1 聖地アル・カミア
どこまでも広がる青い空。眼下に広がるのは鮮やかな緑で覆われた大地だ。遠くには澄み切った海が見える。
抜けるような青空を羽ばたく、一羽の鳥の姿があった。滅多に見ない美しい鳥だ。色は純白で、かなり大きい。長い尾が空中に筋を引き、彼が飛んだ跡を光が線のように描かれていく。優雅に、しかし凄まじい速さでその鳥は大空を翔けて行った。
その鳥が飛ぶ先にあるのは、城だった。
しかしただの城ではない。幾つもの尖塔を持つ、思わず圧倒されるほど巨大な城だった。これほどの巨城が果たして人の手で建築することが可能なのか、と疑いたくなるほど。
そして何よりも信じがたいことに、その城は空中に浮いていたのだ。緑が広がる大地の遥か上、青い空を背景にして。
ただその現実とは思えない光景は確かに現実だった。
聖地アル・カミアの大宮殿。聖霊たちが住まう場所。
どのような非現実的な出来事も、彼らなら可能にしてしまう。
鳥はぐんぐんスピードを上げて、城へ飛んでいく。もう後わずかという距離になっても、鳥は速さを緩めようとはしない。
城の側面にぶつかる――通常なら、そうだっただろう。
しかしその鳥は衝突する直前に、消えてしまったのだ。
* * *
聖霊の城は物理的な扉を持たない。宙に浮いていることも、聖霊以外の何者かの侵入を防ぐためだ。
視認はできずとも、扉は存在する。
城へ向かって飛び、そして消えた鳥は見えない扉を通って城の内部に入っていた。ただの鳥にそんな真似はできない。答えはただ一つ。彼も聖霊だからだ。
城の中へ入った鳥は、姿を変えていた。
特定の肉体を持たない聖霊は姿を自由に変えることができる。かつてまで白い鳥だったそれは、真っ白な髪を結いあげた妙齢の女性の姿になっていた。
彼女が歩いている廊下は比較的狭いが、神秘的な黄金で覆われていた。もしこの場を人間が見たら、あまりの神秘的な荘厳さに息を呑んでいたに違いない。
彼女は足を止め、廊下の壁に手を当てた。
手が触れた場所から共鳴するように、黄金の壁に光が広がっていく。やがて光は人の身の丈ほどに広がって、彼女は迷わずその壁へ足を踏み出した。
驚くべきことに、彼女の体が壁の中へ吸い込まれていく。
壁を通り抜けた先にあったのは恐ろしく広い半球形の部屋のようだった。
屋内である限り部屋であることには間違いないのだが、まるで屋外の景色に見える。
壁と区別のない丸みを帯びた天井は、無数の星をちりばめた夜空そのもので、床には柔らかな草が生えている。床と壁の境目は、さながら地平線のようだ。
そんな部屋の中心に、一つの人影がある。
「――ネオス」
部屋に入った彼女は、その人物の名を呼んだ。
「シャナンか……何の用だ」
ネオスは床に仰向けになって天井を眺めていた。
「気分はどうですか」
柔らかい声でシャナンは尋ねる。
「こんな所に閉じ込められて、気分が良いはずがない」
ネオスはゆっくりと起き上がった。
彼は衣服を何もまとっていなかった。その代わりに、昏い部屋の中でも一際輝いている長い銀髪が、体にまとわりつくようにして流れ落ちている。その姿は天から生まれ落ちた子のようで、シャナンでさえ息を呑むほど神々しい。
「いつまでここにいれば良いのだ?」
「ヴェルディカの許可が出るまでです」
ネオスは忌々しげに髪を払った。
「そんなものを待っていたら、退屈で朽ちてしまう。大体、本当にヴェルディカの決定であるかどうかさえ怪しいものだ」
「……たとえ長老の決定であったとしても、あなたは従わなければならない」
「わかっている。長老の決定は絶対――掟を破るつもりはない」
ネオスは掟を尊重していた。ルシナへの襲撃は掟破り寸前の行動であったが、彼が掟に触れるような行いをしたのは、それが初めてだったのだ。
ネオスは何よりも聖霊としての誇りを重んじている。そして、自分が絶対的正義であるということも。
あまりに純粋無垢な子供――。
「ネオス――まだルシナを追う気ですか?」
「無論だ」
迷わず答えた。
「ここから出たら、地の果てまでも追いかけてやる」
「……ルシナの力を封印するだけで、終わりにするつもりはないのですか。いくら罪を犯したとはいえ、あなたのしようとしていることはやり過ぎと感じます」
「お前はそれで奴を許せるのか。ルシナを生かして、アジュの魂が救われると?」
「…………」
「長老たちも行動に移すのに慎重になっているだけで、腹の中ではさっさとルシナを『処刑』したいはずだ。そんなことを言っていると、レイハのように追放されるぞ」
「…………」
シャナンはネオスに背を向けた。
「とにかく……ヴェルディカの許可が下りるまで、ここで大人しくしていることです」
「わかっている」
鬱陶しそうに言い、ネオスは再び床に寝た。
* * *
ネオスの教育係を任されているシャナンにとって、頭の痛い事態だった。
今回のネオスの行動に関してシャナンの責任は問われず、ネオスには無期限の謹慎という処分が与えられた。
だが、ネオスに反省の様子は皆無だ。いずれは再びルシナの元へ行くに違いない。
今現在エーゼスガルダで起きている事態を知れば、今すぐにでも――。
「シャナン」
廊下を歩いているシャナンを呼び止めたのは、大きな黒い狼だった。鋭い碧眼に宿るのは深い知性、彼が発した声は低く豊かな男性のそれだ。狼が喋っているということ自体、非常に奇妙な出来事であるが、アル・カミアでは驚くようなことではない。
「イレイデル……」
イレイデルは聖霊族の実質的なトップである、長老の一人だ。長老たちは会合によって様々な決定を下し、掟を破った者には制裁を与えたりもする最高権力者たちである。
「ネオスの様子はどうだ?」
「相変わらずです」
「そうか……」
イレイデルは小さく息をついた。
「下界で起きていることは……知られてはいまいな?」
「無論です。ネオスのいる場所には何重もの結界を張っていますし、彼自身にも力の制限をかけていますから……いくらネオスといえど、ルシナの存在を感じ取ることは不可能でしょう」
下界の時間でいえば、およそ一週間前。
力に目覚めたルシナがエーゼスガルダへ来た。聖霊族と戦うために。
聖霊族に課せられている最大の掟の一つである、『不干渉』。必要以上に下界やヒトの社会に干渉してはいけないというものである。ネオスはこれに触れて制裁を受けたのだ。
この掟がある以上、聖霊族は不用意に下界へ行くことができない。いくら、捕縛対象であるルシナがいるとしてもだ。
それを知ってか、ルシナは自らアル・カミアへ来ようとしているのだ。
翼人族、獣人族、水人族、竜人族の各部族長が一つずつ所有する、“宝玉”。
この四つの宝玉をエーゼの祭壇に捧げれば、アル・カミアへの道が開かれる。ヒトが住む下界とは違う空間にあるアル・カミアへは、空間転移能力では来ることができない。よってルシナはこの方法を使おうとしているのだ。
「そちらの状況はどのように?」
するとイレイデルは眼を細めた。動物の顔なので人間のように表情はわからないが、もし彼が人間の顔をしていたなら、苦虫を噛み潰したような表情をしているに違いない。
「実に芳しくない。既に宝玉は二つ奪われた」
「二つも……!?」
「やられる前にやる、とでも言うようだな。奴は長老が話し合いをしている間にさっさと宝玉を集め、一気に片をつけるつもりだろう。とにかく――ルシナがアル・カミアへ来るのは時間の問題だ。長老会ではまだ話し合いだけで、具体的な対策は練られていないが……この状況ではいつまでも悠長な顔をしていられん。掟がどうと言っている場合ではないぞ」
「ヴェルディカは……」
「全く動かん。長老会が何度も働きかけているのだが……」
「一体、どのようなおつもりなのでしょうか。まさか、このまま最後まで傍観者に徹する気では……」
最後にヴェルディカの動きがあったのは、ネオスの一件以来だ。
「アル・カミアがルシナに蹂躙されるようなら、ヴェルディカも動かざるを得んだろう。――その前にネオスが奴に立ち向かうだろうがな」
しかしそれは極力避けたい事態であった。ネオスとルシナがぶつかれば、エーゼスガルダ全体が多大な被害をこうむるに違いない。
「イレイデル……正式に長老会に公表すべきか迷っていたのですが……」
「何だ?」
「今のところは、この場だけの話にして頂けますか」
イレイデルは厳しい視線をシャナンに向けたが、
「……良かろう」
「実は、レイハに動きがあったのです」
「レイハ?」
今となっては懐かしい名だった。ルシナを見出して、彼を育て、そして彼のためにアル・カミアを追われた者。
「ルシナが力を取り戻したきっかけとなった少女と、ネオスがしばらく行動を共にしていた魔人、そして獣人と竜人が一人ずつ。計四人がレイハによってエーゼスガルダへ送り出されたのです」
「なぜお前がそれを?」
「その少女というのは、ルシナが記憶を失っている間親しくしていた者らしいのですが……ネオスを迎えに行って以来、私が個人的に監視していたのです。彼女は魔人の助言を得て、レイハの元へ行き……」
「エーゼスガルダへ来たというわけか。それにしてもなぜだ?」
「恐らくルシナを止めるためでしょう」
「……ただの人間であろう? そんなことができると本気で思っているのか?」
「その可能性を見出したからこそ、レイハが協力したと考えられます。私の目から見ても、ルシナにとってその少女は特別な存在であるように思えました」
イレイデルはしばらく考え込んだ。
「もしそうならば……彼女はまさに第二のネオスだな」
シャナンは大きく頷く。
「ルシナの戦意を喪失させることができれば、とりあえず最大の危険因子は除けます。しかも、一族には何の損害もなしに……」
「――わかった。引き続き、監視を続けろ」
「はい」




