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アナテマ  作者: はるた
第二章
52/124

21 刻印



 眼を覚ました時、腹部に鈍い痛みを感じた。


「っ……」

「あれ、もう起きた?」


 ぼやける視界に、二つの赤い瞳が見えた。

 それは次第に鮮明になり、少し驚いたようにリリィの顔を覗き込んでいるセスが浮かび上がる。


「意外と早かったね」

「……よくも殴ってくれたわね」

「だって仕方ないじゃないか」


 リリィは体を起こした。どうやらベッドの上に寝かされていたらしい。

 セスはリリィの隣に腰掛けている。


 リリィは無意識に衣服を確かめた。


「心配しなくても、何もしてないよ」

「…………」

「あ、疑ってるね?」


 当たり前だ。

 セスは変わらず笑っている。


「寝てる相手には何もしないよ。寝てる間は、ね」

「……これから何かする気?」

「まあね」


 純粋な少年のように笑うセス。いつも笑顔の仮面に守られて、中身を見透かすことができない。


「ねえ、君はルシナが好きなんだろ? 口実でも、婚約者に選ぶくらいだもんね」

「…………」

「僕と二人でこんな所にいるって知ったら、あの人はどう思うだろうね?」


 変に動けば、今度こそ逃げられなくなる。リリィはじっとセスの瞳を見ることしかできなかった。

 しかしこちらをまっすぐに見ているその赤い輝きがルシナと重なってしまい、思わず視線を外した。


「お願い……ここから出して」

「だから、無理矢理出ようとしなければ出してあげるってば」

「今すぐに彼の所に行きたいの。あたしが戻らなくて、父もルシナも心配してるかもしれない」


 空色の瞳から涙が溢れ、薔薇色の頬を伝った。


「お願いします……」


 ほとんど駄目元だった。泣き落としが通用する相手なら、こんなに苦労はしない。

 しかし以外にも、セスは無言でリリィに背を向けた。


「行けば? そんなに行きたいなら勝手にすればいいよ」


 すねた子供のような口調である。その切なさが滲むような声に、こちらは悪くないのになぜか心がちくりと痛んでしまう。


「……ありがとう」


 とにかくこれでやっと解放される。

 ベッドから降りて急いで出口に向かった。


「――なーんてね」

「!?」


 いきなり背後から強い力で抱きすくめられた。

 先程のしおらしい態度はどこへやら、くすくすと悪戯っぽい笑い声がすぐ後ろから聞こえる。


「そんな簡単に帰すわけないじゃん」

「っ……騙したのね!」

「僕が正直者に見える?」


 セスの腕から逃れようと試みるが、例のように彼の腕はびくともしない。

 腕を引かれて、体の向きがセスと向かい合うようなかたちになる。


 セスの片手がリリィの顎に触れて上を向かせたかと思うと、次の瞬間には唇を重ねられていた。


「……んっ!」


 いきなりのことで、咄嗟には反応できなかった。

 セスの舌が唇を割り、口の中に侵入して来る。顔を逸らそうとしても、後頭部をしっかりと押さえられてかなわない。

 もう片方の彼の腕はしっかりとリリィの体を自らの体に締め付けている。

 成す術もなく、息をする間も与えない強引な口付けが少女の薄紅色の唇を支配していく。


 ようやくセスの唇が離れたかと思うと、ふわりと体が浮き上がった。


「……!」


 セスに抱き上げられ、乱暴にベッドの上に投げ出される。体勢を整える暇も与えず、セスの体が覆いかぶさって来た。


「や……やめてっ」


 今までそれほど感じていないかった恐怖が、セスの体の重みを感じた時急に全身に広がった。

 体が固まってぴくりとも動かすことができない。


「ルシナを傷付けるには、やっぱり君を傷付けるのが手っ取り早いんだよね」


 そう言ってセスは強引にリリィの服をはだけさせ、白い肌をさらした。

 セスの人差し指がリリィの首筋をなぞる。その仕草に、ぞくりと寒気がした。


「やだっ……!」

「ここへの咬み痕って、支配の象徴なんだよね」


 セスが今指で触れているそこは、かつてルシナが牙を穿った場所だった。


「僕たちが気に入った獲物に付ける印さ。あの人は知ってるのか知らないけど……この行為だけで、君は僕のものになるってこと」

「誰が、あんたのものになんか!」

「君がどう思ってるかは関係ない。ここに僕の咬み痕を付けることに意味がある」


 そう言ってセスはリリィの首筋に顔を埋めた。

 生温かい感触に、全身が粟立つ。


「やめてよっ……!」


 悲痛な声にもセスは耳を傾けない。

 やがて、じわりと痛みが広がった。


(誰か、助けて……!)


 以前ルシナに咬まれた時よりもずっと鋭く冷たい感触。強張った体は恐怖感に支配され、冷たくなっていく。

 無意識のうちに口から出たのは、彼の名だった。


「ルシ、ナ……!!」

「無理無理。来るわけないよ」


 セスは笑いながら言う。


「まあ、来たら来たでおもしろいけどね。大事な君がこんなことをされてるところ見たら、あの人は怒り狂うかな?」

「どうしてこんなことをするの……?」


 震える声でリリィは言った。


「何でそんなにルシナを……」

「嫌いだからだよ」


 その声にリリィはぞくりとした。

 先程までの笑いを含んでいた声とは全く異なる、凍てつきそうな低い声。


「理屈じゃない。昔から、あの人の存在が気に食わないのさ。ネオスに協力したのも、あの人が苦しむのを見たいからだ」

「たったそれだけの理由でっ……!?」

「僕らはね、君たち人間のように理由を求めないんだよ。本能的な欲求に従うだけさ」


 亜人でも、同じ人間という種の一つで分かり合えないことなどないと思っていた。

 しかしこの少年はレムやリュカ、ルシナとは決定的に違う。セスの心の中には自分しかいない。全ての中心が自分であり、己の行動によって周りの風景がどうなるかなど考えてすらいないのだ。


「理由が好きだよね、君たちは。何でもかんでも理由を付けたがる。どうして? なぜ? 理由は? いつもそればっかり。そんなものに何の意味がある?」

「……嫌いって……そう思うことに理由だってあるはずじゃない……!」

「そんなに理由が欲しいなら言ってあげるよ。ルシナはね、僕の姉を殺したんだよ」


 思わず抵抗を止め、リリィはセスの顔に見入った。


「前に『ルシナの心に特定の誰かが留まることはない』って言ったの覚えてる? ヒトの身で神の力を持ったが故か、僕が知るルシナは心を侵されていた」

「…………」

「ルシナは他者と関わろうとせず、心の中に踏み入られるのを極端に恐れているみたいだった。ただ戦い続け――虚ろな人形だったのさ」

「心を許すのを恐れる人なんて、いくらでも――」


 セスはその言葉を遮った。


「ルシナと積極的に関わろうとした人もいないわけじゃなかった。でも、全員死んだ」

「…………」

「ルシナに殺されたんだよ。彼と親しくしようとした人は、一人残らず」

「……嘘よ」


 まさか、そんなことがあるわけがない。一見何事にも無関心で、冷たく見える。でも本当はとても優しい人だ。何の罪もない人を殺すなんて――。

 リリィははっとした。

 ルシナと二人で出掛けた時。唐突に彼が言い出したのだ。


 何の罪もない人を手にかけたとしたら? それでも君は俺を好きだと言える――?


「もう二百年以上も前のことだ。姉は魔人族の戦士で、同じく戦争に参加していたルシナと出会った。そして深く彼と関わり、やがて愛するようになった。ルシナもそう。姉の存在を何よりも身近に、大切に感じるようになったんだ。でも――」


 その時のことを思い出しているのか――セスの眼にリリィは映っていなかった。


「ルシナに――愛した男の手によって殺された。ルシナは大切な人を殺さずにはいられない。このままじゃ、いずれ君だって殺される」 


 まさか、『リーシャ』とは――ルシナに殺されたセスの姉?


 何も言うことができなかった。

 そんなことはないと信じたい。それは嘘だと叫びたい。なのに、声が出なかった。


「ルシナが君に惹かれる理由がわかるな。そっくりだよ、姉さんに。彼女は魔人には珍しい、優しくて正直で、どこまでも真っ直ぐな人だった。君の眼を見てると姉さんを思い出すよ」


 白い肌に溢れだした血をぺろりと舐めると、セスは顔を上げた。


「ハイ終わり。痛くしてごめんね」


 また声の調子が一変し、純粋な少年の顔に戻る。笑った彼の唇から、赤く染まった牙が零れた。

 

「…………」


 まだ血が止まらない傷口を抑えて、リリィは精一杯体の震えを抑えながら起き上がろうとしたが、体に力が入らない。

 セスは口元の血を片手で拭い、手元にあったハンカチをリリィに渡した。


「これで拭いたら?」


 ようやく体を起こしたリリィはセスの差し出された手を払った。ハンカチがひらりと床に落ち、セスはそれを感情の無い眼で見やる。


「……ルシナには、手出しはさせないわよ」

「いつか殺されるとわかっていても?」

「ルシナはそんな人じゃない」


 リリィの声は震えていた。


「大した度胸だ。この状況でそんなことを言えるなんてね」


 でも、とセスは冷たく笑った。


「すぐにわかるさ。ルシナの背負う闇は計り知れない。それに、君には何もできないよ。ネオスの力の前には、君はただのちっぽけな人間でしかない」

「あたしは初めからちっぽけな人間よ。でも、目の前にいる大事な人を助けることはできる」

「……ふーん。だったら頑張ってみれば?」


 そう言って立ち上がり、テーブルに置いてあった帽子を被る。


「僕は先に帰るよ。代金は払っておくから、君はもうちょっと休んでれば?」


 扉に手を掛けると、ベッドに座ってセスの後ろ姿を睨んでいるリリィをちょっと振り返った。


「中々楽しかったよ。また会えるといいね」

「願い下げだわ」


 リリィの悪態には笑うだけで答えず、セスは部屋から出て行った。


 セスが去った後、リリィだけが残された部屋の中に異様な静けさが訪れる。

 体の力が抜けていくのを感じ、リリィはベッドに寝転がった。


 まだ震えが止まらない。

 ルシナにそうされた時は嫌悪も恐怖も感じなかったのに、先程はまるで全身が凍りついてしまったかのようだった。

 ようやく血が止まったようだったが、ずっと傷口を抑えていた掌にべっとりと付いてしまっている。強い匂いを放つ掌から思わず顔を背けた。


 しばらくしてよろめきながらも立ち上がり、洗面所に向かった。

 鏡を見ると、セスに咬まれた場所に小さな二つの牙の痕があり、そこを中心として肌が赤く染まっている。

 丹念に洗い流すが、嫌な感触がいつまで経っても消えない。ずきりとした痛みも、セスの体の重みも、唇の感触でさえも。


 首筋の血を流した後、口も水ですすぐ。何度も何度も唇を洗った後に、タオルで乱暴にごしごしと拭った。


「…………」


 耐え切れなくなって涙が零れ落ちる。あの男の前で涙を見せたら負けてしまうような気がして、ずっとこらえていたのだが、とうとう抑えられなくなったのだ。

 自分が悪いのだ。わかっていたとはいえセスの思惑にはまり、凌辱を受けたことも結局は何もかも浅はかな行動のせいだ。


 ルシナに知られたくない。

 きっと軽蔑される。セスについていったことも、この傷痕も、唇を奪われたことも。


 服に付いた血の染みを髪で隠し、リリィは部屋を出た。

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