プロローグ 反響
かれの心に留まり続けるものは、この世には存在しない。
かれは漂うのみだ。
誰にもとらえることのできぬ霧のように。
留まることを知らぬ風のように。
内に背負うかれの暗黒を包むことができるものも、この世には存在しない。
かれを愛すことができるのは、かれを抱擁できるのは、ディラスしかいないのだ。
その理が破られたとき。かれのすべてを愛するものが、この世に現れたとき。
かれの心の虚無は満たされるだろう。
かれは生の意味を知るのだろう。
* * *
ルシナは握った拳を開いた。
そこには金色を帯びた緑色に輝く玉と、澄み渡った青を宿す玉がある。
二つの宝玉をぼんやりと見つめ、もう一度強く右手を握った。
「もう少しだ……」
そう呟いたルシナの顔が、突然苦痛に歪む。
こみ上げる痛みと苦しみ。震える右手で口を押え、必死にそれに耐えようとする。
激しく咳込んだ後、ゆっくりと口元から手を離した。
「…………」
掌を赤く染めた血。彼の口の周りも同じ色に濡れている。
力を使った後に押し寄せる苦痛の波に耐えるのも、慣れてきてしまった。
まるで毒だ。
力を使うたび、心も体も侵食されていく。ふわふわとした浮遊感に襲われて、自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのか、何の為にこんなことをしているのかさえ、わからなくなってくる。
ルシナは自嘲の笑みを浮かべた。
所詮ヒトの身。ルシナが持ってしまったのは、ヒトには馴染まない神の力だ。
このまま死ねるなら、どれほど楽だろう。
しかし本能が生きたいと叫ぶ。魔人の体が必死に傷を癒す。
意志だけではどうにもできない心の奥底。醜く生に執着する自分。全て投げ出したくなるが、それもできない。
まるで生にとりつかれた奴隷だ。生きる意味も持たないのに。
髪を束ねている紐を解いて、柔らかい草の生えている地面に体を横たえた。
視界を埋め尽くすのは星も月もない、ひたすらに黒い夜空。
今の心を映したかのようだ。
自分以外、誰も存在しない心の中。ただ一色に塗り潰された単調な心。それがどうしようもなく苦しくて、心地良い。
何もかも知らなかった、今となっては懐かしい日々――その時に、心に深く刻みつけられた存在。
思い出したくない。けれど、忘れたくない。
思い出す苦しみと、忘れる苦しみ。どちらが楽だろう――?
夜の空気を吸い、そっとその名前を口にする。
呼び掛けても答えない。ただ虚しく、心の中で反響するだけだ。




