7 酷薄
リリィとルシナは、裏口から出て馬車に乗るべく大通りを歩いた。
目の前のこの青年は、三階からリリィを抱えて飛び降りたにも関わらず、普通に立って歩いている。
「……本当に、何ともないの?」
「ああ」
「信じられない……」
この恐るべき身体能力――。
リリィの頭の中にはある考えが浮かんでいた。
「あなた――もしかして『亜人』?」
「亜人? 何だ、それ?」
ルシナはきょとんとしている。
「遥か南の暗黒大陸に住む人たちのことよ」
『亜人』――人々は彼らを、『人ならざる人』と呼ぶ。
その姿は『異形』の一言に尽きたからだ。
ある者は背に大きな翼を持ち大空を自由に翔け、ある者は魚のような鱗と水をかきわける水かきを持ち、水中を自由に泳いだ。
彼らの姿は多種多様――種族によって性格も文化も違った。
共通しているのは、彼らが住んでいるのは、荒々しい自然が広がる『人間』の住まぬ大地――暗黒大陸ということだった。
「人間と亜人は決して仲が良いわけではなく、むしろいがみ合っていた。三百年前、それを決定的にする重大な戦争が起こったの」
三百年前――歴史に名を刻む大戦争が起こった。
人呼んで『暗黒戦争』――『人間』対『亜人』の戦いである。
人間たちが連合を組んで暗黒大陸に攻め込んだことから、戦いは始まった。
目的は暗黒大陸の開発。暗黒大陸は、人間が住む最大の大陸セルドナよりも更に大きく、それに加えて未知の資源や豊かな土地が広がっているとされていた。
そのためには、先住民の殲滅も厭わない――兵器をもって攻め込む人間と、それを阻止せんと迎え撃つ亜人たち。
戦いは百年近くにも及んだ。
やがて暗黒戦争は、亜人側の勝利で幕を閉じることとなる。
地の利では圧倒的に勝る亜人相手に、百年にも及ぶ時間と多大な労力を費やして得たものは皆無――犠牲だけが人間たちの元に残った。
戦争終結から二百年経ち、セルドナ大陸で暮らす亜人もいるものの、両者の溝は修復できぬほどに深まった。恐らくこれからもそれは変わらないだろう。
「亜人は総じて高い身体能力を持っているの。だから、あなたもひょっとして――」
「でもさ、俺がその亜人なら、人間とは違う見た目をしているはずだろ?」
そうなのだ。その人間離れした美貌を除けば、ルシナの外見は普通の人間である。
「それはそうなんだけど……でも、あなたが普通の人間には到底思えないんだもの。本当にわからないの? 自分に関すること」
「それは一向に思い出せない」
きっぱりと言ってから、ルシナは腕を組んだ。
「ただ、俺も妙だとは思うんだよ。さっきだって、驚くほどすんなり体が動いたし――相当戦い慣れしてるってことなのかな」
リリィは青年の赤い双眸を見た。
深く艶めく緋――こんな色の瞳を持つ人間がいるだろうか。これこそ『人ならざる人』の証なのではないか。
学校で習った範囲では、赤い眼を持つ亜人の話は聞かなかった。
だが、暗黒戦争が起こってから、多くの亜人に関する歴史が葬られたと聞く。授業で習ったことのない亜人がいてもおかしくはない。
次なる目的地、イグリスはミルタより遥かに大きな街だ。国内有数の蔵書量を誇る図書館もある。
(そこで、亜人に関する歴史を調べてみよう。何かわかるかもしれない)
* * *
馬車に乗っているのはリリィとルシナを含めて六人。
一組の若い男女と、中年の男が二人。
恋人同士と思われる男女は、人目もはばからずいちゃついている。最初はやれやれと思っていたリリィだが、ふと考えを起こして、ルシナにすり寄った。
ルシナは特に何も思わないのか、気付いていないのか、ぼんやり虚空を眺めている。
リリィが腕を絡めると、ルシナはやっと彼女を見た。
「何?」
恋人のようにすり寄って、リリィはにやりと笑った。
「いいでしょ、これくらい」
ルシナは、笑い声を立てながらじゃれあっている男女を見やる。
「気楽だなあ……」
そう言ってまた視線を空中に投げかける。
彫像のように動かないルシナは、酷く無機質に見えた。本当に、魂が抜けているのかと思うほどに。
ルシナはあまり感情らしきものを見せない。冷たいわけではないが、かと言って暖かさを感じるわけでもない。
特に今のように一人の世界に入り浸っている姿は、血の通う生き物には思えないくらい空虚だ。
しかし、その空虚さは、周囲の空間とは異質な存在感を醸し出している。
丸一日も一緒にいないが、リリィは彼自身以上に、ルシナの過去が気になっていた。
「ところで……」
おもむろにルシナが口を開く。
「この馬車は一体どこへ行くんだ?」
「どこって、イグリスよ」
ルシナは答えたリリィを見ず、
「馭者は無関係なのか? そうとは思えないけどな……」
「何を言ってるの?」
リリィはルシナが何を言っているのかわからなかった。
「殺気が漏れてるよ」
空気がぴんと張りつめたのがわかった。
ルシナが正面の席に座っている中年の男を指差した。
リリィははっとしてその男を見る。
「まさか……!?」
「運がないね。こんな立て続けに襲われるなんてさ」
ルシナに指差された男はうつむいていた顔を上げた。髭で毛むくじゃらになった顔には、不適な笑みが浮かんでいる。
「用心棒がいたとは知らなかったが――」
そして、懐から――。
「きゃああっ!」
叫び声を上げたのは、恋人とじゃれあっていた若い女だ。彼氏の方も、叫び声こそ上げなかったが、真っ青になってがたがた震えている。
「消えてもらうぜ、お嬢様」
男の手に握られているのは大振りな銃だった。その銃口はリリィに向けられている。
「――っ!」
銃声が響く。
弾丸が目の前に迫る――一瞬のはずなのに、やけにゆっくりに見えた。
硬直したリリィの体は右からの衝撃によって、現実に引き戻された。
「きゃっ!」
隣にいたルシナがリリィを押し倒して、弾丸から守ったのだ。
「ちっ」
銃を持った男が再びリリィに照準を合わせる。その動きは機械的で無駄がない。
しかし、男が引き金を引くよりも、ルシナの方が早かった。
「何っ!」
何が起こったのかわからないのも無理はない。ルシナの動きは、人間の眼が捉えるには、あまりに早すぎた。
銃声がもう一発。
しかし、その弾丸は馬車の天井に穴を空けた。
ルシナが一瞬で男の前に躍り出て、男の構える銃をがっしりと握ったのだ。
「な、何だてめえ……」
リリィがやっと身を起こすまでの一瞬の出来事だった。
しかし、ほっとしたのも束の間――。
「動くな!」
鋭い声が飛び、後頭部に硬いものが押し当てられた。
正面にはルシナが奪い取った銃を男に突き付けているが、その赤い眼は鋭くリリィの背後に向けられている。
リリィは、もう一人の乗客が、最初にリリィを撃とうとした男の仲間だったのだと一瞬で理解した。
「その銃を離しな、兄ちゃん。この嬢ちゃんの頭に穴が開くぜ」
男の勝ち誇った声に、ルシナはすっと唇を歪めた。
先程の無機質な表情からは想像もできない、背筋の凍るような酷薄な笑みだった。
リリィの頭に銃を突き付けている男の手が震えたのがわかった。リリィですら――身が強張るのを抑えられなかった。
「おかしなことを言う。俺がこいつをどうしようと、お前はリリィを殺す気だろう」
笑みと、ぞっとする冷たさを含んだルシナの声。
ルシナは銃口を向けている、床に倒れ伏している男に眼を向けた。
背後にその視線を感じ取ったのか、男の体がびくんと震えた。
「お……おい、ガトー! 何してる! さっさと女を撃っちまえ!」
リリィに銃を突き付けているガトーと呼ばれた男は、顔中に冷や汗をかいたまま動けないでいる。
「早くしろ! 早く――」
男の声は、銃声によって遮られた。
リリィは硬直したまま動けない。視線を逸らしたいのに、それもできない。
ルシナが持つ銃が、煙を吹いていた。
「て……てめえ!」
ガトーが憤怒の声を上げた。
ルシナが撃ったのだ――ぴくりとも眉を動かさず、突然に。
撃たれた男の頭から、赤い血がだらだらと流れ出す。
馬車の隅で固まっている男女は、お互いに抱き合ったまま凍りついたように動かない。
「おい、どうした! 何があった!」
馭者台の方から声が飛んできた。
「ガトー! ジスパ! どうしたんだ!」
「やっぱり馭者も仲間か。お前――ガトーと言ったか――馬車を停めるように言え」
しかしガトーは硬直したまま動かない。
「どうした? 早く言えよ」
ルシナの『命令』に、ガトーは震える声で、
「ジャン……馬車を停めろ!」
「何だって!? どうしたんだよ、一体何が……」
「早くしろ!」
ガトーの怒声の後、段々と馬車は速度を落とし、やがて止まった。
「銃を下ろせ」
ガトーはリリィの頭から銃を離し、床に落とす。
ようやく身動きのとれたリリィは、背後のガトーの顔を見上げた。
彼の顔は、土気色に染まり、だらだらと冷や汗を流している。その表情は、恐怖を貼り付けたまま硬直していた――化け物を前にしているかのように。
「どうしたんだ、一体――!」
ジャンと呼ばれた馭者の男が、馬車の中に入ってくる。
少女の横で戦意を喪失して立っている仲間。その正面には、物言わぬ骸と化した仲間――そして、その傍に立っている、銃を持った青年。
ジャンは絶句した。
「質問に答えろ。お前たちの目的は何だ?」
「何なんだ、お前は! ジスパを……殺したのか!?」
状況の呑み込めないジャンはルシナに食い掛かる。
「黙れ! 大人しくしろ!」
「ガトー……!」
「……リリエルの抹殺だ」
ガトーはジャンを制し、ルシナの質問に答えた。
ルシナは更に問いかける。
「誰に依頼された?」
ガトーは押し黙る。
「言えないのか?」
「違う……! わ、わからないんだ」
「わからない?」
「依頼人と直接会ったのはジスパだ。俺たちは会っていない……」
ルシナは腕を組んだ。
「名前くらいは知ってるだろ?」
「いや……知らない。こういう仕事を依頼する輩は秘密主義だ……ただ……」
「ただ?」
「心当たりはある! ヘルムート・ロザリアだ」
その名を聞いたリリィの身が強張った。
「ロザリア?」
「ロザリア公爵の、死んだ妻との息子さ」
つまり、リリィの兄ということになる。
「推測に過ぎないし、詳しいことは知らねえがな……ヘルムートは後継者として幼い頃から貴族式の教育を受けてきたという。聞けば、この嬢ちゃんは半分は庶民の血が流れているそうじゃねえか」
「…………」
「そんな薄汚ねえ血を、由緒正しいロザリアの系図に入れたいと思うか? ロザリアの姓を名乗るからには、いいとこの家に嫁入りさせなきゃならねえだろうしな」
リリィはうつむいたままガトーの話を聞いている。
「なるほどね……」
「だが、依頼を受けたのは俺たちだけじゃねえぜ。ジスパは、早い者勝ちだと言っていたからな。俺たちが嬢ちゃんの消息を知ったのは、ただの偶然と幸運さ。これからは、俺たちみたいな――いや、俺たちより遥かに性質の悪い連中が、わんさかとやって来るぜ。まあ、家に戻れば公爵が守ってくれるだろうがな」
「…………」
すると、突然ルシナは先程から声も発せずにいる、若い男女の方を向いた。
「巻き込んで悪いな。――このこと、誰にも言わないで欲しいんだけど」
二人はがくがくと頷く。
「ありがとう」
ルシナは笑った。