5 邂逅(3)
「……!」
月光に照らし出された彼の顔を見た時、心臓が今まで感じたことのないほど大きく跳ねるのがわかった。
確かに――美青年であることは期待した。
だが――。
まさかこれほどとは。
辺りに広がる闇より深い漆黒の髪。ぼさぼさに乱れてはいるが、月光を受けて艶やかに輝いている。
その髪の黒に対して、肌はとても男のものとは思えないほど白い。最高級の陶器のように滑らかな乳白色――リリィはここ数日ろくに手入れしていない自分の肌を思い出し、唐突に恥ずかしくなってしまった。
その顔立ちは、まるで美の女神が造形した彫刻のようである。人のものとはとても思えない彼の美貌に唯一の欠点があるとすれば、あまりに完全であるが故の冷たさを感じさせることだった。
その彫刻にはめ込まれた二つの宝石に、リリィは釘づけになった。
闇夜の中にも輝く鮮血のように赤い瞳――最高級のルビーでも、これほどの輝きは出せまいとリリィは思った。
美しいだけの男なら、腐るほど見た。しかし、ルシナは違う。何とも不思議な美貌だった。
着ている服のみすぼらしさなど、これっぽっちも気にならない。それどころか、衣服の隙間から見えるこれもまた彫像のような肉体が見え隠れして、妖しい色気を醸し出している。
白い肌や端正な顔の造りは女性的に見えるが、その眼の光や纏う空気は間違っても女性のものではない。
どんな美女も彼の前では色褪せて見えるだろう。
「どうかした?」
言葉を失っているリリィを訝しんだのか、ルシナは声を掛けた。
「驚いた……」
「何かわかった?」
「あなたって、とびっきりの美男子だわ。こんな綺麗な人、見たことない」
「それはどうも。で、何かわかったのか?」
リリィは顔をしかめた。
「これだけ褒めてるのに、何も感じないの?」
「別に、俺が美形だってわかっても、俺の素性がわかるわけじゃないだろ」
「それはそうだけど! もうちょっと、何とか言ったらどうなのよ」
「俺の顔の美醜はどうでもいいんだ。――何か、心当たりないか?」
リリィは首を振る。
「残念だけど、わからないわ。綺麗すぎるところを除けば、顔立ちにはこれといって特徴があるわけじゃないし……第一、そんな赤い色の眼、見たことない」
「そんなに変な色?」
「普通じゃないわね。赤い眼の民族なんて、聞いたことがない。突然変異みたいなものなのかしらね」
「ふーん……」
ルシナは心なしかがっくり来たようだ。
「そういえば」
ルシナはその赤い瞳でじっとリリィを見た。
どきん、と心臓が脈打つのがわかる。
「な、何?」
「まだ君の名前を聞いてなかったな。何て名前?」
リリィは少し考えてから、滅多に自分からは名乗ることのない本名を口にした。
「リリエル。リリエル・アミラ・ロザリアよ」
ルシナの反応を窺ったが、彼はそこまで反応を示さなかった。
「長い名前だな。何て呼べばいい?」
リリィは少し嬉しくなった。この名を名乗るようになってから、『ロザリア』という姓を聞いて普通の反応を示した相手は、まずいなかったからだ。
「リリィ。昔からそう呼ばれてるわ。ところでルシナ――」
「うん?」
「これからどうするの?」
ルシナは記憶を失っている。このまま何をするにしても、一人ではどうにもならないだろう。
「どうしようかなあ……記憶を取り戻したいが、簡単にはいかなさそうだし」
夕飯を何にするか決めかねているような口調だ。
リリィはくすりと笑った。
「ねえ、良かったらあたしと一緒に来ない?」
「どこに?」
「あたしが行く所」
ルシナは顎に手を当てた。
「思ったんだけど――あの男たちは何者だったんだ? 君を狙っていたんだろう?」
「そうよ」
「なぜ?」
リリィは声を上げて笑った。
「まさか、今初めて疑問に思ったの!?」
「まあね。そこまで考える余裕がなかったもんだから」
「ふふっ……まあ、そうよね。――何でだと思う?」
「わからないから聞いてる」
ルシナは至って真面目そうな表情だ。リリィは悪戯っぽく笑った。
「何でもかんでもわからないせいにするのはよくないわよ。考えてみないと」
「犯罪者?」
「残念。あたし、家出中なの」
ルシナは首を傾げた。
「じゃあ、あいつらは君を連れ戻しに来たってこと?」
「そうよ」
「……随分、仰々しいお迎えだな」
「当然といえば当然なんだけどね。あたしのロザリアって苗字――あなたは知らないでしょ?」
ルシナは当然のように頷く。
「ロザリア家は、アステニア有数の大貴族でね――こんな話してもピンと来ないだろうけど」
「まあね」
「あたしはそこの娘なの。一応」
「一応?」
「生まれた時からロザリア家にいたわけじゃないのよ」
「へえ」
「あたしの父親は、若い時は遊び人だったらしくてね……たまたま出会った町娘とできちゃって、あたしが産まれた」
ルシナは黙って聞いている。
「最初はあたしが産まれたこと、知らなかったんだって。だからあたしは母親と一緒に、十歳まで暮らしてたわ。貧しかったけど、楽しかった。母さんが大好きだったから」
「…………」
「でも、あたしの存在がロザリア家にばれて、引き取られることになったの」
「…………」
「あたしは行きたくなかった……母さんと暮らしていたかった。けど、そうはいかないわよね。王族とも縁戚関係にある貴族の血を引く者が、貧しい家庭で暮らしてるなんて。しかも、あたしの父親のロザリア公爵は、議会の有力議員。絶好の醜聞だわ。結果、ロザリア家で暮らすことになって、今に至るってわけ」
「何で君は家出中なわけ?」
「母さんに会うため」
リリィは真っ直ぐ前を見据えて言った。強い決意を込めて。
「母さんにいくら手紙を出しても、返事が届くことはなかった。きっとロザリアの執事が母さんからの手紙を廃棄してたんだわ。あたしと一切の縁を切らせるために」
怒りの滲んだ声で、リリィは続ける。
「ロザリアに引き取られてから、一日だって母さんのことを忘れた時はなかった。いつか絶対、母さんに会いに行くんだって……そう決意して、六年の月日を過ごして来た」
「…………」
「ずっとチャンスを窺ってきて……ようやく、屋敷を離れることができた。だから、絶対に会いに行くの。母さんが住むフェルマの町まで!」
少ししてから、ルシナは口を開いた。
「いくつか聞いていいか?」
「いいわよ」
「さっきの奴らは君の父親に雇われた連中か? 君を連れ戻すために?」
「恐らくね。あたしが家を出て今日で三日目だけど……一日一回はそういう奴らに出会ってるわね」
「それ以外の可能性は? たとえば、君が家出している情報が漏れていて、君を捕まえようとしている連中がいるとか……」
「どうかしらね。もしかしたら公爵がそういう連中を雇ってるかもしれないわ。いっそ消してしまおうって」
冗談ぽく言うリリィだが、その声には皮肉な響きがあった。
「あの人にとってあたしは愛情を注ぐ対象じゃないの。ただの、自分の血を引いている存在なのよ」
「…………」
リリィは思い出していた――。
ロザリア家に引き取られてから、実の父親とまともに会話をしたことはほとんどない。
四歳年上の異母兄もいたが、普通の兄妹のように遊んだことは全くなかった。長男としての教育を受けていた彼には、自由な時間はほとんどなかったのだ。兄ヘルムートの母親――ロザリア公爵の正妻は既に亡く、広すぎる屋敷に住むロザリアの人間は、リリィを含めてたった三人だった。
「母親に会って、それからどうする?」
「できることなら一緒に暮らしたいけれど……詳しいことはまだ考えてないの」
「フェルマって町まではどれくらいかかる?」
「……わからない……引き取られた時は馬車だったし……」
「深く考えないで、飛び出して来たってことだな」
全くその通りなので、リリィは頷いた。
改めて考えると、自分の無謀さに情けなくなってくる。母に会いたい一心で飛び出して来たはいいが、どうやって母の元へ行くか、全く考えていなかった。しかも、母がまだ六年前と同じ場所に住んでいるという保証はない。
「いいよ」
「えっ?」
リリィは顔を上げてルシナを見た。
ルシナは整った唇に、面白がるような微笑を浮かべている。彫刻のように冷たかった美貌が、悪戯を考える少年のように変じた。
「君と一緒に行く。一人で何をするわけでもないし……まあ、俺が何かの役に立つかはわからないけどな。今みたいな連中を追い払うことくらいはできるよ」
「本当!?」
リリィはぱっと顔を輝かせた。花のような心からの笑顔を見せる。
「ありがとう! 良かった、あたし本当は不安だったの! さっきみたいな連中からずっと逃げ切れる自身はなかったし……あなたって相当強いみたいだしね!」
こうして、リリィとルシナの旅は幕を開けることになったのだ。