20 魔戦士(1)
イグリスからの逃亡より、二日後――。
ルシナとリリィは徒歩でアトルという街に辿り着いていた。
着の身着のままで、食糧も金も持っていないので、街道の横の森で夜を明かしながら、地道に歩き続けたのだ。
アトルから、リリィの母が住むフェルマまでは徒歩で数時間だ。
後もう少しで母に会えると思うと、心が躍った。
アトルに着いた頃にはもう夜だった。もちろん、宿に泊まる金はない。
ずっと歩き続けていたのと、ここ数日間の精神的疲れからか、リリィは今までになく疲労していた。
「そろそろどこかで休もう」
アトルの街に入る道の前で、ルシナが言った。
「うん……そうね」
ずっと歩き続けたせいで、足が痛い。指が腫れているし、あちこちの皮も剥けている。
「とりあえず……野宿できそうな場所を探そうか」
ルシナは申し訳なさそうに言った。
「ええ。少し離れた場所に林があったから、そこはどう?」
「俺はいいけど……ごめん。俺が勝手なことをしたせいで、宿に泊まれなくなって」
リリィは首を振った。
「いいわよ、そんなこと。昔はもっと酷い生活してたもの。むしろ楽しいわよ。豪華な部屋でふかふかのベッドに寝るより、こっちの方があたしに合ってる気がする」
「贅沢は嫌い?」
「嫌いっていうより、性に合わないの。お金持ちって、信じられないくらい無駄遣いするのよね」
リリィはロザリア家で暮らした六年間のことを思い出していた。
「あたしも、そういう暮らしに少しは憧れたりしてたけど……実際、虚しいものよ。お金で空腹は満たされても、心は満たされない」
「…………」
「着たことのないようなドレスを着たりするのは、結構好きだった。着飾って夜会に出たりするのも、最初は楽しかったけど、段々面倒になって来るし……ただ単に綺麗な恰好をするのは楽しいけど、それをこれみよがしに見せびらかせて、よそ行きの笑顔でドレスの裾をつまんで挨拶するのは嫌いだった」
ルシナは笑った。
「君らしいな。――想像できないよ。君が綺麗に髪を結ってドレスを着ているところ」
リリィはにやりと笑って見せる。
「見たらあたしを好きになっちゃうかもね? 自分で言うのも何だけど、結構言い寄ってきた人もいたんだから。――まあ、ロザリアの名前目当てが八割だけど」
ルシナは声を上げて笑った。子供のように明るくて無邪気な笑顔だ。
「残りの二割は君の美貌に眼が眩んだんだってことか。それは是非見てみたいね」
「あたしも見てみたいわ。ルシナが正装してるところ。黒いスーツが似合いそう」
「それも想像できないな。固い服装は合わなさそうだ」
「ルシナなら何でも似合うよ。もしあなたが正装して夜会に出たりしたら、それはそれは大変でしょうね」
「何で?」
「貴族のご令嬢がたーくさん寄って来て」
ルシナは肩をすくめた。
「それは確かに面倒だな」
「女の子って怖いのよ。あたしが行ってるのは女学院だから、もう本当に怖いわ」
ルシナは眼を丸くした。
「学校に行ってるの?」
「うん。中等部から編入したの」
「じゃあ、君は今学校をさぼって家出してるわけ?」
「今は春休み中。さぼってないわよ」
ルシナは感心したように、
「へえ……一応そこはちゃんとしてるんだ」
「勉強はそんなに嫌いじゃないしね」
「想像できないよ、君が学校に通ってるところなんて」
リリィはにやりと笑う。
「制服姿、見てみたい?」
「少し」
「自分で言うのもなんだけど――」
「わかったわかった」
やれやれとでも言うように、ルシナは首を振った。その呆れたような表情には、確かに楽しげな笑みも混ざっていた。
* * *
いつも通り、木々の足元で枯葉の上に横になった。
余程疲れていたのか、リリィはすぐ眠りに落ちた。
いくらこのような生活の方が良いと言っても、少女の体にはきついだろう。ルシナはリリィが背にして寝ている木と向かい合っている木にもたれかかって座っていた。
あまり疲労は感じないので、眠気も特になかった。
道中、リリィから亜人や暗黒大陸についての話を聞いていた。暗黒大陸は厳しい自然に覆われた場所だという。失われた過去で、そのような地に暮らしていたなら、この程度で疲れを感じることはないのだろう。
ルシナは数日前に見た、奇妙な出来事をリリィに話そうか迷った。
悪魔が囁くように語りかけてきた、自分と同じ顔をした男。
あの時以降彼と会うことはなかったが、ふとした瞬間に彼のことを思い出しては、言いようのない不安にかられた。
彼は一体何者なのか。自分の心が作り出したただの幻影だったのか……
そのことをリリィに言えば、彼女はきっと心配して真剣に考えてくれるだろう。しかし、何となくあのことは他言してはいけないような気がして、リリィには言えずにいるのだ。
(あれは何だったんだろう……あいつの言うことが本当なら、俺は記憶を取り戻すことができるのか……?)
月明かりはないが、ルシナの眼は暗黒を見通すことができた。かすかな風が葉を揺らす音も鮮明に聞こえる。
少し離れた場所に眠るリリィの無防備な寝顔も、はっきりと見える。
ルシナは立ち上がっていた。ほとんど無意識のことだった。
音も立てず、リリィのもとに歩み寄る。
「…………」
屈んで、仰向けに眠るリリィの頬にそっと触れた。少しだけ開かれた唇からは穏やかな寝息が漏れている。
ゆっくりと手を下ろし、リリィの服の襟をつまんで少し引っ張った。
二つの牙の痕。この傷を付けてからまだ数日しか経っていない。傷は薄くなってなどいなかった。
リリィの首筋の傷に触れるたび、あの時の衝動が思い出される。
あの時――腕の中で瞳を閉じたリリィに応えようとした時、熱を帯びた狂暴な何かが、何の前触れもなく一気に噴き出したのだ。
猛烈に、リリィが欲しいと思った。いや、ルシナの中に潜む魔人の本性がそう叫んだのだ。
この爪で少女の体を切り開いて温かい心臓を取り出し、食らえと。その瑞々しい血を残らず啜れと。
心臓が激しく脈打ち、全身に沸騰しているかのように熱い血液が巡り、鋭い魔物の爪と牙がリリィを殺すべく疼きだしたのを覚えている。
同時に恐怖した。このまま自分の体は恐るべき魔性に乗っ取られてしまうのではないかと。
眩暈がしそうな熱の中、リリィに背後から抱きしめられた時、彼女を殺さなかったのは奇跡に近かったと思う。
欲望に全てを任せて、楽になってしまいたかった。だが、その後に押し寄せてくるであろう絶望と後悔を思うと、かすかに残った理性が何とか衝動を留めた。
しかしそれも、リリィの言葉を聞いた途端どこかに吹っ飛んでしまっていた。
気付いたらリリィの首筋に牙を穿ち、彼女の心臓をまさぐっていた。それでも、リリィの首を噛み千切らなかったのは――彼女の左胸を貫かなかったのは、何らかの感情が働いていたのだろう。
リリィの溢れる血を啜っていたら、不思議と落ち着いてきた。
赤い泉から口を離し、組み敷かれたリリィの顔を見た時――その涙が滲んだ、怯えきった表情を見た時、再び理性が体の支配権を取り戻した。
行き場を失くした右手の爪は、主人の左腕に食い込んでなお暴れたが、痛みが広がるにつれて大人しくなった。
今思うと、怖かったのだ。
空白の記憶に初めて刻まれた存在。リリィに怖がられたくなかった。嫌われたくなかったのだ。
「リリィ……」
小さく、言葉に出してみる。リリィは眼を閉じたままだ。
ルシナは少しごわついた金髪を一房手に取ると、そっと口付けた。




