2 少女(2)
夜の大通りはたくさんの人々で賑わっていた。
立ち並ぶ店からは灯りや客の談笑する声が漏れ、暗闇の中に昼間のような明るさを与えている。
行き交う人の群れの中、一際目立つ人影が一つ。
「おじさん、林檎一つ頂戴!」
「はいよ!」
先程、裏通りの酒場で三人の男をぶちのめしてきた金髪の美少女ーーリリィだった。
出店の店主は林檎をリリィに渡しながら言った。
「お嬢ちゃん、一人かい?」
「まあね」
「そりゃあ、危ないよ! この辺りにはたちの悪いチンピラ共がごろごろいるんだ。間違っても裏通りなんかにはいくんじゃないよ」
リリィは代金を手渡し、林檎をかじりながらにやりと笑った。
「ご心配なく。さっきそいつらをしめてきたところだから」
「?」
彼にはリリィが何を言っているのかわからなかっただろう。
しかし、聞き返すより先に、リリィは人の波の中へ消えていた。
(とは言ったものの……)
林檎をかじり、歩きながらリリィは考えていた。
(早くこの町を出た方がいいかしらね。さっきの連中はただのチンピラだったから良かったけど、もっとできる奴らがきたらやばいし、あの酒場にも他の追手がいたかもしれない……やっぱり、興味本位であんな店に行ったのはまずかったかな)
リリィの表情には強い決意が浮かんでいる。
(まだ捕まるわけにはいかない……目的を果たすまでは、絶対に!)
* * *
大通りを抜けると、リリィは町を出た。
夜は既に深い。間違っても、年頃の少女が一人で出かける時間ではなかった。
昼間のように賑わう町でも、一歩外に出れば、夜が支配する漆黒の闇に覆われ、ろくに整備されていない道の両脇には、風に揺れて不気味にざわめく木々が枝を広げている。
しばらく歩いたところで、リリィは足を止めた。
「…………」
吹き抜ける風。木々がざわめく音。
数歩進み、また立ち止まる。
リリィの感覚の網は、つかず離れず、しかし確実に背後に迫っている見えない敵の存在を察知していた。
(まずいわね……つけられてたみたい)
夜の静寂の中、緊張が張り詰める。
見えない敵もまた、リリィが自分たちの存在に感づいたことに気付いている。
背後の敵がじりじりと距離を詰めてくる気配がした。
刹那――鹿のように敏捷な動きで、リリィは道の脇の木々へ走った。
この奥は深い森である。
月が出ているとはいえ、この闇夜の中、灯りがなければ人の眼では抜ける事はできまい。
しかし、このままでは捕まってしまう。
リリィは自らの直感と運に全てを委ねることにしたのだ。
敵も足音を立てて走り出す。その数は、五、六人と言ったたところか。
「回り込め!」
静寂を切り裂いて声が飛ぶ。
それを背中で聞いて、リリィは走った。
どこへ向かっているのかわからない。この森を抜けられるのか、抜けた先がどんな場所なのかも。
ただひたすら、手を伸ばした先さえ見えない深い闇の中を走り続けた。
* * *
どのくらい走っただろうか――。
リリィは疲労しきった足がもつれて転ぶまで、走るのを止めなかった。
体の外に聞こえそうなほど、心臓が激しく鼓動を刻んでいる。
乱れた呼吸は当分収まりそうにない。
(何とかまけたかしら……)
リリィは木に背をもたれて座り込むと、突如として猛烈な疲労感と眠気が襲ってきた。
それらを振り払うように金色の頭を激しく振る。
(寝ては駄目だ……あいつらがまだあたしを追いかけているかもしれないのに)
そうは言っても押し寄せる眠気の波を押し返す事はできない。
睡魔と戦っていると、ふと、頭上から月明かりが差し込んでいることに気付いた。
リリィが今いる場所は、比較的木が少なく大分開けているのだった。
黒い天空にうかぶ見事な満月。闇の世界に光をもたらしているそれを見ていると、眠気も疲労も、追われていることさえ、忘れることができそうだった。
(……?)
リリィから少し離れた場所――木が生えておらず、月光に照らされ白く浮かび上がっているように見える所があった。
何かがいる――。
ここからではよく見えない。
リリィは無意識のうちに立ち上がり、それに近付こうとしていた。
(何かしら……)
近付くにつれ、それの姿がはっきりと見えた。
それは、人間だった。
追手の男かと思って身構えたが、そうではないらしい。
それは、うつ伏せに倒れたままぴくりとも動かない。
(まさか……死体?)
恐ろしいのが半分、好奇心が半分で、リリィはゆっくりと倒れている人物に近付いた。
うつ伏せに倒れているので顔は見えないが、男のようだった。
着ている服は無数の刃に斬られたかのようにぼろぼろで、もはや衣服には見えないただのぼろ切れに化している。
そして、至る所に血のような赤い染みが付いていた。
本当に死んでいるのかもしれない。
恐ろしくなったが、リリィの好奇心は観察を止めなかった。
声の届く距離まで来ると、リリィは思い切って声を掛けてみた。
「あの……大丈夫ですか?」
返事はない。
リリィは倒れている男のすぐ傍まで近付き、その場に屈んで『死体』を凝視した。
顔を地面に付けるような体勢なので、依然として顔はわからないが、ぼさぼさに乱れた黒髪をしている。
ずたずたの服が元はどのような形をしていたのかわからないため、『死体』の身分や暮らしぶりは不明だ。しかし、まともな暮らしをする者が、こんな場所で殺されるだろうか。
生死を確認しようとした時、がさりと草を踏む音が聞こえた。
ゆらりと松明の炎も見える。
「いたぞ!」
急いで立ち上がり、逆方向へ逃げようとしたが、リリィははっと足を止めた。
前方からも、後方からも、松明の炎が見える。
――囲まれた。
(しまった……)
焦りながらも、リリィは傍らで横たわる死体を見下ろし、内心で毒づいた。
(何だってこんな所で死んでるのよ! あんたのせいで見つかったじゃない!)
『死体』がもしそれを聞いていたら、そんな理不尽な、と言ったかもしれないが、彼は相変わらず横たわったままだ。
男たちは全員黒い装束を着て、フードを深く被っている。
リリィはじりじりと詰め寄ってくる男たちを真っ直ぐに見据えた。
「あんたたち、ロザリア公から直々に雇われた連中ね?」
男たちは答えない。
「公爵に伝えなさい。戻る気はないってね!」
「リリエル様……大人しく来てくれるのなら、手荒な真似は致しません。ですが、どうしても嫌と仰るなら――」
リリィはため息をついた。
「あたしなんかに構うくらいなら、もっと他のことをすればいいのに……」
リリィは男たちの動作を注意深く見ながら、逃亡のチャンスを窺っていた。
これだけの人数を相手にするのは不可能だ。
かと言って、逃げる隙があるのかどうか――。
(でも、『逃げる』しかない! それ以外の選択肢はない!)
男たちが、手の届く距離まで近付いてきた。
(どうする、どうする――! 早く逃げなきゃ!)
その時だった。
男たちが気にも留めていなかった、リリィの足元の『死体』が突然動いたのだ。