4 邂逅(2)
「立てるか?」
青年はリリィに手を差し伸べた。
しかし、リリィはその手を取らずに立ち上がる。
「あなた……何者?」
血の付いたぼろぼろの服を着て、夜の森に倒れていた青年。
最初は死んでいるのだと思ったが、そうではなく、いとも簡単にリリィの追手を撃退した。
彼の衣服には思ったよりもべっとりと血が付いているようだった。それが彼のものなのかはわからないが――。
少なくとも、彼は痛がる素振りも見せないし、こんなに服に血が付くような怪我をしていない。
青年は一つ大きなあくびをした。
「何者――何者なんだろうな」
「はあ?」
「聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「ここ、どこ?」
リリィは今度こそ呆れた。
自分がいる場所がどのような所かも知らず、寝ていたというのか。余程の馬鹿か、それとも頭が少しおかしいのか。
「森の中」
「見ればわかる」
「ミルタの町の近くよ」
青年は腕を組んで考え込むような素振りを見せた。
「ミルタ……ミルタ……駄目だ、全く聞き覚えがない」
「あまり大きくない町だからね」
「もう少し詳しく教えてくれ。どこの国の、ミルタなのか」
自分が今いる場所の国名も知らないというのか。駄目だ、こいつ。本物の馬鹿だ。こんな所でおかしな服を着て寝ているくらいだから、仕方ないか。
「アステニア王国の、ミルタよ」
「アステニア……」
リリィは眼を剝いた。
アステニアはセルドナ大陸の中でも有数の先進国と言ったら間違いなく名前が出る。その大国アステニアの名を知らないというのか。
「まさか、知らないの?」
「そうみたいだ」
「嘘でしょう!?」
青年は頭をぽりぽり掻いた。少し戸惑っているような雰囲気だ。
「実は、俺が誰なのかもわからないんだ」
リリィは唖然とした。
自分が誰なのかわからない――? それって――。
「記憶喪失?」
「らしいな」
「本当に、何も、思い出せないの?」
「俺の最初の記憶は、君らに遭遇したことだ。それまで何をしていたのか、何でこんな所にいたのかも全くわからない」
――沈黙。
リリィは戸惑った。記憶喪失の人間に会うなんて経験は初めてだし、何をすればいいのかわからない。
しかし、「何も思い出せない」と言う割に、この男は落ち着いているように見える。余程自分の方が混乱している。
「あなた、落ち着きすぎじゃない? 普通、もっと混乱するものでしょ。自分が何者かもわからないんだから」
「そうかもしれないけど――慌てたってしょうがないだろ。それで何か思い出せるならそうするけど」
「よーく考えてみて。とりあえず、あなた自身に関する質問をしてみるわ。――まず、あなたの名前は?」
青年ははっと閃いたように顔を上げた。
「名前……俺の名前か」
そして、ゆっくりと、慎重にその言葉を紡いだ。
「ルシナ」
「ルシナ?」
青年は頷く。
「名前は、と聞かれて頭に浮かんだんだ。多分合ってると思う。ルシナ――それが俺の名前だ」
「ルシナ……変わった名前ね」
リリィはもう一度、その名を復唱した。
「じゃあ、次の質問――どこから来たの?」
「わからない」
「もうちょっと考えなさいよ」
「さっきから考えてるけどわからないんだよ」
「わかったわよ――年齢は?」
「わからない」
「家族は?」
「わからない」
リリィは憤慨した。
「もう、『わからない』ばっかりじゃ何もわからないじゃない!」
「わからないんだから仕方ないだろ。怒りっぽいな、君は」
二人は腕を組んで考え込む。どうやら、彼が覚えていることは自分の名前だけのようだ。
最初は馬鹿なのかと思っていたが、話し方や態度からするとそのような印象は受けない。というより、知的で冷静な印象だ。
記憶喪失というのは、本当らしい――。
どうしたものか、とリリィは考えたが、いつの間にか自分がこの正体不明の青年に興味をそそられていることに気付いた。
リリィは物語が好きだった。ありそうにないことを想像したりするのも好きだった。
この状況は、まさに物語のようではないか。
追われる少女を記憶喪失の青年が助ける――。そう思うとわくわくしてきた。
これでその青年が美形であったりすれば、完璧なのだが。
「ねえ、顔を見せてよ。ここからじゃ暗いしよく見えないの」
「何で?」
「髪の色とか、眼の色とか、肌の色とか――顔立ちにも特徴があれば、大体どこの出身なのかわかるかもしれないわ」
「本当?」
ルシナの声が明らかに弾む。
「是非見てくれ。俺も自分がどんな顔をしているのかわからないし」
「じゃあ、こっちに来て」
リリィはわくわくしながら、一際月明かりが当たっている所へルシナを手招きし、その場へ座った。
「何で座るんだ?」
「だって、目線が全然違うもの。あなた相当背が高いみたいだし――屈むのも辛いでしょ?」
素直にルシナは従って、リリィの正面に座った。
月明かりを受けて、青年の顔がはっきりと浮かび上がる。