6 逃亡
朝陽の光を瞼に感じ、リリィはゆっくり眼を開けた。
「…………」
体を起こし、波打つ黄金の髪を掻き上げる。ぼんやりとした寝起きの空色の瞳が部屋の中を見回した。
(そうだった……あの後……)
どうにか森を出たリリィとルシナは、ミルタの町まで戻り、急いで宿をとったのだった。森を出た頃には、既に明け方が近かった。
とにかく疲れていたリリィはその時のことをよく覚えていない。だが、確か部屋が空いておらず、一つしか部屋がとれなかったのだ。
リリィはベッドの脇を見下ろした。クッションを枕にして、床に長身の男が横たわっている。
昨日の出来事を思い返してみた。
そう――追手から逃げた先の森の中で、この青年に出会ったのだ。
ぼろぼろの服を着て、森の中に倒れていた青年。彼――ルシナは記憶喪失だと言う。彼自身に関することは、名前以外何も覚えていないのだ。
彼に何があったのか――なぜ記憶を失い、森の中に倒れていたのか。
ルシナは自身の記憶を探るついでに、リリィの家出に同行することになったのだ。
リリィはベッドから降りて、眠っているルシナの傍らに座った。
ルシナは体を仰向けにして、ぐっすり眠っている。かすかに開かれた唇からは、小さな寝息が洩れていた。
美しく整った寝顔。睫毛が驚くほど長く、白い肌に影を落としている。
リリィはため息をついた。明るいところで見ると、ますますその美貌がはっきりわかる。
この人は一体、誰なんだろう――。
彼はまだ昨夜から同じ、血の付いたぼろぼろの服を着ている。この服の斬られ方は尋常ではない。何か、無数の刃で切り刻まれたような――。
それならば、これを着ていたルシナは無事でいるはずがない。しかし、彼の体は至って綺麗だ。
それに、リリィを追ってきた父の手の者を一蹴した、あの時の動き。
リリィは格闘に関して詳しいわけではない。だが、そのリリィから見てもルシナが戦い慣れしていることは明らかだった。
(知りたい……ルシナが一体何者なのか)
その時、ルシナの瞼がぴくりと動いた。
真紅の瞳がゆっくりと開く。
「…………」
「おはよう」
「ん……」
ルシナは、昨夜と同じようにのろりと起き上がって大きなあくびをした。
元から乱れていた髪が更にぐちゃぐちゃになっており、赤い眼にはぼんやりと靄がかかっている。
「……君はそこで何をしてたんだ?」
「あなたの寝顔を見てたの」
「……そう」
ルシナが起き上がったはずみで、身に纏うぼろぼろの服がずるりと落ちて、ほとんど白い裸体が露わになっている。
「ねえ、ルシナ……服を着替えた方がいいんじゃない?」
ルシナは既に服とは言えない布を見下ろした。
「俺もそう思うけど、替えの服がない」
「じゃあ、あたしが買ってくるわ!」
「君が? あまり一人で外に出ない方がいいんじゃないか」
「駄目駄目、このままじゃ外に出れないでしょ。昨日は夜中だったからまだ良かったけど、こんな明るい時に外に出たら変態呼ばわりされちゃう。あなたはそれまでに体を洗っておいてよ。その髪、鳥の巣みたい」
やけにわくわくしているリリィを訝しむルシナを部屋に置いて、リリィは外に出た。
* * *
既に陽は高く、正午が近い。
リリィは昨夜も通った商店街で、店の商品を物色していた。
ロザリアの屋敷にいた時、父からはかなりのお小遣いをもらっていて、それはほとんど遣わず貯めていたので、現在の所持金にはかなりの余裕がある。
あまり目立たず、それなりにお洒落な服を選んだ。
男性の服を買うなんて初めての経験だったが、普段選ばないものを選んでみるのも楽しい。ルシナは背が高いので何でも似合いそうだ。
体を洗ってまともな服を着たら、とびきり見栄えがするだろう。
買い物袋を持って宿に帰ると、ロビーの掃除をしている若い店員の娘たちが、弾んだ声で会話をしているのが視界に入った。
「ねえ、見た? 三〇二号室の客!」
「見た見た! すっごいハンサムよね!」
「女将さんなんか、普段はしないのに化粧なんかしちゃってるのよ。さっき浴場に行くから、替えの服を貸してくれないかって受付に来てたわ。そしたらもう、女将さんたら、にこにこしながら旦那さんの服渡してたのよ! いつもは絶対そんなことしないのにさ!」
「そういえば、すごいぼろぼろの服着てたわね」
「何だか、謎めいてて素敵よね……」
三〇二号室と言えば、リリィたちが宿泊している部屋だ。彼女たちが話しているのは、間違いなくルシナのことだろう。
部屋に戻ると、ルシナの姿はなかった。
(まだお風呂かしら)
その時、洗面所の方から物音がした。
「ルシナ?」
「何?」
ルシナの声だ。どうやら洗面所で何かしているらしい。
「何してるの――っ!?」
洗面台の鏡の前にルシナはいた。裸で。
「早かったね」
特に何の感情も見せずルシナは顔だけで振り向いた。
「な、何をしてるのよ……」
リリィはすぐ視線を逸らそうとしたが、思わず見てしまった。
半乾きの髪は更に黒々と艶めき、前髪が白い額に張り付いて、妖艶な雰囲気を醸し出している。
細く長身だが、しなやかな筋肉が付いた均整のとれた体。その肌の白さ、滑らかさと言ったら、まるで真珠のようだ。
リリィは頬が段々熱くなるのを感じた。
それもそうだ。男性の裸体など、まともに見たことなんてほぼない。しかも、信じられないくらい美しい。
ルシナはリリィに背を向けたまま、鏡に映った自分を見ている。
「思ったんだけどさ……」
「な、何よ」
「全然傷がないんだよな。あんな風に服が破れてたら、普通、怪我をしてるだろ? 古傷みたいなものも全くないし……」
確かに――彼の体には最近付いたらしき傷も、何も見当たらない。まるで作り立ての彫刻である。
「何だ……てっきり、自分に見惚れてるのかと思ったわ」
「そんな趣味はないな。――服、買って来てくれた?」
「ええ。でも、服借りたんでしょ?」
「何で知ってるんだ?」
「さっき、ここの女の子たちが話してたわ。すごい美形の客がいるって」
「へえ……」
興味なさそうに言って、ルシナはリリィの渡した袋を受け取った。
「さすがにあんな服を着て歩き回ってたら怪しまれると思って借りたんだけど、少し大きさが合わなかったな」
リリィが買ってきたものは、ルシナにぴったり合っていた。動きやすさを重視したので、そこまでデザインには凝っていないが、それでも彼が着ると高級な仕立てに見える。
「で、これからどうする?」
「とりあえずこの町を出るわ。さっき町に出た時調べてみたんだけど、ここからイグリスという町に行く馬車が出ているらしいの。イグリスなら馬車を使えばフェルマまで近いし……」
ルシナは聞いているのかいないのか、少しうつむいている。
「ちょっと、聞いてるの?」
「静かにしろ」
低い声でルシナが告げる。リリィはその声の、有無を言わさぬ響きを感じとって黙り込んだ。
ルシナは両目を鋭く光らせている。まるで獣のようなその瞳に、リリィははっとした。
「……一体、どうしたの?」
小声で囁く。
「リリィ……つけられたな」
「えっ?」
「廊下から、話し声が聞こえる。『この部屋か?』『間違いない』って――俺たちが今いる部屋の前から」
窓の外から聞こえる風の音や、廊下を行き交う足音しか、リリィの耳に届くものはない。
「何で聞こえるの?」
「わからないよ、とにかく聞こえたんだから。――それよりも、まずいんじゃないのか」
リリィは青ざめた。
「まさか、さっき出た時に!」
「多分な。今部屋を出るのはまずい」
「でも、このままずっとここにいるのはもっとまずいわよ!」
「落ち着けよ。ここを出る方法を考えなきゃ――」
その時だった。
ドアをノックする音がして、リリィとルシナははっとそちらを向いた。
もう一度、ノックの音。
「どうしよう……」
「どこかに隠れて。俺が出る」
「でも!」
「このまま出なかったら、ドアを蹴破って入ってくるよ」
そう言ってルシナはドアの方へ歩いていく。リリィは慌ててベッドの下に入った。
ルシナがドアを開ける音がする。
「何でしょう」
「すまないが、ここに女の子が泊まっていないだろうか。金髪の、十六歳くらいの女の子だ」
低い男の声だ。
「さあ……ここに泊まっているのは俺一人ですよ」
「……隠すと身の為にならんぞ」
男の声が凄みを帯びたが、ルシナはとぼけたような声を出す。
「そんなこと言われても――」
「部屋を見せてもらおう」
訪問者の男が強引に部屋に入ってくる。それを妨げようとするルシナの声。
「ちょっとちょっと、勘弁してくださいよ」
「泊まっているのが君一人なら、隠すこともなかろう」
「何なんですか、あんたたち。宿の人を呼びますよ」
不満気なルシナの声だ。なかなかの演技力である。
しかし、男たちは強引に部屋の中へ入ってきたようだ。足音が三人分。
「くまなく探せ」
「はっ」
ルシナが応対した男がリーダー格のようだ。
垂れ下がっているシーツをほんの少しだけ上げると、部下と思しき二人の男が、ソファの裏や、洗面所の方を探しているのが見えた。
このままでは、見つかるのは時間の問題だ。
「一体、何でそんなに必死になって探してるんです? たかだか女の子一人なんでしょ」
「お前には関係ない」
「感じ悪いなあ……人の部屋を探し回っておいて」
部屋を探している男の一人が、ベッドの方へ近付いて来る。
(ど、どうしよう! 見つかる……)
「なっ、何をする!」
リーダー格の男の声だ。
リリィの眼前まで迫っていた男の足は急に止まり、ルシナたちがいるドアの方を向く。
どさりと何かが倒れるような音がした。
「貴様!」
怒号が飛び、二人の部下がドアの方向へ走っていく。
(何? どうしたの!?)
「ぐあっ!」
「ぎゃあ!」
叫び声がして、その後異様な静寂が訪れた。
「出てきていいぞ、リリィ」
恐る恐る、ベッドに下から這い出る。
「!」
ルシナの周りで三人の男が倒れていた。ぴくりとも動かない。
どうやったのか見ていないが、数瞬でこの三人を昏倒させた技量には驚かされる。
「早く出るぞ」
と言いつつ、ルシナは窓の方へ歩いていく。
「ど、どこに――」
「入口にこいつらの仲間がいるかもしれない。窓から出るしかないだろ」
「窓から出るって――ここ三階よ!?」
しかしルシナは構わず窓を大きく開けて、下を見ている。
「早く来いよ」
「無理よ!」
「大丈夫だって」
リリィは渋々ルシナの傍まで言って、窓の下を見た。
下は草地だ。しかし、三階と言えば相当な高さである。ここから飛び降りれば、無事ではいられないだろう。
やっぱり無理、と言おうとした瞬間、リリィの体がふわりと浮いた。
ルシナが抱き上げたのだ。
「ちょっと!」
「しっかり捕まっててくれよ。叫び声は上げないでくれ。うるさいから」
「ちょ、ちょ、ちょっとお!」
反論する暇も与えず、ルシナは窓枠に足を掛け、空中に飛び出た。
「きゃあっ!」
力を振り絞ってルシナにしがみつく。重力に引き寄せられ、気持ちの悪い浮遊感と共に、リリィはルシナに抱きかかえられたまま落ちて行った。
地面がもうすぐそこにある。ぎゅっと眼を閉じると、体に衝撃が走った。
「……!」
「大丈夫だっただろ」
恐る恐る眼を開けると、にっこり笑ったルシナの顔がそこにあった。