1 追憶(1)
目に染みるような青空。深い森の中から見上げる空はいつも美しかった。戦いによって流された血で濡れる大地とはまるで違う。
レイハは地面に体を横たえて、ぼんやりと空を眺めた。
通常、聖霊がアル・カミアから出ることは許されていない。下界への干渉を禁じる掟に触れるからだ。禁じられていなくても、好んで下界に行く聖霊などいないに等しかった。
現在のエーゼスガルダはセルドナから襲来してきた人間たちの軍との戦いで、乱れに乱れている。そんな混沌の地へ好んで降りようという方がおかしい。
だが、レイハは“変わり者”だった。常に美しく光に満ち溢れているアル・カミアより、命の気配を感じさせてくれるこの地が好きだったのだ。今は戦で汚れていようと、汚れというものを微塵も感じさせない聖地よりも居心地が良かった。
(いつになったら、この戦いは終わるのだろうか……)
聖霊の力を以てすればエーゼスガルダへ攻めて来た人間たちを退けることなど簡単だった。しかしそうすればエーゼに賜った超自然的能力を人間に知らしめることになる。人間は貪欲だ。そうなれば何が何でも聖霊の力を手に入れ、制御しようとするだろう。たとえそれが不可能であっても。
平和――そんなものが再び訪れる日が来るのか? もし戦争が終わったとしても、荒廃した大地は元には戻らないのではないのか……
(エーゼの大地と民を守ることこそ、聖霊の使命ではないのか。それなのに我々は何にもならない議論を交わしているだけだ)
ぼんやりとそんなことを考えていた時、レイハははっとして起き上がった。
人間が脚を使って歩いたり、手を使って物を取ったりすることができるのと同じように、聖霊は彼らのみが持つ『力』を扱うことができる。
そして人間の能力にも走るのが速い、手先が器用などと言った得意分野あるいは不得意分野が存在するのと同様、聖霊が使う力にも得手不得手が存在する。
レイハは『感じ取る』能力に優れていた。
聖霊ならば誰もが持つ、場に漂う空気の流れや気配を読み取る力。眼で視えないものを肌で感じる――人間にも感覚の鋭い者は似たようなことができる場合があるが、聖霊であるレイハのそれは仲間内の中でも群を抜いていた。
レイハの感覚に引っ掛かったのは不穏な気配。それも今まで感じたことのないような濃い闇の――。
(これは、一体……)
たまらず立ち上がって周囲の様子を窺おうとしていると、はっきりと濃い血の臭いが漂ってきた。
血の臭いが濃くなると共に、闇の気配も一段と深くなる。対象が自分の元へ近付いてきているのをレイハは感じていた。
「!」
草を踏む音が聴こえた。
「……き、みは……」
そこに立っていたのは少年だった。体中に真っ赤な血を浴びた、人間の年齢でいえば十歳に満たないくらいの子供。
少年が身にまとっているものはとても服とはいえない、ぼろぼろになった布きれだった。元の色は白だったらしいが、汚れと誰のものかわからない血のせいでおどろおどろしい色になってしまっている。
黒髪はぼさぼさに乱れ、その前髪の間から覗く彼の瞳は、体を染める血と同じ色をしていた。
(魔人、か……)
ディラスの厮徒と呼ばれ聖霊からは蔑まれている魔人族。そう言われるだけあって、魔人族の中には今レイハが感じているのと似たような負の空気をまとう者が数多くいた。
(だが、これは異質だ……この少年は……まるで――そう、聖霊と魔人の気配が入り乱れているような……)
少年はじっとレイハを見つめているように見えたが、その眼は濁りぼんやりとしている。小柄な体は自らを支えかねているかのように、ふらふらと揺れていた。
レイハは少年との距離を保ったまま、言葉を投げかけてみる。
「どうかしたのか?」
怖がられないようになるべく優しく言ったが、少年は応えない。
「どこから来た? その血は一体……」
レイハの声が聞こえていないのか、それとも聞いていてわざとこのような反応をしているのか――少年のふらついている様子を見ている限り、答えは前者のようだった。
彼の正体がわからない限り容易に近付くのは躊躇われたが、このままでは埒が明かない。レイハは意を決して少年に近付いた。
ゆっくりと少年に触れようとすると、突然少年の体がびくんと跳ねた。その眼に初めて感情らしきものが宿り――。
「!」
少年の手がレイハの腕を払うべく動き、二人の肌が触れ合った時――通常では有り得ない鋭い痛みがレイハの全身に走った。
聖霊は肉体的痛みを感じることはない。故にこの痺れるような鋭い痛みは、紛れもなく特殊な力によってもたらされたものであった。
(やはり、この少年……!)
明らかに普通の魔人ではない。
少年が意図して『力』を使ったのかは不明だが、自由に力を扱えるのだとしたら危険すぎる。
もしかすると、聖霊を脅かす存在になり得るかもしれない――。
(このまま放っておくことはできない。何としてでもアル・カミアへ連れて行かなければ……)
この少年が聖霊に害をなす存在であるとすれば、思わぬ邂逅を果たしたレイハの責任はあまりにも重大だった。
レイハを拒絶した少年の見開かれた眼――そこにははっきりとした怯えが表れていた。まるで全てを拒むかのように少年はその血塗れの表情に恐怖のみを湛え、細く頼りない腕は自らの肩を抱き締め、かたかたと小刻みに震えている。
「言葉がわからないのか?」
そうであればこの質問は意味がないのだが、少年はどうやら何かに極端に怯えているだけで、決して知能に異常をきたしているわけではなさそうだった。
レイハは言葉を紡ぐのをやめ、代わりに――。
『大丈夫』
うつむいていた少年にかすかな反応があった。長い前髪の間から不安げな瞳を覗かせ、レイハを見たのだ。
言葉がだめなら、心へ直接語りかける。ヒトはこのような能力を持たないため一方的になってしまうが、思考を直接伝えるには一番良い方法だった。
『私は君の敵ではない。怯えなくていいんだ』
徐々に少年の体の震えは収まっていき、不安そうな光は残るものの、さっきほどの怯えは消えた瞳を瞬いた。
少年の肩にそっと触れる。今度は弾かれることはなかったが、白い肌はひんやりと冷たく、得体の知れない闇の中へ手を沈めたような感覚を覚えた。
どこから来たのかわからない、見るもの全てを恐れていた魔人族の少年。
彼との出会いはどれほどの数奇な運命の交錯によって紡がれたものだったのだろう。
しかしそれこそが、全ての始まりだったのだ。




