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アナテマ  作者: はるた
第二章
58/124

27 喪失



 声も上げず、リリィの体が膝から崩れ落ちる。

 彼女の体が完全に倒れるのは、ほんの一瞬だった。しかしその光景はやけにゆっくりと、世界の時間がゆっくりと動いているように感じられたのだ。

 ルシナの見開かれた双眸は、ただ床に倒れ込んだリリィを映していた。

 その体はぴくりとも動かない。


 まるで――そう――死体のように。


「リリィ……?」


 その呼び掛けにも、リリィは応えない。

 ルシナは震える手でうつ伏せに倒れるリリィの体を起こした。

 生きているものとは到底思えない冷たい感触。眼は固く閉ざされ、薔薇色だった頬は血の気を失っている。薄く開かれた唇の間からはわずかな吐息の音さえ聞こえない。


「リリィ、起きろ!」


 ルシナの叫びで、ようやくレムとリュカもリリィの身に起こったことを理解した。

 ネオスが何をしたかはわからない。ただ、ネオスに口付けをされたリリィは、魂を吸い取られてしまったかのように倒れたのだ。


「無駄だ」


 怜悧な聖霊の声が降ってくる。


「完全に死んだわけではない。いわば仮死状態だ。だが、もう二度と目を覚ますことはない。この女の魂は、永遠に闇の中に沈めた」


 巡る血の温かささえ、リリィの体からは全く感じられなかった。鼓動の音も、何もかも。


「ネオス……」


 リリィの冷たい体を抱きかかえたルシナは、静かに死神の名を口にした。

 ルシナの精神を支配していたのは、言葉で表すことのできる具体的な感情ではない。ただ果てしなく続く、広大な砂漠のような喪失感だった。


 これは悪夢の中だ。現実であるはずがない。

 だが、石のように冷たくルシナの両腕にかかるリリィの体の重みは、停止してしまったルシナの思考にネオスの言葉の意味を理解させようとしていた。


(リリィが、死んだ……?)


 死――。


 頭の中でその言葉を形作った瞬間、冷酷な現実感が襲ってくる。

 先程まで熱を持って動いていたこの体が、温もりを取り戻すことはない。優しい空色の瞳が開かれることはない。自分の名を呼ぶ声を聞くこともできない。笑顔を見ることもできない。

 永遠に失われたのだ。


 二度と――再び彼女と言葉を交わすことは、できない。

 

「さあ、ルシナ。次はお前だ……」


 少女の亡骸を抱えて両膝を付いているルシナを、ネオスは恍惚とした表情で見下ろした。


「ルシナ!!」


 レムが叫ぶ。彼女の体はまだネオスの呪縛から解かれてはいなかった。

 しかしレムの声はまるで届いていないかのようにルシナは微動だにしない。


「逃げろ! 早く動くんだ!!」


 リュカもまた同様に体を動かすことができない。悲痛な叫びにも、やはりルシナは動かなかった。

 リュカのいる場所からはうつむいているルシナの表情を窺い知ることはできない。


 ネオスはリュカへ視線を向けた。残忍な笑みを浮かべながら。


「お前たちはそこで、この男の精神が壊されるのをじっくりと見ているが良い」


 ネオスの白い手がゆっくりとルシナへ伸びる。


   * * *


「止まりなさい、ネオス」


 その声は何の前触れもなく、突如として響いて来た。

 天から降り注ぐような、穏やかな女性の声。まるで女神のそれだった。


 今まさにルシナへ触れようとしていたネオスははっとして頭上を見上げる。その表情は先程と一変して、驚愕に満ちていた。


 ネオスの視線の先、何もない空間が歪んで、眩い光が突然出現する。

 その光は段々と輪郭がはっきりして、純白の大きな鳥に変わった。

 見惚れずにはいられないほど美しい鳥だ。長い尾が空中に光の筋を引いている。優雅にはばたいて、それは床の上に舞い降りた。


「シャナン!」


 ネオスがその鳥のものと思われる名を口にした。


「ここ最近のあなたの身勝手な行動には目を瞑ってきましたが――先程長老たちの会合で、裁断が下されました」


 何と、柔らかな女性声の主はこの白い鳥であるらしい。

 

「裁断だと?」

「ルシナを捕えるためとはいえど、あなたの行動は目に余る。特にセルドナに渡ってからは、人間の記憶を著しく操作して自らが人間社会に入り込むなど、暴走気味であったといえるでしょう」

「暴走などしていない。それに、操作した記憶は既に元通りにした。掟には触れていないはずだ」

「そんな屁理屈が通用するとでも? 現にあなたは怒りに心を乱し、一人の少女の命を奪った」

「殺してはいない!」

「彼女を再び起こす術がないのなら殺したも同然。この過ちは決して軽くはない。覚悟なさい。あなたをアル・カミアに連れ行くために、私はこの場に来たのです」


 ネオスは歯ぎしりをして、天から遣わされた使者のようなその鳥を憎々しげに見つめた。


「もうすぐなのに……もうすぐ、ディラスの化身をエーゼの御許に連れ行くことができたのに! それはお前もヴェルディカも望んでいたことだろう!」

「最終的にあなたをアル・カミアに連れ戻すという決断を下したのは、ヴェルディカの意志です」


 ネオスははっとして言葉に詰まった。「信じられない」とでも言うように。


「ヴェルディカの……!?」

「族長の意に背くつもりですか?」


 その言葉にネオスを舌打ちをし、リリィの躯を抱きかかえたままのルシナを見た。


「――ここは退くことにしてやる。だが忘れるな。私はお前を決して野放しにはしない」


 そう言い残し、ネオスの姿は光に包まれて消えた。


 あまりに短い間のことだった。

 シャナンと呼ばれた鳥はどうやら聖霊族であるらしい。シャナンと言葉を聞いたネオスは――『ヴェルディカ』という名を聞いた彼は、目の前に迫った最大の目的であるルシナを置いて消え去ってしまったのだ。


 ネオスが消えた途端――リュカとレムは体の動きを拘束していた呪縛が解けたのを感じた。それと同時にリュカの首に爪を突き付けていたセスが、リリィと同じように倒れる。


 反射的にリュカはその体を抱き留めた。

 意識を失っているようだが、呼吸も脈拍もある。リリィの状態とは明らかに違った。


「ど、どうしたんだ!?」

「恐らく、ネオスに操られていたのだろう。奴が消えたことによって術が解けたようだ」


 ネオスがいなくなった今でも、ルシナは未だにぴくりとも動いていなかった。

 シャナンは流れるような声でルシナに言う。


「私は聖霊族のシャナン。我が一族の者が、あなた方の運命に大きく踏み込んでしまったようですね。一族を代表して謝罪します」

「……謝罪など、何の意味もない」


 感情の無い、低い声だった。


「なぜ彼女が巻き込まれなければならなかった……? お前たちの目的は、俺一人なんだろう?」

「ネオスのことは、完全に彼の個人的な行動です。あなたにもう『力』がないのなら、我々があなたを追う必要はない」

「もう、何もかも遅い」


 蝋のようなリリィの頬に、雫が落ちる。

 ルシナの紅い瞳は固く眼を閉じたリリィを映して、濡れていた。


「リリィはもう――」

「このままであれば彼女はいずれ死ぬ。ですが今はまだ、完全に死んではいない」


 ルシナは両眼に激しい炎を滾らせて、シャナンを見た。


「死んでいない、だと? お前もさっき言ったはずだ! もう永遠にこのままなら、生きているなんてどうして言える!?」


 彼がこれほど感情を声に出したことがあっただろうか――。怒り、悲愴、憎悪――そのどれともつかない、だがありとあらゆる想いが一気に噴き出していた。


 知性の光を帯びながらも感情を窺うことができない動物の瞳で、シャナンはルシナを見つめている。

 その声はただ静かに事実を告げるだけのものだった。


「元に戻す方法がないわけではない」

「何――?」

「だが、それができる者がいるとすれば、あなただけです」


 ルシナは流れる涙もそのままに、超然と佇むシャナンを凝視していた。


「ネオスの力は強大で、彼女に掛けられたネオスの『呪い』を解くことは、私の力では不可能です。解くことができるとすれば、ネオスと同等の力を持つあなただけ。それは、あなたが再び力に目覚めることを意味する」

「……どうすればいい?」

「力を取り戻す方法は、あなた自身で見付けなさい。そうすれば、彼女を助ける方法も自ずとわかるはずです。しかし、力を取り戻したあなたを見過ごすことはできません。再び我々聖霊と戦うことになるでしょう。そうすれば、いずれ再びネオスがあなたを裁くため立ちはだかる。あなたに単独で対抗できるのは、実際彼しかいないのですから。――よく考えなさい。ネオスと再び戦うか、彼女を助けるか」


 その問いの答えなど、躊躇するはずもなく決まっていた。


 シャナンははばたいた。その翼がはためくたび、金粉のような光が舞い散る。


「彼女を見捨てるなら、もう会うことはないでしょう。しかし、再び力を手にし、敗北するとわかった戦いを選ぶのなら――」

「愚問だな」

「……意志は固いようですね。いいでしょう。彼女が再び眼を覚ますことを祈っています」


 シャナンの姿が再び光に包まれたかと思うと、次の瞬間には跡形もなく消えていた。

 静寂だけがその後の空間に残った。 

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