17 聖霊(3)
何が起こっているのかわからなかった。
目の前にいたはずのダーモット伯爵令嬢は、突然全く別人の姿に変わり、しかも彼――性別ははっきりとはわからないが――はルシナのことを知っているようだ。
(亜人――なのか?)
普通の人間でないのは明らかだった。
彼は自らを『聖霊族』と言った。
亜人だとしたらあくまで『ヒト』である。魔人のように驚異的な身体能力を持ち果てしなく長い時を生きる種族でさえ、食べ物と睡眠がなければ生きていけないという部分では、その理を外れてはいない。
しかしこれは――。
まず、全く別人の姿に変化するという有り得ないことをやってのけた。
それにネオスが放つ、存在するだけで全てを退けるかのような強烈な威圧感、そしてそこだけが全く別の空間であるかのような超然とした存在感。
「セスの策は功を奏したようだな。こうもうまくお前をおびき寄せることができるとは」
ルシナは戦慄しながらも、直感していた。
この得体の知れない人物――ネオスは、間違いなく失った記憶と深く関わっている。
頭の中で濁流のような考えと感情を巡らせているルシナをよそに、ネオスがおもしろそうにくすくすと笑った。
「わけがわからないという顔だな。無理もない。今のお前には以前の記憶がない」
「…………」
「今のお前をレイハが見たら喜ぶだろう。お前が力を失い、過去を忘れ生きることこそ、レイハの望みであろうからな」
「レイハ――?」
全く知らないはずの名前だった。しかしどこか、心に引っ掛かる響きでもある。しかし今のルシナにその名の意味を深く考える余裕はなかった。
「レイハの名も、過去も、己が侵した罪でさえ全て忘れてしまっている……全く罪深きことだ」
「罪だか、何だか知らないが――」
ルシナは息を整えながら、額の汗をぬぐった。
「俺が記憶を失っていることを知っているなら、説明してくれてもいいんじゃないか?」
「その必要はない。どうせ、すぐに何もわからなくなるのだから」
ネオスはルシナに手を差し伸べるかのように、ゆっくりと右腕を上げた。
ネオスの手が内側から光を帯び始める。
とても現実とは思えない、夢のような光景だ。
「何をする気だ? ここは会場から離れてはいない。大きな物音でもすれば、すぐに人が来る」
それでなくとも、魔人としての自分の能力は自負していた。当時の記憶はないが、かつては暗黒戦争で魔戦士と呼ばれていた。ネオスがどんな能力を持っていようと、そう簡単に殺されはしないと。
「誰も来ない」
ネオスは笑みを崩さずそう言った。
「お前は既に、私が支配する空間の中にいる」
その刹那、大きく地面が揺れる。
「!?」
バランスを崩して膝を付く。
地面は立っていられないほど大きく揺れ続けているのに、ネオスの姿だけは全く動いていないように見えた。
これは幻か? 頭の中が狂ってしまったのか?
得体の知れない恐怖に支配されつつも何とか立ち上がろうとするが、地面に付いた手足が全く動かない。
「な……っ」
「お前を精神世界に引き込んだのだよ。口付けをした時にな。――もう逃げることは無理だ」
見ると真っ黒な触手のようなものが地面から生えて、ルシナの体にまとわりついている。
どんなに力を振り絞って振りほどこうとしても、それはびくともしない。ずるずると気味の悪い感触を伴って、それは這い上がってくる。
ルシナを嘲笑うネオスの声が、天から降り注いでくるかのように響き渡る。
「魔人の腕力など、何の意味も成さない。既にお前は私が創り出した幻影の中。肉体という器の中にある今のひ弱なお前の魂をひねりつぶすことなど、容易いこと」
悠然とネオスが近付いて来て、跪くルシナの目の前に立った。
ネオスの白い手が伸び、ルシナ額に触れる。
温かさも冷たさをも全く感じさせない、硝子でできた人形に触れているかのような感触だ。
「怯えることはない。苦しむのは一瞬だ」
黒い触手が更に這い上がってくる。それと同時に頭の中を揺さぶるような悪寒が凄まじい勢いで襲って来た。
「あ、あああ……うああっ!!」
ネオスの指の間から見える、その表情――。
慈愛に満ちた天使にも、ルシナの命を食い取ろうと舌なめずりしている悪魔にも見える微笑み。
「やめろ……!」
暗黒の触手が、意識の中になだれ込んで来る。
「やめてくれ!!」
ルシナは絶叫した。
しかしネオスはただ笑うだけだ。
「恐ろしいか? 以前とは違い、力を使えぬ今のお前はただのヒトと同じ。そら、もう壊れるぞ」
無邪気に虫の体をばらばらにする子供のように、ネオスは面白そうに言う。
ルシナは出る限りの声で叫び続けた。そうでもしていないと、ネオスの暗黒に全てが取り込まれてしまうような気がする。
しかし、その抵抗も既に限界に近かった。
意識が朦朧とする中、恐怖も寒さも段々と心地良さに変わってくる。
(流れに身を任せれば楽になるのか……?)
心地良い闇の中へ身が落ちそうになる。奇妙な倦怠感と浮遊感に揺られながら。
しかし――。
「――!」
突如として、ネオスの笑っていた表情が何かに気付いたかのように引き締まる。
そしてすぐに忌々しげに、
「邪魔が入ったか。……まあ、いい。どうであれ、お前に逃げる術はないのだから」
額から手が離れた途端、体中を絞めつけていた触手も消え、ルシナは地面に倒れ込んだ。
「必要以上に苦しみたくなければ、無駄な抵抗はしないことだ。そうすれば、心地良い虚無の海に浸ることができるぞ」
遠のく意識の中で反響するようなネオスの声を聴いた後、視界が真っ暗になった。
* * *
ぼんやりと眼を開くと、二つの青い瞳が浮かび上がった。
その映像がはっきりと認識できるまで鮮明になり、切羽詰まった表情で心配そうに自分の名前を呼んでいるその人物がリリィだと気付くまで、かなりの時間がかかった。
「……ルシナ!?」
「…………」
「良かった……気が付いたのね!」
リリィは心から安心したように息をついた。
ぼんやりと頭の中にもやがかかっているかのようで、今置かれている状況が把握できない。
どうやらここは屋内のようである。
「大丈夫? 急に倒れて……本当に心配したんだから!」
「急に……?」
「帰りが遅いから、心配になって様子を見に行ったの。そうしたらオディールさんが倒れているルシナを抱きかかえてて……部屋を貸してもらって、休ませてもらったのよ。もう何ともない?」
ネオスが口にした『邪魔』とはリリィのことだったのか。
ルシナは体を起こして、先程起こった出来事をゆっくりと整理しようとした。体調には特に問題はない。しかし、あまりに異常な出来事が立て続けに起こったせいで、まだ頭の中は混乱している。
オディールはオディールでなかった。
ネオスと名乗る『聖霊族』。
ネオスは魔法というしか説明のつかないような能力を使って見せた。ルシナの全身に絡みついていた黒い触手――あれは幻影だったのか? 現実としか思えない実在感――今も感触が残っている。
彼が言うには、オディール・ダーモットという人間は存在せず、ルシナを狙ったネオスが『創り出した』存在であったらしい。
(全く、一体何が起こってるんだ……)
ただ一つ言えることは、ネオスはルシナの失われた記憶の核心を担う存在だということだ。
ルシナの脳裏にある言葉が浮かび上がった。
『お前の本質は、破壊だ。奴らを滅ぼすことこそ、お前の使命なんだ』
以前、夢で見た過去の自分。彼が言っていた言葉だ。
(奴ら――『奴ら』を滅ぼすことが――)
今持っている限りの全ての記憶の断片が、限りなく細い線で繋がった。
滅ぼすべき存在とは、ネオス――すなわち聖霊族ではないのか?
少なくともネオスは確実にルシナを滅ぼそうとしている。己を脅かす存在から自身を守るために、過去の自分はそれを滅ぼすべきであると言っていたのではないのだろうか。
(ネオスは……魂を奪われた同胞のため、と言っていた。記憶を失っている以上、心当たりは全くないが……ネオスの同胞――つまり聖霊族と考えるのが妥当だろう)
『魔戦士ルシナは、ある罪のために神の怒りを買った』
以前リュカが言っていた、暗黒大陸で噂されている魔戦士ルシナの失踪の原因。
ある罪とは『聖霊族の魂の略奪』であり、『神』とは聖霊族のことではないのか。
(そう考えれば……辻褄は、合う)
セルドナ大陸に来る前の自分は魂の略奪という罪を犯し、ネオス、あるいはその仲間に追われていた。
その追跡から逃げるために、なぜ記憶を失ったのかはわからないが、セルドナに来た。
「ルシナ……? どうしたの?」
ルシナははっとして、心配そうに顔を覗き込んでいるリリィに気付いた。
「ああ……大丈夫だ」
「ねえ、何があったの? 急に倒れるなんて、原因がなければ有り得ないじゃない。それに、今のルシナ……いつもと違う」
リリィは汗ばんでいるルシナの手を握った。
「どうしたの?」
「…………」
先程起こったことを話すか、数秒の間でルシナはめまぐるしく考えを巡らせた。
到底現実とは思えない出来事だった。ひょっとすると、夢だったのではないかとも思う。
リリィなら恐らく信じてくれるだろう。そして、オディールの正体を確かめようとするだろう。
リリィをオディール――ネオスに近付けることは、絶対に避けたかった。
ネオスの能力が未知数である限り、リリィの身に何が起こるかわからない。
これで、はっきりしたことがある。
ルシナがおびき寄せられたのは間違いない。それも、ルシナを狙っていたのはセスでも伯爵でもなく、オディールだったのだ。
いや、セスではなかったという表現は正しくない。彼はオディールの協力者なのだ。オディールの指示によってリリィに近付いた。
ほぼ間違いなく彼はネオス――すなわちオディールの正体を知っているだろう。もしかすると彼自身もネオスと同じ聖霊族かもしれない。同じように、『セス』という人間は存在しないのかもしれない――。
今の所、ネオスの目的はルシナだけであるらしい。しかし、セスの方はわからない。単にネオスの協力者であるだけならばまだ良いのだが、第一印象では、素直に他者に従属するタイプには思えないのだ。
(どうすればいい……)
必死に対応策を考えようとしているルシナの横で、リリィはこの上なく不安そうに彼の焦燥と動揺が入り混じった顔を見つめている。
「ルシナ……一体何が」
「リリィ」
ルシナはリリィの手を握り返した。
「あの女――オディールには絶対に近付くな。セスにもだ」
「えっ?」
「説明不足なのはわかってる。でも、今言えるのはこれくらいなんだ。――頼む」
リリィは混乱している様子だが、ルシナのいつになく緊迫した表情に頷いた。
「――わかったわ」
「早くここを出よう。この部屋にいるのは俺たちだけか?」
「ええ、そうよ。会場からも離れているし……」
その時、ドアが開いた。
入って来たのは赤いドレスを身にまとった美女――オディールだ。
「気分はどう? 起きているということは、もう大丈夫なのかしら?」
(ネオス……!)
優雅な声でそう言う。
『彼女』はまるで何事もなかったかのように、『オディール』としてそこにいる。
しかし、今目の前に立っているこの女はヒトではない。『オディール』という名の付いた架空の人間――本来なら存在するはずのない、ネオスが変身した姿なのだ。
先程のルシナの話もあり思わず身を強張らせたリリィにオディールは目ざとく気付いて、柔らかく微笑みかけた。
「どうかなさって? まるで恐ろしいものを見ているかのような顔ね」
「先程は失礼しました。休ませて頂いてありがとうございます」
固い声でルシナは丁重に礼を述べた。
「いいのよ。もう休む必要がないのなら何よりだわ」
「申し訳ありませんが俺たちはこれで帰ります。失礼は承知ですが、伯爵によろしくお伝えください」
「そう……残念ね」
ルシナはリリィの手を引いて、部屋を出て行こうとした。
「またお招きするわ。――近いうちに」
オディールの声を無視し、ルシナは足早にその場を去った。
* * *
リリィとルシナが去り、オディールは一人部屋に残った。
「良かったんですか?」
新たに部屋に入って来たのはセスだった。ルシナとリリィが部屋を出るタイミングを見計らって入って来たのだ。
「せっかくルシナに辿り着いたのに……」
「急く必要はない」
彼女の口調は『ネオス』のものに変わっていた。
「そういえば二週間前……なぜリリエルからルシナの情報を聞き出さなかったんです? そうすればすぐにでもルシナを捕えることができたのに。あなたならただの人間の心を読むことなど造作もないでしょう」
「私は間抜けではない。無論、リリエルの記憶からルシナの情報を読もうとした。――だが、できなかったのだ」
「……できなかった? 心や記憶を読んだり操作する力が通用しないのは、同じ聖霊だけなのでは?」
「稀にそのような人間がいる……強制的に心に入り込むことができない体質の者だ」
セスは純粋に感嘆した。
「へえ……初めて知りました。便利ですね」
「ほとんど皆無に等しいが……リリエルはその中の一人であったようだ。全く、忌々しい」
「聖霊も万能というわけではないんですね」
ネオスが冗談ぽくそう言ったセスをじろりと見る。
セスは肩をすくめた。
「――失礼しました」
「セス……忘れるな」
オディールは片手でセスの頬に触れた。
「私はエーゼに選ばれし民だ。本来ならディラスの厮徒であるお前と行動を共にする存在ではない」
「……わかっていますよ」
「感謝することだ。目的を果たすためならば私だけで事足りるものを、お前の『楽しそうだから』という理由で、わざわざ『ダーモット伯爵家長男セス・ダーモット』としての記憶まで、人間たちの頭の中に刷り込んでやったのは私なのだから。しかも、瞳の色まで変えてやっているのだぞ」
「ええ、もちろん感謝していますよ」
「――眼を閉じろ」
セスは言うとおりに瞳を閉じた。
オディールの白い指先が内側からかすかな光を放ち、セスの両の瞼に触れる。
セスが再び眼を開いた時、そこにあったのは二つの深紅の玉だった。
「ディラスに創られた種族の証――いつ見ても、忌まわしい色だ」
「僕もあまり好きではありません。自分のこの眼を見ていると、ルシナを思い出す」
「――お前はなぜそこまで奴に執着するのだ?」
「ただ嫌いだからですよ。まあ、強いてそれらしい理由を言うとすれば……彼女の存在があるから、かな。ルシナを愛し、そして死んだある哀れな女が」
「復讐か」
「いいえ」
にこりと天使のようにセスは笑った。
「言ったでしょう? 第一の理由は、ただ彼が嫌いだからだ。僕は他人のために自分の人生を犠牲にする気はない」
淡々と言い、セスはオディール――ネオスに背を向け、部屋を出て行く。
その背中を見送って、オディールは呟いた。
「……わからん奴だ。ヒトの考えることというのは、理解できぬ」




