27 別れの時(1)
病院で傷の手当を受けてから、リリィはロザリア家の邸宅がある王都ラグディールに戻ることになった。
当初気が進まないようだったが、ヘルムートの強い申し出で、ルシナも共に行くことになったのだ。
「気が進まないなあ」
道中、ロザリア家の馬車の中でルシナはぶつくさ言っていた。
ヘルムートは困ったように笑う。冷たい雰囲気はあるが、思ったよりよく笑う人なのだとリリィは思った。
「そう言わないで下さい。話を聞けば、随分危険な目に合ったとか。リリィに付き添ってくれたお礼を是非したいのです」
「でも、俺みたいな馬の骨を屋敷に入れていいの? もしかしたら大切なお嬢様をたぶらかしたかもしれないのに」
ヘルムートは苦笑するしかなかった。
* * *
アステニアの中心地、王都ラグディールは様々な政治機関が集中した、まさに王国の心臓である。多くの巨大な建物が立ち並び、昼も夜も絶えず人が行き交う。地方から初めて来た者がそれを見れば、何かの祭りかと思うだろう。
ロザリア公爵家宅はそんなラグディールの中心部にあった。
「はあ……これはすごいな」
馬車から降りたルシナは感嘆の声を上げた。
ぐるりと敷地を取り囲む鉄柵。開かれた正門には、何人もの警備員と出迎えの執事たちがいる。
門を通った先には噴水があり、その更に奥にある白亜の建物は、イグリスで泊まった宿の何十倍はあろうかという大きさだ。
「お帰りなさいませ」
一人の老いた執事が前に進み出た。
「旦那様がお待ちでございます」
「ご苦労。客人に休む部屋を用意してくれ。リリィの命の恩人だ。くれぐれも粗相のないように」
「かしこまりました」
「俺とリリィは父上の元へ向かう」
* * *
リリィは父ヴィンセントの私室の前で立ち止まった。
「どうした?」
前を歩いていたヘルムートが言う。
「何でもない……」
「既に夜も深い。疲れているのなら、明日にしても構わんが……」
リリィは首を振った。
「大丈夫」
ヘルムートは頷いて、豪奢なドアをノックした。
「父上。ヘルムートです。リリィを連れて参りました」
「入れ」
厳かな声がして、リリィはぴんと背筋を伸ばした。初めて会ってから六年以上だった今でも、父と会う時は緊張してしまう。
ヘルムートが扉を開け、リリィはそれに続く。この部屋に入ったことは数回しかない。
奥の壁が全てガラス張りになって、夜景と夜空が一望できる。その窓の外を見ている人影があった。
ヴィンセント・ロザリア。リリィとヘルムートの父だ。古くから続く名門中の名門貴族ロザリア公爵家の当主にして、評議会議員でもある。
「よく帰ったな」
ヘルムートはこの父によく似ていた。しかし、ヴィンセントの方がもっと鋭く冷たい空気を持っている。
ヘルムートの影に隠れるようにして、リリィは広い部屋の中を歩いて行った。
「ヘルムート、悪いが席を外してくれ」
「は、しかし……」
「リリエルと二人で話をしたい」
ヘルムートは躊躇ったが、やがて、
「……わかりました。失礼します」
リリィはこの上なく心細くなったが、どうすることもできない。
父と二人きりで会ったのは、覚えている限り最初にこの屋敷に来た時だけだ。
ヘルムートがいなくなってたった二人となった部屋の中を、沈黙が支配している。
「よく、無事で戻って来てくれた」
リリィは頭を下げた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「うむ……」
ヴィンセントは今年で四十歳になるが、そうとは思えないほど若々しい人だった。
眼光は鋭く、その整った顔立ちに年齢を感じさせるものは何一つない。均整のとれた長身は、思わず見惚れてしまうほどだ。
今も渋みのある男ぶりだが、昔はどんなにか美しかったことだろう。若き日の母が夢中になるのも無理はない――とリリィは思った。
「知ったのだな」
リリィは顔を上げた。
「はい……」
「お前に知らせるべきだった。お前を傷付けまいとして、知らせなかったのだが――私の判断が間違っていた。危険な目に合わせてしまって、本当に済まない」
「なぜ……謝るんですか」
リリィは震える声で言った。
「勝手に家を出たのはあたしです。あなたは何もしていないのに……」
「…………」
ふいに涙が溢れそうになる。
「実は――お前をロザリアに引き取ったのは、エルザの意志だったのだ」
「え……!?」
何を言われたのかわからなかった。
ヴィンセントは続ける。
「私はエルザを妻に迎えるつもりだった。しかし彼女はそれを頑なに拒否したのだ。自分のような身分の者が公爵夫人になれるわけがないと……ヘルムートも嫌がるだろうと」
「…………」
「エルザは私の前から姿を消し――連絡は途絶えた。やがて子供がいるとわかった時、今度こそ二人共この家に迎えようと思ったのだ」
「…………」
「しかし、エルザは私の妻になることだけは受け入れてくれなかった。その代わり、娘は引き取ってほしいと言った。娘に辛い暮らしを強いたくないと、そう言ったのだ」
「…………」
「私は彼女の望みを叶えた。時々会うことができれば、お前も納得してくれるのではないかと思った。だが――私は、エルザが病に侵されていたことさえ気づけなかった……」
ヴィンセントの声には、深い後悔と苦渋の響きがあった。
リリィの両眼から大粒の涙が零れ落ちる。
「お前が母宛に手紙を出すたび、真実を言うべきか迷った。だが……お前を傷付けるのが怖かったのだ。結果、私の臆病な心が、お前を危険な目に合わせた挙句、深い悲しみを負わせてしまったのだな」
「…………」
「許してくれとは言わぬ。憎んでくれても構わない。私はそれだけの罪を犯した……」
リリィは激しく首を振った。
「あたし……向き合おうとしなかった。思い出に甘えて、目の前にいる人と向き合うことができなかった。自分のことだけを考えてたの……皆があたしをどう思ってくれてるかなんて、考えようともしなかった」
嗚咽の混じる声をようやく絞り出す。
「ごめんなさい……」
いつの間にか、ヴィンセントはリリィの正面にいて、その震える肩を抱いていた。
「済まなかった。――お前まで失わずに済んで、本当に良かった」
リリィは生まれて初めて父の温もりを感じながら、その胸の中で泣いた。




