「そんなの、いや……もう会えないなんて……これで、終わりなんて……」
ルシナは立ちあがって、座ったままのリリィを見下ろす。冷え冷えとした瞳に、凍りついたように体が動かなくなる。
「ここから消えろ。二度と、俺の前に現れるな」
「待って!」
行ってしまう。もう二度と会えない場所へ――。
歩き出そうとしたルシナがふらついたように見えて、リリィははっとした。
ヒトの身に馴染まぬ力は、命を削る。
レイハが言っていた言葉が急に蘇ってきて、リリィは言いようのない恐怖に襲われた。
「やめて! これ以上無理をしたら、あなたは……」
「ルシナが死ぬなんて絶対にいや! 道はあるはずでしょ? 聖霊と戦わなくてもあなたが生きる道が――!」
「俺は死なない。聖霊を滅ぼして生きる。今の俺が払ってるのはその為の犠牲だ。一生の安寧に比べたら、遥かに安いものだ」
「罪のない人を殺して、戦いに身を削って得た安寧で、本当にあなたは幸せになれるの!?」
「幸せなんていらない。自分の意志を持ち続けたまま生きていられればそれでいい」
言葉を失ったリリィに、ルシナは再び残酷な光を宿した眼を向ける。
まるで違う。視線も表情も仕草も何もかも。
そしてルシナは当然の事実を告げるかのように言い放った。
声を発することができない。何を言えばいいのか、どのような反応をすればいいのかすらわからない。
「まだわからないのか? ――お前は邪魔だ」
「いや……何も解決させずに帰るなんて、できるわけない!!」
ルシナが振り向いたかと思うと視界が反転し、背中が地面にぶつかる衝撃を感じたと同時に、首に冷たい感触が走った。
「っ!!」
目の前にあるのはルシナの紅い眼だ。
ルシナの右手が、地面に仰向けに倒れ込んだリリィの首にかけられている。段々と締め付けられて、呼吸をするのさえ苦しくなってくる。
「今ので最後だ」
ルシナは本気だ。本当に、リリィを殺そうとしている。白い肌に爪が食い込んで血が滲んでいく。
苦しい。息ができない。
涙が溢れた。だがその理由は、息が苦しいだけではない。
リリィを見るルシナの眼に宿る光が、激しく炎のように揺れている。見ているだけで焼かれそうなほど熱く、冷え冷えとした光。憎悪、憤怒、悲愴――ルシナの中を巡る感情を宿している。
「俺の邪魔をするなら――進もうとしている道を阻むなら、お前も聖霊と同じだ!」
意識が朦朧としてくる。視界が滲み、頭が働かない。
ふと、頬に雫がぽたりと落ちた。
「……!」
その紅い瞳に宿していた光が、雫となって零れ落ちたかのように。ルシナの涙がリリィの頬の上に落ちた。
一滴、また一滴と哀しく輝くそれが零れるたびに、ルシナの手の力が段々と弱くなっていく。
「なぜだ……なぜ、こんなに……」
リリィの視界に最後に入ったのは、怯えきったようなルシナの顔。そして零れ落ちる涙だった。




